シャンプーの匂い
若木士
シャンプーの匂い
部室棟三階の一角に位置する、映像研究同好会の部室。
埃っぽい部室の中はとても手狭だった。ただでさえ狭いのに、段ボール箱が所狭しと積み重ねられていて、ひとつだけある木製の棚にも本やら工具箱やら謎の機械やらが押し込まれている。そして部屋の中央には五つの学校机が固め置かれていて、椅子に座った総勢七人の部員がそれを囲っていた。
「とまあ、今年はこんな内容でいこうと思う」
部長の伊神先輩が、部員たちに向かって言う。
わたしたちの手元には、表紙に『2023年秋涼祭用台本(仮)』とだけ書かれた台本がある。秋涼祭とは、わたしが入学した高校で行われる文化祭の名前だ。毎年十月に開催され、わたしが所属する映像研究同好会は、そこで自主制作映画を発表するというのが恒例になっているらしい。そして今、一学期の中間試験が明けてわたしたち新入生も高校での生活に慣れてきた頃、映画制作についてのミーティングが部室で行われているのだった。
「それでまあこれが問題なんだけど、主演、誰かやりたい人いない?」
伊神先輩は困ったように部員たちを見回す。
というのも、わたしを含めて部員のほとんどは、役者をやりたくてこの部活に入ったわけではないのだ。映画自体が好きだとか、作ってみたいというような動機が大半で、かくいうわたしも新館で誘われてなんとなく入ったという有様だ。つまりは、誰も主演をやりたがっていないのだった。ちなみに去年までは、バリバリ役者をやりたいという人がいたらしい。
開け放たれた窓から風が吹き込み、台本のページとわたしのもみあげを揺らす。
「あの」
隣に座っていた千草ちゃんが手を上げた。二人いる一年生の内の、わたし以外のもう一人だ。
部員たちの視線が一斉に千草ちゃんに集まる。
「お、瀬川ちゃんやる?」
「そうじゃなくて、提案なんですけど。うちのクラスに紫音ちゃんって子がいて、頼んでみるってのはどうですか?」
「紫音ちゃん……?」
伊神さんが顔をしかめる。
「はい、織笠紫音ちゃんです。美人できっと映画映えすると思うんですけど、この話にもなんとなく合いそうですし」
千草ちゃんは、膝の上に置いた台本のページをパラパラとめくっていく。
わたしは一組で、千草ちゃんは三組。クラスが違うので、その紫音ちゃんという子のことは知らなかったが、そういえば三組にすごい美人な子がいるという風の噂を聞いたことがあった気がする。
「紫音ちゃんかぁ」
「あれ、知ってます?」
「ん? いや、知らないけど……」
「駄目ですかね?」
「駄目っていうか、映像研じゃないじゃん。それにやってくれるかも分からないしさ」
「まあいいんじゃない」
伊神先輩の隣から、滝先輩が口を挟んだ。わたしたちの手元にある台本を書いた張本人だ。
「訊くだけ訊いてみようよ。それで嫌って言われたらまた考えれば」
「うーん……」
伊神先輩は俯いて右手の人差し指をこめかみにあてる。あまり乗り気にはなれないようだった。
「じゃあ栞奈ちゃんがやる?」
「それは……いや、うん。分かったよ、滝ちゃんがそう言うなら……」
伊神先輩は渋々と了承する。
それから今後の予定をいくつか確認したのち、ミーティングはお開きとなった。
部室にやって来た織笠さんは、千草ちゃんや噂が言っていた通り、美人だった。身長は高く——まあ、百五十センチしかないわたしに比べればたいていの人は高いのだが——、ウェーブがかった黒いロングヘアの両サイドを肩の前に流している。
彼女の姿を見て、そういえば何度か廊下で見かけたことがある子だと思い出す。違うクラスだし接点があるわけでもないのであまり気に留めていなかったけれども、しっかりと印象に残っている。
おっとりしているな、というのが間近で見た時の第一印象だった。そしてその印象通り、彼女の喋り方はまったりとしていた。
