第102部分

「……成程。こうしてまじまじと夜空を見るのは初めてですが、確かに幻想的な光景ではあるかもしれません」


 上を向いたままのタチバナが言う。主に同調して「綺麗だ」と言うのは簡単な事だったが、自身が心からそう感じられてはいない以上、そうする事は不誠実であるとタチバナには思えた。タチバナは元来そのような徳を重視している訳ではなかったが、自身が認めた相手には、可能な限り誠実であろうとしていた。そしてタチバナにとって、アイシスはその最たる例であった。


「でしょう? まあ、そう頻繁に見るようなものではないかもしれないけど、天気が良くて星が良く見える時とか、こうして暇な時なんかに見上げてみるのは悪くないと思うわ」


 タチバナの言葉に気を良くしたアイシスが、満面の笑みで再び夜空を見上げて言う。こうして二人で夜空を見上げる事を、自分達の日課にしてしまいたい。アイシスは本当はそんな事を思っており、またそれが可能な立場でもあった。だが、如何に面白い小説であろうと二度続けて初めから読む事が無い様に、どれだけ素晴らしいものであっても、継続的にそれを経験していてはいずれは飽きが来てしまう。それが人間の性質だと思っているアイシスは、自身の欲望を抑えて控えめに言ったのだった。


「そうですね。食事の直ぐ後に眠る事が好ましくない事である以上、安静にしている時間に出来る事は多い方が良いかと思います」


 視線をアイシスの方に戻してタチバナが言う。自分の意見が認められるという事は、それだけでも気分の良い事である。それが尊敬する相手にという事であれば尚更であり、アイシスは自身の口角が上がる事を抑制する事が出来なかった。何となく気恥ずかしくなり、アイシスは視線を戻す事が出来ずにいた。


「ですが、暖かくなって来たとは言え夜は未だ冷えます。そろそろ、テントに入る準備をなさって下さい」


 その様子を見たタチバナが、夜空を見続ける主を諫める。その直後、夜風がアイシス達の間を吹き抜けた。それによって肌寒さを感じた事で、アイシスはタチバナの言葉の意味を実感する。

「そうね、そろそろテントに入りましょうか」


 視線を水平に戻しながらアイシスが言う。そうと決まれば、先ずは歯を磨こう。そう思ったアイシスはポーチから歯ブラシを取り出すと、一昨日と同様にテントの脇の方へと移動する。やはり、人前で歯を磨くのには何となく抵抗があった。


 思えば、昨日は歯を磨けていない。それに気付いたアイシスは、今日は念入りに磨こうと決意する。幸いな事に、初日とは異なり水場が近いという現状では、水の節約を考える必要は無かった。アイシスは普段よりも長時間存分に自らの歯を磨き、口を濯ぐ回数もやや多かった。そこらに水を吐き出す行為には多少の抵抗を覚えたが、それが冒険者として我慢すべき事柄である事は無論承知していた。


 歯を磨き終えたアイシスがテントの前に戻ると、その入り口から光が漏れている事に気付く。ああ、タチバナが蝋燭を灯してくれたのか。それを直ぐに理解すると、アイシスはテントの入り口から中を覗く。だが、そこにタチバナの姿は無かった。


「あら?」


 思わずアイシスがそう言うと、タチバナが外から声を掛ける。


「何をなさっているのですか?」


 その声にアイシスは身体をビクリと反応させる。予想外な事に少々の驚きは隠せなかったが、主としての威厳を保つ為にも冷静を装って口を開く。


「いえ、灯りが点いていたから、貴方が中に居ると思っていただけよ」


 アイシスが答えると、タチバナは少しだけ間を置いてから口を開く。


「……お嬢様がお着替え等をすると思いましたので、外で待機しておりました。無論、お嬢様がお望みであれば、お身体を拭く事やお着替えも手伝わせて頂きますが」


 ……それはそうだ。タチバナの言葉を聞いて、アイシスはそう思った。従者と共に冒険に出る女性がどれ程存在するかは分からないが、良い所のお嬢様と言えば、確かにお風呂や着替えをメイドにさせるというイメージを少女は持っていた。だが……その場面を少し想像した結果、それに耐える事はとても不可能である。そうアイシスは結論を出さざるを得なかった。


「……いえ、大丈夫よ。自分でやるわ」


 そう答え、靴を脱いで完全にテント内に入りながら、アイシスは思い出していた。そう言えば、一昨日は寝る時に手を握って貰ったのだったかと。それを思い出すと流石に少々恥ずかしくはあったが、間違いなく悪くない体験ではあった。だが、アイシスが今日はその必要があるかと考えた時、それは不要であると思えた。では、傍に居て貰う必要は。それを考えた時、アイシスにはその答えは分からなかった。だが、そうして欲しいという気はした。


 その事について考えるのは後にしよう。そう思ったアイシスがテント内を見渡すと、一昨日と同様に着替えや毛布、それと身体を拭く為の布が置かれていた。相変わらず仕事が早い事だ。半ば呆れる様に感心しながらリボンを外して床に置くと、アイシスは衣服を脱ぎ始めるのだった。

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