第101部分

「……お嬢様が突然お黙りになり、何かを考え込んでいる様子でしたので、どうなさったのかと様子を見ていたのですが……どうやら、特に問題は無い様ですね。それでは、私は後片付け等をして参りますので、お嬢様は楽になさっていて下さい」


 アイシスとは対照的に、タチバナはいつも通り淡々と答える。自分だけが気にしている様で、アイシスはそれに少しだけ悔しさを感じる。だが一方では、それでこそタチバナであると、妙に感心もしているのだった。


「……分かったわ、お願いね」


 とはいえ、アイシスの中には何かを言いたい様な気持ちがあったのは確かだった。だが、仕事をして来ると言われては、主としてそれを見送る事しか出来なかった。そうして、主にもそれを認められたタチバナは、食器等を持って先程の水場へと向かう。既に辺りは暗くなっていたが、タチバナならば特に問題は無いだろう。これまでの経験からそうアイシスは判断したが、果たしてそれは事実だった。タチバナにとっては、完全な暗闇でもない限りは、夜間でも通常の仕事をするのに影響は無かった。


 斯くして、一人テントの前に残されたアイシスであったが、楽にしていてと言われても、此処には本等の暇を潰せる様な物は何も無かった。自分であの様な講釈を垂れた以上、先程の様に戦闘の訓練をする訳にもいかない。考え事に没頭するのも良いかもしれないが、この世界で目覚めてからは兎も角、本来は悲観的であった自分では、この周囲の暗さも相まってあまり良くない事を考えてしまう可能性がある。特に、元の世界の事を考えなどしてしまった場合には、今後のモチベーションの維持にも影響が出る恐れがある。


 その様な、それこそ悲観的な事を考えた結果、アイシスはただ夜空を見上げる事にする。未だ遠くに少しだけ赤が残るそれは、とても幻想的に見えた。この辺りでは月や星々が明るく輝いているのに、何処か別の場所では今、夕焼けを楽しんでいる人が居るかもしれない。そう思うと、アイシスの胸には何やら郷愁の念が湧き上がってくる。本来であればそれは別に悪い事ではない。だが、先程の自らの思考の影響で、アイシスはそれを止める為に視線を下げる。


 すると、アイシスの視界には炎が消えたものの未だ燻る薪が映る。そう言えば、炎というものも一昨日に見たのが初めてだったか。そう思うと、少女は自然と自らの半生を思い浮かべてしまいそうになる。


「何でそうなるのよ?」


 意に反する働きをする自らの頭に、アイシスは思わずそう言って頭を振る。それはどう見ても奇行以外の何物でも無かったが、幸いな事にそれを見ている存在は無かった。だが、声に出してそう言った事で、アイシスは少し冷静さを取り戻す。


 そうか、何かテーマを決めて考え事をすれば、余計な事は考えずに済む。そう思い付いたアイシスは、先ずはそのテーマを決める事にする。だが、それを決める為に考え込んでしまえば、また同じ事になりかねない。そう思ったアイシスが直感的に選んだのは、星空についてだった。


 アイシスは改めて夜空を見上げ、月や星を観察する。一昨日にも見たとはいえ、あの時よりも時間が遅い為か、よりはっきりとそれらが輝いている様に見えた。


「……綺麗ね」


 そう呟いたアイシスには、別に何も考える必要など無く思えて来た。かつて入院をして以来、一昨日までは見る事も無かった星空。それをこうして眺めていられるというだけで、少女には十分に幸せだと思えた。


「ただ今戻りました。……お嬢様、何をなさっているのですか?」


 洗い物を終えて戻って来たタチバナは、座ったまま空を見上げているアイシスにそう尋ねる。


「何って、星を見ているのよ」


 不意の事に少々驚きはしたが、星空を眺めていて何だか良い気分になっていたアイシスは、それを気にせずに星を見ながら答える。


「……星を?」


 食器等を仕舞いながら、タチバナが訊き返す。その問い掛けは、アイシスにとっては少々違和感のあるものだった。


「ええ。何かおかしいかしら?」


 興味が星空からタチバナへと移ったアイシスは、視線をそちらに向けて更に問いを返す。タチバナの一連の問い掛けは、まるで星を見る事を不思議に思っているかの様だ。そうアイシスには思えた。


「……いえ、おかしいという訳ではないのですが、方角ならばコンパスを見れば分かるでしょうし、現在位置も概ねには分かっておられるでしょう。ですので、その目的を測りかねた次第でございます」


 そう来たか。タチバナの答えを聴いて、アイシスは先ずそう思った。タチバナの言葉を要約すれば、星空を見る意味は、方角や現在位置を推察する事しかないだろう、という事になる。これまでの言動から、アイシスはタチバナがかなり合理主義的な考えを持っている事は分かっていた。だが、まさかこれ程だとは思っていなかった。それもタチバナらしいとは思うが、自分が素晴らしいと思っている事を、大切な人に共感して欲しい。アイシスがそう思ったのは自然な事だった。


「……目的って、綺麗だから見ていただけよ」


 アイシスがそう言うと、タチバナは黙って空を見上げる。黒い夜空の所々に、白く輝く点が散らばっている。それが「綺麗」なのかは、タチバナには分からなかった。タチバナはその様な、具体性を持たないものに対してそう思った事が無かった。だが、アイシスがそう言った理由の一端は理解出来る気がする。幼少期以来に見上げた夜空を眺めながら、タチバナはそんな事を思っていた。

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