千草ちゃんと滝先輩による勧誘は見事成功したようだった。聞いたところによれば、以外にもあっさりオッケーしてくれて拍子抜けしてしまったということだ。
それから織笠さんを交えて何度か撮影に向けたミーティングが開催され、台本の細かいところを詰めたり、撮影の段取りを決めたりした。
そして土曜日、午前十で授業が終わって迎えた放課後、いよいよ最初の撮影日がやって来た。
部員たちは部室に一度集まり、そこから必要な機材や小道具を取り出して、撮影場所である校舎の屋上に順次向かって行く。
「峰岸さん、三つ編みとかってできる?」
唐突に、滝先輩がそんなことを言ってきた。
ガンマイクを段ボール箱から取り出していたわたしは、手を止めて振り返る。部室の出入り口の前で、織笠さんと滝先輩が台本を手に向かい合っていた。
「三つ編み、ですか?」
「うん。織笠さんにやってあげられる?」
「できますけど、そんな設定ありましたっけ?」
「いや、なかったけど。なんか足りないなって思ってたんだよね。今わかった、三つ編みだよ。それで役のイメージにしっくりくる」
「別にいいですけど」
「ありがとう、じゃあよろしくね。わたしは先にそれ持って屋上行ってるから」
滝先輩はそう言うと、まだ部室に残っていた機材を抱え、なんとも軽そうな足取りで部室から去っていった。
後には、わたしと織笠さんだけが残される。
ふと、織笠さんを見ると、彼女もちょうどわたしを見ていて、二人の視線が重なった。
どことなくはかなげな織笠さんの目。二人だけという状況は初めてで、なんとなく緊張する。
「じゃあ、そこ座って」
わたしは適当な椅子を指して織笠さんを促し、部室の片隅に置かれていた自分のバッグの中から櫛とヘアゴムを取り出した。
椅子に腰かけた織笠さんの後ろに立ち、すっと櫛をその黒髪に通す。
すると、仄かに甘い匂いが漂ってきた。
「いい匂い」
「えっ?」
織笠さんに訊き返され、無意識のうちに呟いていたことに気付く。
「なんか、いい匂いだなって」
わたしは答えながら、もう一度櫛を髪の毛に通す。
黒く透き通った綺麗な髪の毛。同じロングヘアでも、ブリーチてベージュ色が入っているわたしの髪とは対照的だ。
とてもなめらかで、髪の毛をすく櫛は、何の抵抗もなく毛先まで滑っていった。
「もしかして、シャンプーかな? 朝やったからまだ匂いが残ってるのかも」
「この匂い、好きかも」
自然と、そんな言葉が漏れる。言ってから、自分で少しドキリとする。
「ありがとう」
「織笠さんって朝シャン派なの?」
「そうじゃないけど、昨日、お風呂入る前に寝落ちしちゃったから……」
「そうだったんだ」
そういえば、織笠さんとこうやってちゃんと話すのはこれが初めてかもしれない。
櫛をスカートのポケットに仕舞う。織笠さん右側の髪を三つに分けて、三つ編みを作っていく。
「シャンプーって何使ってるの?」
「なんだっけなぁ……」
織笠さんは逡巡する。その間に、くるくると三つ編みが伸びていく。
しかし、思い出すことはできなかったようで、
「今度、確認してくるね」
「うん、お願い」
翌週の月曜日、撮影前の髪を結う前に、織笠さんはスマホで使っているシャンプーの写真を見せてくれた。
それをスマホの共有機能で送ってもらい、家に帰ってから通販サイトで調べてみると、三千円程するものだった。シャンプーを自分で買ったことはないので、これが高いのかどうかは分からなかったけれども、お小遣いから出すとなるとなかなかの出費になる。毎月カツカツというわけではないし、高校に上がってお小遣いの額がアップしたこともあって余裕自体はあるのだが、それでも少し躊躇する。それでも、あの織笠さんの匂いを思い出し、わたしは購入ボタンをタップした。
