第88部分

「そして、次が最後ね。貴方の状況が良くなかったというのは、多分体力の消耗だとかそういう話だと思うんだけど、それは相手も同じだったと思うわ。あれだけ『戦いが全て』みたいな事を言ってた黒星が、余力が十分にあるのに戦いを中断する? 自分の取り敢えずの全力を出し切ったからこそ、あそこで満足して止めたんじゃないかしら? 勿論、続けようと思えば続けられたとは思うけど、それは貴方も同じでしょう。何だかんだ良い人っぽかったし、貴方の事も気に入ってくれたみたいだから、続けた場合はどちらかが怪我をすると思って引いてくれたんじゃない? だから……ええと、何が言いたいかと言うと、さっきの戦いで貴方は負けてはいないと思うわ。多分、黒星も負けたとは思っていないでしょうから、引き分けという事で良いんじゃないかしら」


 貴方の勝ちだと言っても、恐らく本心から受け入れては貰えないだろう。話している途中でそう思い直した為に、アイシスは話の最後で少し言葉に詰まったのだった。それは決して上手な話ではなかったかもしれないが、その思いと懸命さはしっかりとタチバナにも届いていた。


 アイシスが最後に言った、引き分けで良いという言葉。それはタチバナにとっては衝撃的な言葉だった。タチバナにとっての戦いとは本質的には殺し合いであり、その結果には勝利か敗北、則ち生か死しか存在しなかった。結果的に命を奪わなかったとしても、それは勝者の情けに過ぎない。それがタチバナにとっての戦いというものであり、そこに引き分け等という曖昧な概念は存在しなかった。


 それ故に、先程の戦いはその終わり方から勝利とは思えず、かといって敗北を認める事は自らの死をも認める事になってしまう。その矛盾に苦しんでいたタチバナであったが、生涯で初めて出会った、自身と比肩する実力の持ち主である黒星との戦いとその決着。そして敬愛する主であるアイシスの言葉。それらの経験は、タチバナの認識をも変えるのに十分であった。アイシスが完璧と感じる程に高い能力を持つとは言え、タチバナも未だ齢十九の少女であり、変化や成長の余地は十分に残していた。


「引き分け……そうですね。元より殺し合いでは無かったのですから、そういう決着もあり得る事を失念しておりました」


 タチバナがそう言うと、アイシスは一先ず自身の思いが通じたと安心をしつつも、怪訝な表情を浮かべた。


「え? 確かに向こうは此方を殺さないとか言ってたけれど、貴方は結構急所をばんばん狙っていたように見えたんだけど」


 アイシスが思わず言葉を返すと、タチバナは少し間を置いてから口を開く。


「……お嬢様。私とて、此方を殺す気が無いと分かっている相手を本気で殺そうなどとは致しません。あの方が私の攻撃をそのまま急所に喰らう様な事は無いだろうと推測したからこそ、私は急所を狙って攻撃していたのです。尤も、殺してしまっても仕方が無い、とは思っておりましたが」


 そのタチバナの言葉を聞き、アイシスはタチバナが黒星を殺す気が無かった事には安心する。一方で「殺しても仕方が無い」という言葉は少女がかつて居た世界の倫理観とは異なっていたが、仮にも敵である事とタチバナの戦闘方法を考えれば、実際に仕方が無い事だとは思えた。そしてアイシスには他にもう一つ気になった事があり、それを尋ねる為に口を開く。


「……という事は、タチバナは黒星の事を信じていたって事よね?」


 これまでのタチバナの言動を見る限り、アイシスにはタチバナがあまり他人を信用している様には思えなかった。屋台の食物を毒見するという行動などはその最たるものであり、その後はその様な行動は多少鳴りを潜めたが、そんなタチバナが仮にも敵である黒星を信用したかの様な行動をしていたというのはアイシスにとっては意外であった。


 対して、問われたタチバナはそれに即答する事が出来なかった。アイシスの推察通り、タチバナにとって他人とは信用するものではなく、それが敵であれば尚更であった。だが、先程の戦いに於いての自らの行動は、確かにアイシスの言葉の通りにも解釈する事が出来る。それはタチバナ本人にとっても意外な事であり、その精査には若干の時間を要した。


「……そうとも言えるかもしれませんが、あくまでも黒星殿の戦闘力を、でございます」


 タチバナにしては珍しい言い訳染みた発言であったが、それには理由があった。現在では黒星もその範疇に入っていない事も無いが、先程の戦闘時点でのタチバナにとって信用に値する相手だと言えるのはアイシスのみであり、辛うじてノーラが入るという程度の認識であった。にもかかわらず、その時点で黒星を信用していたという事実は、タチバナの哲学にも関わる事であった。つまるところ、タチバナはアイシスと行動を共にして以来の自身の変化を、未だ把握し切れていないのであった。


「……まあ、そういう事にしておきましょう。それより、結構時間が取られちゃったわね。まあ悪い出来事だったとは思わないけど、水の確保をしなきゃいけないからそろそろ行きましょう」


 アイシスが話をまとめて出発を促すと、タチバナはそれは自分の役目の筈だと少しだけ落胆する。アイシスと行動を共にして以来、どうも調子が狂ってしまう。そうタチバナは思ったが、やはりそれが悪い事だとは感じないのであった。

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