第41話
結局、その週は週末まで藍沢と会話する機会は訪れなかった。軽く雑談する程度の僅かな時間はあったが、そのときは周囲の目もあってか藍沢は仕事のスタンスを崩すことなく、当たり障りのない会話で終わってしまった。
そして金曜日。終業の時間を間近にした頃、冬葉はなんとか作業を終わらせようと集中してパソコンのキーを叩いていた。
――ちょっと遅れちゃうかも。
どうにも打ち込むデータの量が多い。来週に回しても問題はない資料ではあるが、中途半端に終わらせると月曜日にどこから開始すればいいのか混乱してしまいそうだ。
時間を気にしながらも一生懸命に打ち込んでいると、ふいに「何か急いでる?」と後ろから声をかけられた。振り返ると外出中だったはずの藍沢がいつの間にか帰社していたようだ。
「あ、お疲れ様です。すみません、戻られてたの気づかなくて」
「ううん。それはいいんだけど、なんかすごく集中してたから急ぎの案件なのかと思って」
藍沢は少し心配そうな表情を浮かべた。冬葉は「そうじゃないんですけど」と苦笑する。
「来週に持ち越すとどこまでやったかわからなくなりそうで。でも、今日は定時に上がりたいので頑張ってました」
「そっか」
藍沢は薄く微笑むと腕時計に視線を向けた。そして「今、どこまでやってる?」と資料を覗き込んだ。
「えっと、この辺りです」
「そう。終われそう?」
「大丈夫です。たぶん!」
すると藍沢は笑って「じゃあ、頑張れ」と冬葉の肩を叩く。そして「今日はあの子に会う日なんだっけ」と小声で言った。冬葉は曖昧に笑って頷く。
「あの子と会うの、楽しみ?」
「そうですね……。楽しみ、です」
なんと答えるのが良いのかわからず、冬葉は考えながらも正直に気持ちを口にする。すると藍沢は「だよね」と笑った。冬葉はその彼女の力ない微笑みを見上げながら首を傾げる。
「――あの子はきっと、良い子なんだもんね」
藍沢は無表情にそう呟いた。
「ナツミさん?」
冬葉の声に藍沢はハッとしたような表情を浮かべると誤魔化すように笑みを浮かべる。
「ごめんね、邪魔しちゃって。頑張って」
そう言って藍沢は自分のデスクに戻っていた。
――どうしたんだろう。
いつもの彼女なら蓮華の名を話題に出すことはない。冬葉は視線を藍沢に向ける。席に戻った彼女はぼんやりとした表情でパソコンのモニタを見つめていた。
元気がないように見えるのは仕事で疲れているからだろうか。それとも他に何か理由があるのか。
冬葉はスマホを手にして考える。何かメッセージを送ってみようか。しかし、きっとそうしたところで返信される内容は予想ができてしまう。きっと彼女は本音を話してはくれないだろう。今の藍沢からは、そう思ってしまう壁のようなものを感じてしまうのだ。今は自分にできることは何もないのかもしれない。
冬葉は小さく息を吐くとスマホを置いて作業に戻った。
しかし案の定というべきか、定時になっても作業は終わらなかった。それでも精一杯急いで終わらせた冬葉は素早く帰る準備をして会社を出る。フロアを出る前に藍沢の席へ視線を向けたがすでに彼女の姿はなかった。この時間にミーティングは入っていなかったはずなので、冬葉よりも早く退勤していたのかもしれない。
なんとなくモヤモヤした気持ちを胸に抱えたまま待ち合わせ場所へと急ぐ。
『すみません。いま会社を出たので少し遅れます』
歩きながらメッセージを送信するとすぐに返信が届いた。
『了解。急がなくてもいいよ。のんびり待ってるから』
『すみません! 急ぎます!』
『いやいや、急がなくていいって言ってるのに』
蓮華の返信に笑みを浮かべながら冬葉は早足で歩き続けた。
待ち合わせ場所に決めた駅前はさすがは帰宅ラッシュの時間帯というべきか、人が多かった。改札から出てくる人の流れ、改札へ吸い込まれていく人の流れ。その両方を横断するようにして冬葉は改札隣のコンビニへと向かう。
「あ、来た!」
なんとか人の波から抜け出したとき、蓮華のそんな声が聞こえた瞬間、思わず冬葉は「すみません!」と謝っていた。そしてキョロキョロと視線を彷徨わせる。
「こっちだよ、冬葉さん」
声の方に目をやると片手をヒラヒラさせながら苦笑する蓮華の姿がコンビニの前にあった。
「あー、ほんとすみません。遅れてしまって」
冬葉は彼女の元に駆け寄りながら再び謝る。
「急がなくてもいいって言ったのに。髪、乱れちゃってるよ」
蓮華は言いながらそっと冬葉の髪を撫でた。冬葉はハッとして一歩後ずさると両手で髪をなでつける。そんな冬葉を面白そうに見ながら蓮華は「なんか新鮮だね」と笑った。
「え?」
「こんな時間に、こんな人が多い場所で冬葉さんと会うの」
「そうですね」
冬葉は息を吐いて改札に視線を向ける。
「人、多いですね」
「だねぇ」
「普段この時間に電車乗らないからこんなに混んでるとは思いませんでした」
「わたしも」
蓮華と冬葉は顔を見合わせてから笑い合う。そのとき、なんとなく視線を感じて冬葉は周りに目を向けた。すると改札の近くに立ち止まった女子高生グループがこちらを見ながら何か話している。
――気のせい?
