ごころ

森川めだか

ごころ

ごころ

   森川 めだか


幼心


 これは、僕の一番幸せな頃だった。


女は海。

「ハチのムサシは死んだのさ」

わたしはアメリカと運命を共にすることに決めた。

GIが手を貸してくれる。

「セーラ、フライト?」

「frighten(ちょっと怖いわ)」

手には今朝、化粧箪笥から見つけた煙管を持っている。

数多の手垢で燻し銀に光っている。

血縁は、連綿と続く記憶の連なりだ。

キリコの絵のように迷い込む。

そこには光と影しかなく、訪れた者を黄昏の世界へ誘い込む。

でんでん虫の家は巻いている。

わたしは寄せ木細工のように聞いた話を語ることにしよう。

わたしは別紙に姿が消える。

空軍機からは遠く富士山とじさんが見える。

ジプシーが夜明けに旅立つ。

わたしはジプシーじゃない、ショーガールだ。

 あきはプロのカメラマンだ。

女だてらにここまで来るのは大変だった。

写真集も一、二冊出している。

いずれもヘルシンキの白い夜を映した地味なものだ。

今もヘルシンキホテルに泊まっている。

望遠で近くに現れた鹿を写すとカメラの手入れを始めた。

明日にはウルグアイに発っている。

それまでは冬が好きだった。

北欧の人たちはパジャマみたいな服を着ている。

日の延びるのが早くなってヘルシンキの良さが失われた。

私は渡り鳥のようだ。

夏しか知らない回遊魚のように、冬を追い求める。

冬の先に何が待っているのか、待っているのは私の方だ。

ホットミルクを注いだ。

振り返るとママがいる気がする。

いつからこんなことになったのか。

自分でも下らないと思う。

 日本のどこか。多分、有明海かその辺。

五雲いくも矢立やたて家に生まれて何の不満もなかった。

子供は愛をためる器だ。

一姫二太郎と言うが遂に弟は生まれなかった。

祖母に預けられることが多かった五雲は楚々として育った。

「こうして使うんだよ」

祖母は煙管の先に煙草葉を押し詰め吸ってみせた。

コッコッと灰を落とす所作が堂に入っていた。

秘密で吸わせてくれたこともあったが煙は肺まで届かず蒸せた。

祖母の唇は乾いて乾き切って滅多に笑わなかった。

幼い頃の五雲は病弱だった。

すぐに風邪を引いてはこじらせた。

ラタンの椅子に座らされて吸引器を吸った。

指ではクルクル回るラタンの隙間を面白がっていた。

誰の趣味だったのか、ラタンがよく使われていた。ラタンの椅子、ラタンのサイドテーブル、ラタンの電話台。

後になって、安かったからだと知った時は、少し嬉しくもあり、切なくもあった。

痰が出てきたら、風邪の終わり頃だ。

白い朝を吸って、お粥さんを食べる。

寄せ木細工の中に老人が座っている。

お内裏さまだ。

二人並んですまし顔。

ごにんばやしのふえたいこ

祖母が亡くなった時、五雲は煙管をねだった。

「あんた吸えないでしょ」

「大人になったら吸う」

煙管はお人形さんたちの中に紛れたが、くまさんがよく吸った。

痩せてはいたが、だんだん丈夫になってくるのを両親はとても喜んだ。

「迷いの森には近付くなよ」

迷いの森というのは迷わされるのではない、心が迷わされるのだ。

造成地が多くなっていたが、迷いの森だけは取り残されていた。

くぬぎの葉は枯れても、人の手を拒んでいるようだった。

矢立の家では行き遅れるからと、母が雛人形を片付けていた。

 飛行機は白かった。

巻積雲が近くに見えた。

出版社から「やってみない?」と言われた仕事は初めてだった。

飛行機の中は狭く、窓側だった。

飛行機の中はもうウルグアイ語で、聞き取れなかった。

言葉は通じなくても写真は通じる。

レンズを向けるとみんな笑顔になってくれる。

特に子供がそうだ。

いくら貧しくても、粗末な恰好をしていようとも、一様に得意満面の顔をしてみせるのだ。

カメラが何か知らなくても、子供の顔は明るい。

雲海の写真を撮っていると、隣の席が空いた。

たどたどしい英語でトイレはあるのか? と尋ねている。

