第56部分

「ありがとう。なかなか為になる話だったけれど、今度こそ終わりで良いのかしら?」


 先程似た言葉を発した時とは別の意味も込めてアイシスがタチバナへと礼を言う。


「はい。そろそろ干してある布も乾いた頃でしょう。私はその回収や他の準備をして参りますので、お嬢様もご自身の準備をお済ませ下さる様お願い致します」


 アイシスの礼を聞いたタチバナはそう言うと直ぐに干してある布の方へと向かう。もしかして照れているのかしら。少なくとも自身が口にしたら多少なり恥ずかしくなりそうな事をタチバナは言っていたし。そう思ったアイシスだったが、本人の表情の変化は読み取れなかった為にその真偽は確かめようが無かった。だけどもしそうだったらちょっと可愛い、普段のクールさとのギャップが良い、等と少々素の自身が出て来てしまい妙な妄想をしてしまうが、生身の人間に対しては失礼かとそれを抑えるアイシスであった。


 冷静さを取り戻したのは良いが、大方の準備は既にタチバナが済ませてしまっている上に自身の準備も水筒の補給を含めて終わっているので特にやる事が無い。そう思ったアイシスは精神面での準備をしていく事にする。


 いよいよ人類の生活圏を抜けて本格的な冒険が始まる。そこでは様々な苦難が待ち受けているかもしれないが、タチバナと共にであればきっとそれらに打ち勝てる。だが頼り切りでは良くないから自らの知識や技術を高めていき、せめて足手まといにはならない様になりたい。その為にもタチバナに教えて貰った事はきちんと胸に刻んでおこう。そして無事に魔法が習得出来ればきっとタチバナと……。


「お待たせ致しました、お嬢様。ご準備はお済みでしょうか」


 アイシスがそんな事を考えているうちにいつの間にか戻って来たタチバナがアイシスに声を掛ける。考え事に没頭していたのかそれが予想よりも早かった為、アイシスは不意を突かれた格好になった。


「え、ええ。相変わらず早いわね」


 丁度タチバナの事を考えていた事もあり正直かなり驚いたアイシスだったが、それを表には出さぬ様に意識して返事をする。それで誤魔化せたのかは相変わらずタチバナの表情に変化が無い為に分からなかったが、冷静に考えればいくらタチバナでも此方の内心まで見透かす様な事は無い筈と思い直す。


「それでは参りましょう。あちらの柵を越えればそこはもう人類の生活圏の外でございます。お覚悟は宜しいでしょうか」


 タチバナがアイシスの分の包みを差し出しながら言う。見方によっては失礼とも取れる発言ではあったがアイシスは特に気にせず、寧ろ自身への配慮を感じて少し嬉しく思った。


「それはさっきもう済ませたわ。行きましょう」


 荷物を受け取ったアイシスがそう言いながら歩き出す。心中に不安が無いと言えば嘘になるが、それはタチバナの存在によって抑えられ、未知への期待や未来への希望がその胸の多くを占めていた。その中では少々の不安は寧ろ冷静さを保つ為に丁度良く、アイシスには自身の精神状態は悪くないと感じられた。


 そうして未だ日の高い青空の下、再び二人の美少女が歩き出す。穏やかな日差しが気持ち良い等とアイシスが思っていると程なくして件の柵の前に辿り着く。それはただの年季の入った簡単な作りの木の柵だったが、アイシスはそれから何か威圧感の様なものを感じた。いや、私にはタチバナとノーラのレイピアが付いている、と臆さずそれに沿って歩いていくと直ぐに道沿いの柵が途切れている場所に辿り着く。


 いよいよだ。そう思うとアイシスは流石に緊張を隠し切れなかった。立ち止まり、深呼吸を一つしてから歩き出す。アイシスがそうしている間、タチバナはただ静かにその隣を離れずにいた。この世界で目覚めてからも一、二を争う程に胸を高鳴らせてアイシスがいよいよ人類の生活圏の外部へと足を踏み入れる。


 その瞬間、アイシスには周囲の空気がぴんと張り詰めた様な気がした。しかし目の前には農村や畑が無い事を除けば柵の手前とも大した差が無い平原が広がっている。そのまま立ち止まらずに歩き続けるが、周囲にも特に変わった事は無い様に思えた。隣のタチバナにも変わった様子は無く、アイシスは自身が身構えすぎていたのだと判断する。気を抜いては勿論駄目だけど、あまり気を張り続けるのも良くないわね。そう思ったアイシスは圏内に居た頃とそう変わらぬ精神状態になる様に自身の気分を調整するのだった。


 とはいえ遂に足を踏み入れた圏外、始まった本格的な冒険。そして着実に近付く目標……いや距離的には遠ざかっているのだが。そんな事を思えばアイシスには自身の高まるテンションを抑える事は難しかった。自然とその歩調が少し早まるが、タチバナはそれを指摘する事も無くアイシスの右隣を保っていた。真剣に冒険をしているつもりのアイシスが本人も気付かぬまま溢している笑顔を横目に、それを守る為ならば自身の力を振るうのも悪くはない。そんな事を考えながらアイシスに遅れぬ様に歩いていくのだった。 

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