二日後に商品が届くと、わたしはそれをさっそく使ってみた。そしてお風呂から上がってドライヤーで髪を乾かしてから、自室のベッドに腰かけて、いざ自分の髪の毛の匂いを嗅いでみる。
いい匂い。こうやって改めて嗅いでみる前から香ってはいたけれども、やっぱりそう感じた。
けれども、それだけだった。
確かにこれは、『いい匂い』だ。でも、『好きな匂い』とは感じなかった。
匂い自体は同じものだ。そこまで嗅覚に自信があるわけではないけれども、少なくともわたしが感じ取れる範囲では、織笠さんから漂っていた匂いとわたしから漂う匂いに、差は見つけられなかった。
にもかかわらず、わたしにはその二つが全く違うものに思えたのだった。
後日、わたしの担当として定着したヘアメイクの時に、織笠さんに使ってみてどうだったかと訊かれた。それに対してわたしは、「なんか、わたしの髪には合わなかったみたい」と誤魔化すことしかできなかった。
退屈な授業と終礼が終わり、教室のあちこちが騒がしくなっていく。
わたしは両手を組んで体を伸ばすと、さて今日も部活だと大して中身の入っていないバッグを手に取って立ち上がる。
と、バッグの中からスマホの振動音が鳴った。
どうやら、電源を切り忘れていたらしい。授業中に鳴らなくて運がよかった。わたしは教師がすでに教室からいなくなってることを確かめてから、バッグをあけてスマホの画面を確認する。
画面には、メッセージアプリの新着通知が表示されていた。そのままバッグの中でスマホを操作してアプリを立ち上げる。映像研究同好会のグループに伊神先輩からの連絡が届いていた。どうやら今日は斎藤先輩が部活に来れなくなったらしく、撮影は中止になるので帰っていいとのことだ。
わたしは了解のスタンプを返し、画面の電源を切ろうと指を動かす。
グループ名の横に表示されている、『(7)』という文字が目に入った。グループに入っているメンバーの数で、これは映像研究同好会の部員数と一致してる。
そういえば、織笠さんはこのグループに入っていないんだなと思い出す。彼女は役者として撮影に協力してくれてはいるけれども、部員として正式に同好会に加入しているわけではなかった。
すこし迷ってから、わたしは織笠さんがいるであろう一年三組の教室に向かった。
グループに入っていないとはいえ、伊神さんか滝先輩か、いずれにせよ連絡手段はきっとあるだろう。それなら、わざわざ私から伝える必要はない。けれども、一応念のためだ。
廊下を歩いていると、三組の教室から千草ちゃんが何人かと一緒に出てくるところが見えた。そういえば織笠さんと千草ちゃんは同じクラスだったな、と思い出す。同じクラスに同好会部員がいるのに、別のクラスからわたしが行く必要性があるのか、そんな考えが頭に浮かんだけれども、わたしはそれを無視する。
教室に室に足を踏み入れると、人がまばらだったこともあってか、織笠さんはすぐに見つかった。奥の後方の席に座って、教科書やノートを片付けている。
わたしは授業の板書が残っている黒板の前を通って、織笠さんの席に向かった。
「織笠さん」
「あ、峰岸さん。どうしたの?」
織笠さんは、バッグに荷物を入れながら顔を上げた。
「今日の撮影、中止だって」
「うん、聞いた」
「あ、そっか。千草ちゃんから」
わたしは気づかなかった体をよそおう。
すると織笠さんは、一度教室の出入り口の方を見てから、
「うん」
と頷いた。
「そっか」
わたしは窓の外に目をやった。転落防止に張られているネットの向こうに、向かいのビルが見える。何が入っているのかは分からない。
用は済んだというのに、わたしはまだ留まっていた。
帰り支度を整えた織笠さんが立ち上がる。
「あのさぁ」
さりげなさを装って、わたしは声をかけた。
「何?」
