夫婦の形

 その日は良く晴れた日だった。前日に降った雨が残した置き土産が真っ青な空と降り注ぐ陽の光に照らされて輝いている。夫妻が到着する時間に合わせて紅茶を淹れていると扉を叩く音が聞こえ、侍女に案内されたヘルナー侯爵夫妻がやってきた。


「はじめまして、小さなお嬢さん」


 旅装姿の老人は帽子を取るとにこりと笑う。


「はじめまして。ローニャです」

「私はロバート・ヘルナー。こちらは妻のルーニエだ」

「ローニャさん、はじめまして。依頼を受けて下さってありがとう」

「どうぞ中へ入って下さい」


 ローニャは夫妻を招き入れると既に紅茶や茶菓子が用意してあるテーブルに案内した。この日の為に片付けられた室内はいつもより広々している。


「可愛らしいお菓子ね」

「昨日作った物です。お口に合えば良いのですが……」

「作った? ローニャさんが作られたの?」

「はい。そこに台所があって……料理は好きなので」

「まあ」


 王侯貴族には料理をするという文化が無い。毎日お抱えの料理人が一級品の料理を作ってくれるからだ。しかし、庶民育ちの――とりわけ料理が出来ない父親と暮らしていたローニャにとって、料理をするというのは当たり前のことだった。


(「秘密の庭」の家に台所があって良かったわ。ここを使っていたおばあ様は料理をされる方だったのかしら)


 何か作業をしている時、とりわけ集中したい時には好きな時に作って好きな時に食べたい物である。そう考えると城に戻って料理人の料理を食べるよりは自炊した方が良い。アトリエに台所があるのは理にかなっているのだ。

 焼き菓子を取り分けて紅茶を注ぎ、一息つく。甘いものに目が無い様子のルーニエは目を輝かせながら焼き菓子を一口、また一口と口に運んでいた。


「さて、今回の依頼だが」


 子供のような笑顔で菓子を頬張る妻の隣でロバートは咳払いをすると「依頼」について語り始めた。


「旦那様と奥様の肖像画をご所望と伺っておりますが」

「その通りだ。ローニャさんは他の肖像画家と異なる絵を描くと聞いてね。堅苦しくない、懐に忍ばせられるような絵が欲しいんだ」

「懐に……ですか?」

「ああ。仰々しく壁に飾るのではなく、旅先や出先に持って行けるような絵が欲しい。妻と離れている間に顔が見られるようにしたいんだ」

「この人、こう見えて寂しがり屋なの」


 ルーニエはそう言って悪戯っぽく笑う。

 ローニャの絵は一般的な肖像画と比べると随分と小さい。城の壁に飾ってあるような大きくて立派なキャンバスではなく、どこにでも売っているようなスケッチブックに描くからだ。今回ロバートが希望しているのはそれよりもさらに小さい、絵葉書サイズの物だった。


(そういえば、義姉様の婚約者であるアレン様も同じことを仰っていたわね。旅先で眺めたいと……)


 妻や家族、恋人と離れている時に肖像画を眺めたい。ローニャの絵にはそういう需要があるのかもしれない。大きな肖像画は持ち運べないがローニャの絵ならば容易だ。

 以前エリーゼはローニャの絵を「新しい肖像画」だと言った。ただ飾るだけでは無く、持ち運べて人々の「心の支え」となる。それが「新しい肖像画」の一つの形なのだろう。


「かしこまりました」

「絵が完成したらそれに合わせた額装をするので大きさのことはあまり気にしなくていい。とにかく懐に入れて持ち運べればいいんだから」


 「懐に入れて持ち運ぶ」という点はどうしても譲れないらしい。肖像画を描く為のスケッチをするため、四人は「秘密の庭」の東屋へ移動した。



「良く手入れされた庭だな」


 澄んだ水が流れる池と咲き誇る花々が織り成す景色に目を細めながらロバートは呟く。花々に囲まれた庭と、底に流れる美しい清流に魚が泳ぐ様は天上を描いた絵画のようだと絶賛した。


「ヴィル様……ヴィルヘルム様のおばあ様が作られた庭だと聞いております」

「作ったのは王太后様だとしても、それを維持し続けるのは大変なことよ。余程大切にされている庭なのね」

「……!」


 ルーニエの言葉にローニャは目を見開く。


(きっとヴィル様はおばあ様が亡くなってから大事に手入れし続けてきたんだわ。そんな大切な物を私が貰ってしまって本当に良かったのかしら)


 険しい顔をして思いつめるローニャに「眉間に皺が寄っているわよ」とルーニエが声を掛ける。


「何か気になることでもあるのかしら。私達で良ければ……いえ、話しても良いと思えるならば話を聞くわよ」


 子供を慰めるように優しく微笑みかけるルーニエにローニャの筆が止まった。スケッチブックに描かれているのは仲睦まじい夫妻の姿だ。柔らかくどこか子供の様な所があるルーニエと、そんな妻を心から愛しているのが分かるロバート。

 果たしてローニャとヴィルヘルムはこの二人のように見えているのだろうか。大切な庭を託してくれたのは信用されている証であることは分かっている。しかしそれが夫婦としての物なのか、「絵描き」としての物なのかローニャには分からなかった。


「ご存知かもしれませんが、私は平民の出です」


 ローニャは一つ一つ言葉を選びながら話し始めた。


「父の影響で昔から絵を描くのが好きでしたが、どの大会に出しても結果を得ることは出来ず、先の大会で賞を得た時は天にも昇る気持ちでした。しかし、急にヴィルヘルム様との婚礼が決まった上にこのような素晴らしい庭まで頂き……。

 ヴィルヘルム様にとってこの庭がどれほど大切な物なのか、改めて考えると私が頂いて良い物なのかと」

「不安なの?」

「……はい」


 自分にそんな価値があるのだろうか。いくら周囲の人間が認めてくれても心の隅に焼き付いた不安が拭えない。今まで上手く行かなかったことが急に上手く行き出して不安になる。きっと誰にでも起こりうる心境の変化だ。


「そんなに自分を卑下してはいけないよ」


 横で聞いていたロバートが口を挟む。


「ヴィルヘルムは君を愛しているからこそこの庭を贈ったんだ。その気持ちを受け取ってやるのも妻の役目だ」

「そう……なのでしょうか」

「ん? 違うと言いたげだね」

「ヴィルヘルム様は仰いました。親戚に渡すと庭が潰されるから、正しく庭を使える私を選んだと」

「なんだそれは」


 ロバートは呆れて脱力し、ルーニエも「まあ」と口を覆った。


「あんまりだわ」


 なんて可哀想なお嬢さんなんだろう。そう言いたげなルーニエの視線にローニャは苦笑いをした。


「悲しい訳ではないのです。ヴィルヘルム様は数ある絵の中から私の絵を拾い上げて下さいました。そしてこんなにも素晴らしい庭まで……。それは絵描きとしてとても誇らしいことであり、喜ばしくもあります」

「でも、それだと寂しいでしょう?」

「寂しい?」

「正しい夫婦の形とは言えないわ」


(正しい夫婦の形……)


 ローニャとヴィルヘルムは「普通の夫婦」と言うにはいささか歪な関係だ。恋をし、互いを想い合い添い遂げる存在のことを「夫婦」と呼ぶならば、互いの「利」の為に関係を結んだ二人は果たして夫婦と言えるのだろうか。


「夫婦には様々な形がある。正解も不正解も無いよ」


 ロバートはルーニエを諭すように言った。

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