残念ながらありません、とジェスチャーで示され、隣の席に戻って来た。

「やれやれ」

日本語だ。

「日本の方ですか?」

「おや、あなたも?」

男は少し恥ずかしそうに笑った。

「今、どこりゃへんか分かりますか?」

「少しなら・・、カラコルムとか聞こえますけど」

「山ですね」

男は身を乗り出して窓の外を見た。

腕が長く当たりそうで、晶はのけぞった。

「ご気分がお悪いんですか?」

「いえ、小水です」

晶は気色ばんだ。

ようやく手を離して隣の席に落ち着いた。

カメラに興味を示さないところを見ると、観光客と思われてるようだ。

この男が言葉も分からない国に何をしに行くのか、妙に落ち着いている。

仕事でもなさそうだ。それに服が薄い。

薄笑いさえ浮かべている。

「乱気流」

「え?」

「ここりゃへんはね、難しいんですよ。山の方に渦巻いてますでしょ? よく巻き込まれるんだよな」

パイロットの方ですか? と聞こうとした時ガタガタと機体が揺れた。

赤い光が点滅する。

よろけたアテンダントが手を下にしてコームダウンと叫んでいる。

手荷物を下ろし抱える人が何人もいた。

「あなたはいいんですか?」

「何も持ってませんから」

私はこれさえあれば。晶はカメラを脇に挟んだ。

「落ちますよ」

死ぬのか。

セーラとともに何か書こうとしたが紙とペンが見当たらない。

男が胸からマジックインキを手渡した。

トレイに「愛してる」と書き、男の方を見た。

機体が斜めに傾いた。

晶は男の足元にずり落ちた。


 青い山々が続いている。

耳の奥が痛い。

エアバッグに挟まれて晶は何とか生き延びたようだ。

そこは地獄絵図というには余りにも静粛で、飛行機も遺体も雪のように横たわっていた。

足を引き抜くと飛び上がるほど痛い。

何で私だけ生き残ったのだろう。

足に機体の破片で副木をして、ガムテープで巻いた。

男は胴体を挟まれてぐったりとしていた。

風の鳴る峰々は冷たく、岩肌が海の底を感じさせる。

「おい」

晶は文字通り飛び上がった。

男が声をかけてきたのだ。

唇の端が切れている他は傷もしてないようだ。

「動けます?」

「無理だ」男は上半身だけを起こして手を振った。

「肉を持って来てくれないか」

「はい?」

「肉だよ、肉。辺りにあるだろう」

晶は眉をひそめた。

動物らしい動物はいない。

人か。

「私、そんな事出来ません」

「死んでるんだから同じだろう」

晶は辺りを見回した。

不運というべきか男と二人だけのようだ。

晶は残ったガラスを拾った。

散らばった遺体の一部を男の前に置いた。

男は生のままこびりついた肉を歯でこそげた。

「固いな」

「私、出来ませんごめんなさい」

「血が必要なんだ」

「私、出来ません」

「腹が減ってるからだ」男は怒り出した。

そこだけが場違いで、晶はしばらく脱力した。

晶は服をまくって切り出した。

人肉は鯨の肉のようだ。

男は血を吸い、肉を欲した。

晶は切り取った肉を男の前に盛った。

男はガツガツと食べ、晶はこの惨状をカメラに撮った。

巻き戻すとホテルで撮った鹿がぼやけて、後ろの山があさぼらけのように白い。

男を撮ろうとした。

なぜかシャッターが開かなかった。

男が目をひんむいている。

息を止めている。

「どうしたんですか?」

「喉に・・」

男の前にはまだ肉が余っている。

「水!」

晶は川を探そうと斜面を下った。

雪を食べさせればいいと気付いて、戻ると男は死んでいた。

晶は男の前にひざまずいて引っ張り出そうとしたが、脚までだった。

晶は板を挟むように立てて男の首をねじ切った。

それを高々と掲げ、空の神に祀った。

「熊生み」

もう何も語るまい。

晶の顔に男の血がポタポタと滴る。

首を立てるように置いて、晶は男の体を丁寧に解体した。

川に下り、ドクダミを食べた。

川は半分凍り、シャリシャリと声を持たないはずなのに流れていた。

晶はドクダミの葉を口に詰め、とにかく下に下りた。

不思議なことに下に下りるごとに雪は深くなっていた。

「おーい」誰かを呼んだ。

