第418部分

 結構近く見えるけれど、本当に大丈夫なのかしら? 実際には十分な距離を置いてはいるものの、その巨体故に未だしっかりと存在感を放っていた為に、アイシスにはその様に感じられた件の猪のその後方。則ち一行から見れば向かって右側の巨木の陰から、何か巨大な物体が高速でその猪の許へと突っ込んで来て轟音と共にその猪の巨体を呑み込む。


 そのあまりにも突然の出来事に、その時のアイシスにはその様にしか理解出来なかったその光景であったが、強靭な精神力と高い動体視力の持ち主であるタチバナの網膜には、その詳細な光景がしっかりと焼き付けられていた。その物体は爬虫類の様な特徴を持つ巨大な生物であり、件の猪を実際に一口で呑み込んでしまうと、その途上に障害物などは存在しないかの様に、その後に続く長い身体をその勢いのままに滑らせていくという光景が。


「……何よあれ!? 何よあれ!? 何よあれ!?」


 そのあまりにも突然、かつ目を疑う様な光景に、暫しの間声を発する事も出来ずに固まっていたアイシスであったが、その巨大生物の突進によって薙ぎ倒された巨木が立てる、それまでの轟音とは異なる音を耳にすると我に返り、即座に真後ろへと向き直りそう叫びながら脱兎の如くその場から全力で走り去る。


 それは恐怖と混乱に支配された行動であり、冒険者に必要な冷静な判断とはかけ離れた行動であったが、それを見たタチバナはそれを諫めようなどとは毛頭思わなかった。それはタチバナ自身も生まれて初めて目にした、先程の猪の様な難しくはあるが手段を選ばねば対処が可能な相手ではない、現在の自身ではどう転んでもどうにもならない様な相手に対し、自らも同様の感情を抱いた為という事でもあったが、無論その様な感情論だけがその理由ではなかった。


 既にアイシスがそうしている様に、兎に角一刻も早くこの場から……もといあの巨大な怪物から可能な限り離れるという事こそが、現状に於いて最善の行動である。未だ冷静さを保っているタチバナの思考に於いても、導き出された結論は恐怖と混乱に支配されたアイシスのそれと変わらないものであり、タチバナも直ぐにそれに従って前を行く主の背を追い掛けるのであった。


 なお、一見するとアイシスはタチバナの事など気にせず、自分だけでも助かろうと我先に遁走した様にも見えるが、その様な状況でも荷物を放っていったりはしなかった事からも分かる様に、当然ながら実際にはその様な薄情な行動を取ったという訳ではなかった。無論、他者を気にする様な余裕が限りなく少なかった事は事実であるが、自身より身体能力も判断力も優れているタチバナに対する絶対的な信頼があったからこそ、その足を引っ張らない為にもアイシスは自分の事を最優先にして行動したのであった。


 ともあれ、そうしてかつて外部からこの森林の北端を目にした時以来の、いやそれ以上の速度での全力疾走で件の巨大生物から距離を取っていたアイシスであったが、生まれて初めて目にした絶対的な捕食者に対して生命の危機を感じた為か、或いはそれが発生させているであろう轟音が未だその後方から聞こえて来ている為か、かなりの距離を走っても未だその足取りが緩む事は無かった。


 一方、その邪魔にならぬ様にとアイシスのやや右斜め後方を走りながら、タチバナはその主の底力に対して深い感心を覚えていた。当人がどの様に思っているかは分からないが、この経路上に掛けられた魔法の効果はあくまで「歩行」に対してのみのものである事を既に理解しているタチバナは、そのアイシスの頑張りの全てが本人の力によるものである事も十分に理解していたのであった。


 尤も、その経路上に障害物が存在しないという事の方は、そのアイシスの頑張りに多大に寄与しているのであったが、無論その事はタチバナも重々承知しており、そもそもこの様な条件が整っていなければ、タチバナはこの様な単純な逃走を最善の手段だと考える事は無かったのであった。


 なお、その様な事を考える余裕がある事からも分かる通り、その逃走の最中にも後方の状況を探る事へと意識を割いていたタチバナは、既に件の巨大生物が此方に迫って来てはいない事を把握していたのだが、敢えてその事をアイシスに教えてはいなかった。


 とはいえ、無論それは主に対する静かなる反逆という訳ではなく、下手に声を掛けて気を散らせてしまっては、全力で走っている主を転倒させてしまうという可能性を考えての事であったが、二重の意味でその様な事は知る由も無いアイシスは、脇目も振らず未だ全力で件の怪物から逃げ続けていた。


 だが、人間の域を超えた身体能力を持つタチバナでさえもそれからは逃れられぬ様に、全力で走り続けていたアイシスの疲労は既に限界に達しつつあった。それ故に、ある時点でその速度は急激に下がり始め、次第にゆっくりとした歩行に変わって数歩進むと、やがてアイシスの足は完全にその動きを止めるのであった。


 尤も、そうしてアイシスが足を止めたのは疲労だけによるものではなく、先程から響いていた轟音が遠くに聴こえる様になった事に、アイシスが漸く気が付いた為でもあった。そして、それを見たタチバナも同様に停止した事により、一行の逃走劇はそこで幕を閉じるのであった。


「……どうやら、此方に向かっては来ていない様ね」


 ともあれ、そうして足を止めたアイシスはゆっくりと後方へ向き直り荷物を足元に下ろすと、両手を膝に突いて息を切らしながら前方の様子を窺い、その一部がすっかりと荒れ果ててしまった森林の風景を眺めながらそう呟く。それはその声の小ささから独り言の様にも思えたが、疲労と息切れにより上手く声を出す事が困難だと判断したアイシスは、タチバナならば十分に聴き取れると判断して敢えてその状態のままその言葉を発したのであった。

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