織笠さんはバッグの手提げを肩に掛け、わたしの顔を覗き込んできた。
目を合わせているのが恥ずかしくて、わたしは視線を織笠さんの肩のあたりの髪の毛に目を向ける。
自分でも分からなかった。同じクラスの友達を相手にするときは全くこんなことにならないのに。
そして二回ほど躊躇ってから、わたしは口を開いた。
「よかったら、一緒に帰らない?」
「えっと……」
織笠さんは少し考えこんでから、
「ごめんなさい。寄るところあるから」
「そ、そっか」
わたしは、心が動揺するのを感じながら返事をする。一緒に行っていい、という言葉は、胸の中で何かにつっかえて口に出せなかった。
「それじゃあ、また」
そう言って、織笠さんは廊下に向かって行った。
わたしは彼女の後ろ姿が見えなくなるまで、その場にたたずんで見送る。
どうやらわたしは、断られたことに思いのほか落ち込んでいるらしい。そしてその事実に、さらにショックを受ける。
別に、わたしと返るのが嫌と言われたわけじゃない。用事があるからと言われただけだ。
そう自分に言い聞かせても、織笠さんに拒絶されたという観念が胸の内でぐるぐるを回る。
帰ろう。
そう思って歩き出そうとしたとき、バッグの中のスマホがまたもや震え出した。
スマホ片手に、高校近くの本屋の店内を徘徊する。学校から駅に向かう途上にあるためその存在は入学当初から知っていたが、実際に中に入るのは今日が初めてだ。
本屋自体、行くことはほとんどない。読書が趣味というわけでもないし、漫画とかもスマホで読んでしまう。
織笠さんに振られた後、帰りに小説を買ってきてほしいという内容のメッセージが母親から届いた。わたしが今本屋にいるのは、そういった理由からである。
メッセージに書かれた本の情報を、本棚に示されている情報と見比べながら歩く。
そうやって周囲への注意を疎かにしたせいで、本棚の向こうから出てきた人とぶつかりそうになった。
「ごめんな——」
その相手の姿を見て、反射的に出た謝罪の言葉が止まる。
「あれ、織笠さん」
「あ、峰岸さん」
織笠さんもここでわたしと出会うことは想定外だったのか、少し目を丸くしている。
「寄るところって……」
「うん、ここ」
「買い物?」
「そういうわけじゃないけど、こうやって本屋の中を歩くのが好きで、よくやってるの」
織笠さんは手近な本棚に視線を流す。
「そうだったんだ」
言っていたことが本当だったことに安堵感を覚える。同時に、誘ってはくれなかったということに、少しばかり胸が痛んだ気がした。
「峰岸さんは?」
「お母さんに本買ってきてって頼まれたの」
「なんて本?」
「これ」
わたしはスマホに表示していた母親からのメッセージを織笠さんに見せる。
すると織笠さんは、たぶんこっち、っと言って歩き出した。
織笠さんは隣の本棚の真ん中あたりで前で足を止めると、人差し指を立てながら上から順に本の背表紙を確認していく。そして一番下で動きを止めると、指先の本を抜き出してわたしに渡してきた。
「はいこれ」
見ると、それは買ってくるように頼まれた本だった。
「ありがとう」
「どういたしまして」
わたしが本を受け取ると、織笠さんは再び本棚に向き直り、少し身をかがめて平積みされている本を眺め始めた。
ちょうど、織笠さんの頭が私の顔と同じ高さに来る。ふんわりと、あの髪の毛の匂いが香ってきた。
「わたしはこれにしようかな」
織笠さんは、平積みされている本の中から一冊の本を手に取った。
「好きな作家さん?」
「そういうわけじゃないけど、なんとなく」
「ふぅん」
わたしは相槌を打ちながら、その本があったところに目を向ける。
作者名もタイトルも、聞いたことがない。本に巻かれている帯によると、冒険物のようだ。
「わたしも読んでみようかな」
わたしは織笠さんと同じ本を手に取った。