「おーい」

胸まで埋まった。

体の芯まで冷えても、血は温かかった。

シェルパの足跡があった。

 その時、弟の朋は力石の葬式に参列していた。

朋は生まれついての弱視で、物がほとんど見えない。

肺塞栓で蝉花せんかが亡くなってからは、遺してくれた土地を切り売りして生活している。

ずぼらな性格は姉に似なかった。

アル中で、その時も酔っていた。

「立つんだ、それでも立つんだジョー・・」

朋の目にはあしたは見えなかった。

今日の先があるだけだ。


気心


「忘れられないのあの人が好きよ」

わたしはパンパンだ。

今も踊って、服を脱いでいる。

GIたちがこぞって見に来る。手を叩いて、猿回しを見るような目で見る。

露わになっても、笑い、ピューイと指笛を鳴らし囃し立てる。

キンゼイレポートでは半分がゲイだというが、わたしはそうは思わない。

男は女を求める。

女は男を求めない。

男は女の向こうに理想を見て、女は男の前に現実を見る。

スプートニクのショックでGIたちはアメリカへ帰って行く。

現地妻は軽蔑され、身の置き場がない。

パンパンの同僚たちと話してても、皆負い目はない。

デカダンスな空気が日本を覆っていたが、今はオイルショックで乱痴気騒ぎになっている。

トイレットペーパーは買い占められ、買い求める人にあふれ、下の世話でいっぱいじゃないか。

派手な花柄で、ゴールデンバットを吸ってるとすぐバレる。

人込みの中から手が伸びてくるが、わたしは青い目の子供は欲しくない。

「美しい人生よかぎりない喜びよ」

アポロが月面着陸する気だとGIは乗り気だった。

やっぱりアメリカはすごかったんだ。

日本にいるどころじゃないぞ。

GIたちは引き揚げていった。

わたしは花菖蒲の柄の法被みたいな上掛けをして、唇をヌリヌリしている。

客は真っ赤な口紅を好む。

ルービックキューブのような赤を欲しがる。

支配人はGIからもらったトカレフをさかんに自慢している。

「お前らなんか簡単に殺せるんだぞ」

そう聞こえる。

出番が来た。

今日はどんな曲がかかっているだろうか。

真っ赤な色彩のミラーボール、現実離れしたジュークボックス。

わたしは法被をラタンの椅子に掛けて、腰を回した。

始めから肩ひもをずらしておく。

さも遊んでいるように尻軽に歩いていく。

赤い照明が目に突き刺さった。

「ハロウ」

わたしを見るためにやって来た客などいない。

皆、幻影を見に来たのだ。

豊かだったアメリカか、裕かだった日本か。

もうそこにはいない、ストリップが始まるだけだ。

獣の唸り声のようなハウリングが響いた。

 晶は羊蹄山にいた。

まだ晶がアマチュアだった頃だ。

晶も朋もママに捨てられたと思い込んでいる。

朋の代わりに見る。

晶は夢中でシャッターを切った。

この日は「イオマンテ」という儀式を撮影させてくれるという。

蝦夷の先住民、ウタリの神事だ。

残雪、落葉松に霧氷が立っている。

晶は濡れ髪で、ボアのベスト。

ウタリは爪がとても汚い。

「海も奪われた」と恨み節が続いた。

晶はホットミルクを飲んでいた。

居留地の羊蹄山はサラサラした砂に覆われて、まだ若いヒグマが連れて来られた。

聞いたところによると、山で狩られた親熊の子供を飼い、わざわざこの日のために殺すのだと。

まず、オリに囲われたヒグマの尻に矢を射り「遊ばせる」。

次に、丸太でヒグマの首を挟み切り落とす。

イオマンテはここからだ。

ウタリたちはユーカラを歌い出す。

昔からの言い伝えだ。

「カワガラスが・・」ウタリは途中でいきなり語り出すのをやめる。

カムイが帰って来るようにだ。

ヒグマの首は恭しく祀られ、解体した肉を食べる。

招待された客にも振る舞われた。

ケバブのような味だ。

晶が下手なのか、ウタリの人々が皆、赤目になってしまった。

儀式はまだ続いている。

晶はタンチョウを撮っていた。

首筋に冷や汗が落ちた。

気分が悪い。

晶はその場で座り込み、目を閉じた。

赤ん坊の泣き声がする。

私か?