思っていると蓮華は「ほんとは電車で移動してご飯でもと思ったけど」と口を開いた。見ると彼女は困ったような表情で「無理そうだね。学生も多いみたいだから」と手に持っていたキャップを目深に被った。そして冬葉の手を取って「行こう、冬葉さん」と歩き出す。
「え、でも」
冬葉は引っ張られながら振り返る。女子高生たちはスマホとこちらを見比べているようだった。
「まだわたしの顔覚えてる人っているんだね」
歩きながら蓮華は言う。
「さっきの子たちって」
「たぶん、わたしのこと知ってる子たちだよ」
「そっか。蓮華さんって有名人なんですよね」
「悪い方の、ね」
彼女は前を向いたまま軽く笑った。
「良い方の、ですよ。特にわたしにとっては」
冬葉の言葉に蓮華は怪訝そうな表情で振り返った。冬葉はスマホを画面が見えるように蓮華へ向ける。
「毎日聴いて元気もらってるんですから」
その画面には蓮華の曲のプレイリストが表示されていた。蓮華はそれを見ると驚いたように目を見開き、そして「それは良かった」と俯きながら答えた。
「はい。ありがとうございます」
「お礼を言われるようなことじゃ……」
蓮華はキャップをさらに深く被って小さな声で呟くように言う。冬葉が顔を覗き込もうとするとなぜかそっぽを向かれてしまう。気のせいか、その頬が少し赤く染まっているように見えた。
「蓮華さん?」
「……なんでもない! あー、それでどうしよう。とりあえず駅から離れてみたけど。この辺りにご飯食べる場所ってどこかあったっけ? わたし引きこもりだからあんまり土地勘なくて」
駅から少し離れた場所で立ち止まり、蓮華は周りを見渡した。冬葉も周辺を見ながら「そうですね。わたしもあまり詳しくないですけど」と考える。冬葉も外食などしない生活なので店をほとんど知らない。この辺りで知っている店といえば……。
「ファミレスだったら近くに」
「え?」
「あ、すみません。嫌ですよね。せっかくこうして――」
「デートなのに?」
蓮華はニヤリと笑って言った。そして「いいよ。ファミレス行こ」と繋いだままだった冬葉の手を引っ張る。
「え、でも」
「わたし好きだよ、ファミレス。いろんなメニューあるし、安いし。むしろお洒落なレストランとかの方が苦手」
「そうなんですか? 何か意外です」
「そう? 普通じゃない?」
蓮華は首を傾げる。
「有名人はお洒落なお店に行ってるイメージだったので」
「冬葉さんのイメージはかなり偏ってるね」
彼女は笑うと「実は今日はマックとかでもいいなって密かに思ってたんだけど、さすがに冬葉さんは嫌かなって思ったからさ」と続けた。
「いえ、わたしは何でも大丈夫ですよ」
「そう? じゃあ、それは次の楽しみにしとく。今日はファミレス行こっか。どっちだっけ?」
「あ、こっちです」
言いながら今度は冬葉が彼女の手を引っ張って歩き出す。横に並んで歩きながら冬葉は蓮華の顔に視線を向ける。なんだかとても楽しそうだ。どうやら冬葉に気を遣っているわけではないらしい。
「ん、なに?」
「いえ。楽しそうだなと思って」
「うん。楽しいよ。冬葉さんといるからね」
彼女はニッと笑ったがすぐに申し訳なさそうな表情で「冬葉さんは疲れてる? 仕事の後だし」と首を傾げた。冬葉は首を横に振って微笑む。
「なんか蓮華さんの顔を見たら安心してちょっと気が抜けてるだけです」
「そっか。いいよ。わたしの前ではどんどん気を抜いて」
「ダメですよ。わたしの方が年上なんですからしっかりしないと」
「えー、気の抜けてる冬葉さんが見たいなぁ」
「……じゃあ、迷惑にならない程度に気を抜かせてもらいます」
「迷惑かけてもいいのに」
「迷惑かけたら紗綾に怒られそうなので」
「それはダメだね。それじゃ、ほんのちょっとだけしっかりしてもらおうかな」
「難しいですよ。気を抜く加減」
冬葉は笑いながら彼女と並んで歩く。蓮華といるとこんなにも心が楽になるのはなぜだろう。素直になれる気がするのはなぜだろう。そのときふと脳裏に浮かんだのは藍沢の力ない微笑みだった。
――ナツミさんといるときと何が違うんだろう。
考えているうちにファミレスが見えてきた。
「食べながらご飯のあとどこに行くか決めようか」
「そうですね。お店、混んでないといいですけど」
「夕飯には少し早い時間だから大丈夫じゃないかな」
そんな何気ない会話をしながら彼女と手を繋いで歩く。それだけでも心地良い。冬葉は自然と笑みを浮かべてファミレスのドアを開けた。
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