本そのものに興味が湧いたわけではない。織笠さんと共通の話題を作りたい、そんな下心からだった。
そしてその目論見はさっそく成功したようで、
「じゃあ、読み終わったら感想話そっか」
織笠さんはそう言ってくれたのだった。
期末試験が終わり、学校は夏休みに突入した。
夏休みの間も、撮影は続く。基本的には学校とその周辺での撮影だったけれども、八月に合宿と称して海に行き、そこでロケも行った。太陽に照らされる中、靴を脱いで足首を波にさらす織笠さんの姿は、文字通り輝いていた。織笠さんは終始日焼けを気にしていたけれども、何とも彼女らしいと思った。
そして夏休みが終わる直前、予定していた撮影がすべて終了した。
それは同時に、織笠さんが映像研究同好会での役目を終えたということを意味する。二学期になってから、織笠さんが部室に顔を出すことはなくなった。
部室では、千草ちゃんが伊神先輩に教わりながら、ノートパソコンで動画編集ソフトを操作している。動画を切ったり繋げたり、ネットで拾ってきたフリーの音をつけたり。わたしはその様子を千草ちゃんの後ろから見て、一緒に編集作業のやり方を覚えていく。
まだ残っている夏の暑さに、汗が垂れてくる。この部室棟にエアコンなどと言う贅沢品はない。全開にした窓から入ってくる僅かな風と、団扇代わりの下敷きだけが頼りだ。
パソコンの画面に、織笠さんの姿が映し出された。いつのものだろうと記憶を辿る。確か、小説の話をしたころだろうか。
そういえば、織笠さんとは部活の外で会うことは全然なかったなと思い出す。唯一の例外は本屋で偶然会ったことくらいで、本の感想を話したのも、ここで髪を三つ編みに結っている時だった。部活のない日に一緒に帰ったり、ましてや休みの日にどこかに出かけることなどは一度もしていない。そもそも、連絡先の交換すらしていなかった。
そうはいっても、同じ学校同じ学年。会おうと思えばいつでも会えるし、連絡先だって聞ける。わたしが行動に移せば。
でも、なぜだろう。わたしと織笠さんの縁はここだけだった。そんなような気がするのだ。行動を起こせない言い訳に過ぎないといってしまえばそれまでだけれども。
「峰岸ちゃん、聞いてる?」
「あ、はい」
伊神さんに声を掛けられ、意識を現実世界に引き戻された。
いつの間にか、ディスプレイに映っているシーンが切り替わっていた。誰かがカメラを回していたのだろう。織笠さんが、伊神先輩や滝先輩とシーンの打ち合わせをしている風景だ。
日曜日の昼過ぎ。地元近くの駅前商店街を、わたしは暑さに汗を滲ませながら、急ぎ足で歩いていた。都心から離れてはいるものの、周辺の駅よりも比較的発展していることもあり、週末のこの時間帯ともなれば人通りはそれなりに多い。行きかう人々の間を抜けて、わたしは商店街の奥にあるファミレスに向かう。
合コンでドタキャンが出て女子が一人足りないから来てほしい、という連絡が中学の時の友達から来たのが今から三十分ほど前。惰眠をむさぼっていたわたしは、通話の着信でたたき起こされたのだった。
合コンなんてものに全く興味はなかった。けれどもその友達に、いるだけでいいから今度パフェ奢るからと懇願されてしまったら、そこまで邪険にする気も起きなかった。どうせやることもなく暇だったというのもある。
駅に着いた時には、開始時間から五分ほど過ぎていた。急いで走ろうという気は起きなかったけれども、遅れてるのに悠長に歩くのもあまり気が引ける。というわけで、わたしは早歩きで商店街を進んでいた。
前方の店から、人影が出てくるのをが見えた。
瞬く間にわたしの視線はでその人物に引き寄せられ、急いでいた足も思わず緩む。
そこにいたのは、織笠さんだった。
ウェーブがかった髪の毛に包まれた横顔。普段の制服姿とは違い、グレーのチェック柄のワンピースを着て、水色の小柄なリュックを背負っている。