晶はフワフワした足を前に運び、オリに手を付いた。

ヒグマの死体から人の子を取り上げた。

煙に阻まれて誰にも気付かれてはいない。

砕け散る。

これがバッドトリップというものか。

セーラ・・セーラ・・。

過去と未来が入れ違う。

ママ、パパは・・。

血から生まれる。

おぎゃあ、おぎゃあと言う声は誰にも聞こえないのか?

晶はホットミルクをカップごと落とし、赤ん坊を抱いて車に乗り込んだ。

ボアのベストで包み、暖房をいっぱいに効かせて、ハンドルに倒れ込んだ。

外に吐いて、山を下りた。

 朋が切り売りした結果、家は鰻の寝床になっている。

現像して来たからちょっと時間がかかった。

朋は奥の部屋でアニメ漫画を見ていた。

散らかっている。

晶は朋の机の隣に写真を置いた。

セーラが急に泣き出した。

朋は目を丸くした。

「誰の子だ」

「セーラよ」

「ママと一緒だ」

「ママだって悪くないよ。ヨモギもち食べていい?」

「冷凍庫にあるよ」

朋はおっかなびっくり拾い上げた。

「女の子か」

「どこ見てんのよ」

電子レンジでチンした。

ラップにへばりつく。

「あち」

「元の木阿弥だよ」

「大袈裟」

それでも朋は愛おしそうに眺めていた。

分厚いメガネの奥から優しい目が覗く。

「セーラか」

「哺乳ビンある」

「買って来ないと」

晶は朋が帰って来ないのを知っていた。

朋はパチプロだからだ。

庭には燕子花(かきつばた)が咲いていた。

ホットミルクを作っていると、朋の椅子とセーラの産着に細い日が差していた。

 ふきのとうが息衝いてる。

草地を歩いてるの。

啓蟄の朝。

迷いの森に人が入って行くのが見えた。

「いけません、いけません」

くぬぎの木の下で開いた文庫本で顔を隠して眠っている男がいた。

それが蝉花だった。

ほとめく。

「あの、もし・・」

二人は一目で恋に落ちた。

進藤しんどうです」

「ここは迷いの森といって、お加減は・・」

「何ともありませんでしたよ」

二人の間に団栗が落ちていた。

「本を読んでて全然別のことが気にかかることがあるんです、存在は無か」

蝉花の文庫本はすりきれてて表題も見えない。

「AtamaとBody、それが人間のすべてと思うんですが、それでは存在が無になってしまう」

「あなた、C型ですの」

「存在は無か」

五雲は黙ってしまった。

「なんか禅問答みたいだな」蝉花は苦笑いした。

「今度会う時まで考えてくれませんか?」

五雲は肯いた。

「分かりますか?」

「分かるかどうか・・」

迷いの森の入り口には「立ち止まれ」と札が立っている。

木の上にキジが止まっている。

ウンカが蚊柱を作っていた。

「分かってないようだな」蝉花はまたも苦笑いした。

サーキュレーターが回る音に合わせて五雲は考えていた。

初め、浮かんできたのは青い風船だった。

うつし世。

ここが正念場だ。

五雲は新聞を開いた。

全然別のことが浮かんできた。

顔を赤くして、五雲は迷いの森に入った。

待っていたように蝉花が立ち上がった。

「その前に、私からも質問を出しておきます。心とは何か?」

「心とは何か」

「存在は無かと仰いましたね、私の答えは・・」

白鳥は哀しからずや空の青海のあをにも染まずただよふ

「私が考えたんじゃないんですの、あっ」

蝉花が後ろから五雲を抱きすくめた。

「いけませんか」

「いいえ、あの・・」

蝉花の手は女の手のように細かった。

ほどなくして二人の子供が生まれた。

「早世した親戚の名前を自分の子供に付けると長生きする」という五雲を、「迷信だよ」と蝉花は笑った。

女の子には蝉花の早世した父母の名前、あきらから晶、男の子にはともこから朋と名付けた。

蝉花は孤立無援だった。

五雲に持たされた化粧箪笥に煙管の入っているのをすっかり忘れていた。

赤い靴はいてた女の子

異人さんにつれられて

今では青い目に

晶は出来がよかった。

その点、朋はおとぼけさんで、家族を楽しませた。

弱視に生んだのは運がなかったけれど、もっと笑った。

「お日様が三つ、お月様が二つ」晶と朋は蝉花のかすがいになっていた。

「魘されてたわよ」

「うん」寝室で何がおかしいのか蝉花は笑った。

七五三が最後の写真になった。

蝉花が行方を晦ました。

五雲は夜も寝られず、蝉花の夢ばかり見た。

あなた、どこにいるの?

蝉花は川を渡ろうか思案している様子で、こっちの声が聞こえない。

何か伝えようとしているのか寂しそうにこちらをじっと見ている。

いつしか形が崩れて泣いている幼な子になった。

五雲は川を渡ろうとする。

そっちに行っちゃだめ!

声を荒らげるのは晶と朋だ。

五雲は振り返る。

首を振る。

「葉の裏に毛があるのがヨモギだからね」五雲は無理をして晶と朋ともちにするヨモギを集めていた。

「ねえ、ママ、十二支の辰って鯉だったんじゃないかなあ。一人ぼっちでかわいそうだよ」朋の問いかけにも相槌を打つだけだった。

「どこが間違ってるか分かる?」

朋が持って来たテストの答案用紙だ。

「AはBを時速60kmで追いかけます、Bは時速13kmで自宅を出ます。

さて、AはBにいつ追いつくでしょう?

A.Bはまもなく追いつく」

「だってさ、自宅がどこか分からないじゃないか」

「屁理屈こねないの! 分からないなら分からないで・・」五雲は泣き出した。

「ママ、泣かないで」朋が励ましをぶつける。

晶も泣き出した。

朋は一人で口笛を吹いてラタンの椅子に座った。

「夜に口笛を吹いたら蛇が来るよ」

「ママ」朋は五雲に抱きついた。

晶も胸に抱いて三人で泣いた。

ムートンを着た蝉花が夢に出て来た。

出かけたままの姿だ。

三等列車に乗っている。

心配そうに窓の外を見る。

不安そうに振り返った蝉花の目と目が合った。

五雲は飛び起きた。

晶と朋を起こして、マフラーを巻いた。

「出かけるの?」

「ヨモギもち食べてて、冷凍庫にあるから」

何も疑わない子供の目を見て、涙が浮かぶ。

足早に家を出た。

髪を振り乱して走る。

電話ボックスの光は白。

「もしもし、今走っている三等列車は・・」

五雲は川を渡った。


親心


「別れても好きな人」

天皇が人間宣言をしたという。

まだ信じられない。

アメリカに接収された日本。

わたしは一人で白鳥が降り立つ湖を思い浮かべる。

そこにはいつも少年が一人で座っている。

寄り添うように白い痩せた馬が首をうなだれている。

少年も紙のように白い服をプルオーバー。

夜だ。

星が降って。

その山の中の森の中の湖は女の聖地だ。

女は時を止められる。

「ミストレス」

アメリカの紳士が席を譲るように詰めてきた。

わたしは駅の雑踏の中にいた。

わたしはあんたの100倍疲れてる。

上野まで来たはいいが、どこへ行こう。

「苦しくたって悲しくたって」

歌い出すと、老紳士は怪訝そうな顔をして、英字新聞で顔を隠した。

そうだ、ストリッパーになろう。

日本人の裸を見せてやろう。

痩せた白い肌を見せてやろう。

女の世界は六面体だ。

わたしはフットカバーを手に取った。

老紳士が目を背ける。

メガネひもを取った。

紳士は横を向いて脚を組み替える。

アメ横に行けば服も売ってるし、フランクフルトも売ってる。

「好きな色は?」

老紳士に聞いた。

紳士はうるさそうに、「あっちに行け」と示す。

赤い電車がホームに来たところだった。

上野も赤い。

「ありがとうって英語で何て言うの?」

肩に手を置いた。