こんなところで見かけるなんて、まったくもって予期していなかった。そしてだからこそ、ここで会ったことに小さな運命の様なものを感じたのだった。
このまま見つからないように迂回ようか、という考えが一瞬だけ浮かんだ。けれどもそうすると、これっきりで終わってしまうような気もした。
声を掛けようと口を開きかける。
しかしそこで、織笠さんが出てきたばかりの店の中に視線を向けていることに気が付いた。誰か出てくるのを待っているようだった。
すぐに、店の中から女の人が出てきた。その人もまた私服姿だったので誰だか即座には分からなかったけれども、よく見てみれば伊神先輩だった。
どうして二人が一緒に、と疑問を覚える間もなく。
織笠さんは伊神先輩の腕に自分の腕を絡め、ぴったりを身を寄せたのだった。
その光景に、思考が凍りついた。全身から体温が引いていく感覚に見舞われる。
おもむろに二人が振り返り、わたしと目が合った。
次の瞬間、織笠さんは目を見開くと、「あっ」という声が聞こえそうな勢いで、慌てて伊神先輩から離れた。ただそれでも、彼女の細い指先は伊神先輩の手首をわずかに摘まんでいて、完全に放しはしなかった。
その一連の振る舞いを見て、わたしは察した。どうして二人が一緒にいるのかを。
「あ、峰岸ちゃんじゃん」
伊神先輩が、まるで何でもないように声をかけてきた。学校の廊下ですれ違った時のように。
「こ、こんにちわ……」
わたしは、何とか声を絞り出す。きっと、変な声になっていたに違いなかった。
「織笠さんも……」
「う、うん」
視線を向けると、織笠さんは困ったような表情を浮かべた。
そんな織笠さんの顔を見て、わたしは胸が締め付けられた。
伊神先輩は織笠さんを一瞥すると、「あぁ」と漏らして頭をかく。今がどんな状況なのかを理解したのだろう。
商店街の喧騒から、わたしたち三人だけが取り残されたような感覚。行きかう人々の話し声が、スピーカーから流れる音楽が、雑多な騒音が、どんどん遠ざかっていく。
わたしたちの間を、静寂が支配した。
息が詰まるような、そんな時間がいつまでも続く。実際にはものの数秒程度だったかもしれないけれども、わたしには、それが永遠かと思えるほどに長く感じた。
「えっと、わたしたちが一緒にいたの、あんまり言いふらさないでくれると嬉しいな」
伊神先輩が、とつとつと言う。
それが答えだった。
「はい……」
わたしは力なくうなずく。それ以外の何かをする気力など一切湧いてこなかった。
「うん、ありがとう。じゃあまた、学校で」
伊神先輩がわたしの方に向かって歩き出した。もちろん、織笠さんもその後に続く。
織笠さんの顔を見れなくて、わたしはその場で俯く。
視界の端に、灰色のワンピースの裾が映る。それは黒いスニーカーの動きに合わせてひらひらと揺れ、わたしの横を通り過ぎていった。
すれちがいざまに、甘い香りが漂ってきたような気がした。咄嗟に、匂いをかごうと鼻で息を吸い込む。しかしそこにあったのは、じめじめした空気の匂いだけだった。
残り香を求めるように、わたしは振り返った。
黒いウェーブがかった髪の毛が、揺れながら遠ざかっていく。
途端に、どっと体がだるくなってきた。忘れていた暑さが、一気に押し寄せてくる。
その場で立っていられなくなり、近くにあった電柱に背中を預けてもたれかかった。
鞄の中でスマホが震えだし、ここに来た本来の目的を思い出す。
けれども、わたしはそれらを全部無視して空を見上げた。
雲一つない青空が、そこには広がっていた。
シャンプーの匂い 若木士 @wakakishi
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