とうとう紳士は席を立った。

周りの人に何か吐き捨てた。

「ジャパニーズ、プリーズ」

わたしはメガネをかけ直した。

人間の小さくは心の中だろう。

 朋はセーラのみそパンを洗っていた。

「これでいいのだー」

晶は帰って来なかった。

この頃、晶が若い頃の母とオーバーラップする時がある。

ネックウォーマーを巻いたあの時の顔を今も覚えている。

それぐらい姉は母に似ていた。

セーラを残していなくなったのも同じだ。

昨日は打ち止めだった。

この頃はあっちも渋くなって、確変を引かなくなった。

大家からは立ち退きを迫られている。

朋は晶にも秘密で家を担保にしていた。

セーラがはっぴいえんどを聞いている声が聞こえた。

セーラは聞いている歌を歌ってしまうのだ。

裸でテレビの前に座っているのだろう。

朋は台所に飾った晶の山の写真を見上げた。

どこの写真か、富士山じゃないかな。

それが弱視の自分のためのようで、やはり想っているのだ。

洗ったばかりのパンティーを広げて、干しに行った。

セーラが付いて来る。

今日もいい天気だ。

ロンリーサムのことを知りもしないで。

朋はロンリーサムのニュースにショックを受けていた。

絶滅したと思われていたリクガメが一人だけ発見されたというのだ。

セーラは朋のことを「パパ」と言う。

「パパ、始まるよ」

正午のニュースだ。

二人してテレビの前に座った。

野放図に振り回されたロンリーサムが一番のニュースかと思ったが、違った。

「今、入ったニュースです」

「何だろう」セーラがあぐらをかいておならをした。

「ウルグアイの飛行機が墜落したというニュースが・・」

キャスターが右往左往している。

「大使館は至急・・」

晶はヘルシンキホテルに泊まると言ってなかったか?

「乗客は絶望的・・」

朋は目を近付けた。

「コンコルディア付近で消息を・・邦人は・・」

息を呑む。

「シンドウアキ」

「かみさあ!」朋は叫んだ。

朋は頭を抱えて泣き出した。

「パパ」

「ママが死んじゃったよお」セーラを抱いた。

「パパ泣かないの、ほらてくまくまやこん」セーラがキラキラ光る棒を振った。

「パパ、泣かないよ。だって、シャア・アズナブル、赤い彗星・・」

セーラはてくまくまやこんと言い続けた。

晶はピリカを見ていた。

北極星だ。

写真に撮った。

「カメラマン?」

シェルパの背に抱かれていた。

「イエス」

シェルパの顔にもカメラを向けた。

赤い泥だらけの顔が得意満面で歯を見せた。

フィルムはそれで終わりだった。

自動で巻き直す、ジージーという音を聞きながら晶はこれまでにない眠りについた。

 晶と朋は祖母の家に預けられていた。

「おねえちゃん、立腹してるよ」

「エンジェルさんエンジェルさん出て来て下さい」

コッコッ、晶と朋の指が動く。

「パパは今どこにいますか?」

蝉花は列車強盗に巻き込まれていた。

今どこを走っているのかも分からない。

窓の外は雪が降っていて、犯人が何を求めているのかも知らされていない。

冬なことは確かだ。

子供たちはどうしているだろうか?

五雲は・・。

五雲は蝉花の夢を見ていた。

一便だけ欠航している三等列車を待っている内に寝てしまったのだ。

なぜか、蝉花は証言台に立っている。

「弁護人、それではあなたは毒など盛ってはいないと」

「はい、年に一度の馳走ですから、私は知っています、そばアレルギー」

「検察官、毒見をした者がたまたまアレルギーだったと?」

「食べつけない物を食べたからでしょう、ご主人様に私が」

「死人に口なし!」

「静粛に!」ドンドンと木槌が叩かれる。

その音で五雲は目を覚ました。

「あの、まだ・・」

「本当に、どうしたんでしょうね」

夫を何も分かっていなかった。

夫婦は他人より遠いとはよくいったものだ。

祈るしかない。

蝉花は脱水症状を起こしていた。

誰かが粗相をした匂いが漂っている。

雪を食べたい。

蝉花は窓を少し開けた。

すごいことが起きた。

五雲が人の編み目を縫って近付いて来る。

「日本とはトロイの木馬です」

蝉花は思わず頬をすり寄せた。


里心


 五雲は待つのをやめて蝉花の生まれ故郷に来ていた。

古くからの宿場町で昔からの家並みが残されていた。

あれ以来、蝉花の夢を見ることはなかった。

ここならば、蝉花の何かが分かるかも知れないと思って来たのだ。

私の知らなかった過去、蝉花という人も。

打ち水をしている人に道を聞くふりをしてそれとなく聞いてみる。

「進藤さん? それならお師匠さんに聞いてみるといいよ」

「お師匠さん?」

「あそこで舞踊の見稽古している」

立ち居振る舞いでその人と分かった。

着流しを着てしゃなりしゃなりと歩いている。

「進藤? ああ蝉花のことか」

「先生、お帰んなさい」

「あい、気を付けてね」

「あの人、何か変な事したんですか」

「変な事? 充分、変だったけどね」

「何か、人に裁かれるようなこと」

「それ、寄席ですよ」

「え?」

「あの人も私も落研でね、筋が良かったなあ」

「落語ですか?」

「そう。葉隠れ何とかって言って、新作落語ばっかりウンウン唸って考えてましたですよ」

「落語ですか」

「席が届かない、あなたの傍まで、って言ったかな。そばが何チャラっていう奴でしょ?」

五雲は一人、得心が行った。

「以上、老婆心でした」

お師匠さんは五雲の肩を叩いた。

「夫婦は色々あるわよね、夫婦はね・・」

五雲は一人で何度か肯いていた。

「あいつも一丁前に夫とはねえ、時が経つのは」

お師匠さんは笑いながらどこかへ行ってしまった。

五雲は落ち着いて宿を取った。

レールの音がした。

 とうとう家を追い出された。

団地に再開発されるそうだ。

セーラが先を歩いて行く。

「アムロ、いっきまーす」セーラが踊り出した。

「今夜からは少し照れるよね」キラキラ光る棒をマイク代わりに歌い出した。

こんな幸せもいいなあ。

朋は空を見上げた。

ママもパパも、今度は晶までもがいなくなろうとしている。

ポケットに手を入れた。

いつかこんな家族がいなくなるといいなあ。

晶は足を折っていた。

アメリカまで空輸されることになって、珍客と一緒だった。

ロンリーサムというリクガメだ。

首を引っ込めた姿はあの男と一緒だった。

マジックインキに蛾が集まってくる。

観葉植物だと思っていたサボテンをロンリーサムが食べ出した。

「腹が減ってるからだ」

とにかく雨。

あの人のお小水。

晶はロンリーサムと一緒に夕刊に収まった。

自分が写真に撮られるのは久しぶりだ。

家に帰ったら七五三の写真を飾ることにしよう。

やっとホットミルクが飲める。

 目が覚めると五雲は暴走機関車13号の倉庫にいた。

膝まで眠る。

雄鶏みたいに水飲んでさ。

夢より狭い。

まだ夢の中にいるのか。

脇目も振らず蝉花を探す。

人の波間を縫って歩き出す。

泥炭を巻き上げて、アメフラシに姿を変えた五雲はウミウシの蝉花に近づいていきました。アメフラシはウミウシと呼ばれています。背中合わせの二人は合体して心の名前になりました。海ゆかばです。

蝉花はドアコックを開けた。

五雲は蝉花の涙の跡になった。

何もないカルストが広がっていた。

大地が盛り上がる。

釈迦の顔が覗いた。

「あなた方は私のたなごころの中で暴れていたのですよ」

雲が晴れた。

抜けるような青空。

心とは老婆心のしわよせだ。

如来の手から降り、団栗が落ちていた。

そこは迷いの森だった。

ひなぎくのように黄色い朝。

「立ち止まれ」と書いてある。

蝉花は立ち止まって、一瞬考えて歩き出した。

僕たちは背中合わせの冬が終わってしまうけれど。

子供たちの待っている家へ歩き出した。

 わたしはレイヤードだ。

日本のどこか。多分、諫早湾の近く。

鱈の形をした雲。

一基の墓がある。

「細君、ここに眠る」と書いてある。

パンパン、墓の前で一拝二礼した。

自暴自棄になって、煙管を吸い過ぎて、喉灼けして、艶がなかったが五雲の声だった。

煙管を吸う口が乾いている。

細君の字を指でなぞる。

蝉花の手形に手を合わせる。まだ小さかった晶と朋にも手を合わせる。

「あなた、お帰りなさい。ただいま、わたし」

わたしは海という川で拾った二枚貝を置いて立ち去った。


生きていたとは御釈迦様でも知らぬ仏の

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ごころ 森川めだか @morikawamedaka

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