第八章
第30話
翌朝。冬葉は早朝に起床したものの何をする気にもならず、ただぼんやりとテレビを眺めていた。
昨日は帰宅してシャワーを浴び、そのまま布団に入った。いつもの週末ならば蓮華との会話を思い出したりしながら楽しい気持ちですぐに眠りに落ちたものだが、昨夜はとてもそんなすぐに寝付ける気持ちではなかった。
布団に入って部屋を暗くしても頭の中には藍沢と蓮華の言葉がグルグルと回り続け、答えの出ない自問を繰り返す。そうしているうちに朝がやってきてしまった。
冬葉は眠さではっきりしない意識のままスマホを開く。開いたそこは蓮華の動画チャンネルページだ。一晩でコメントの数はさらに増えている。そのどれもがやはり悪意ある言葉ばかり。しかしそれと比例するかのように再生数は伸びていた。
表舞台からいなくなっても動画をあげればこれだけの人たちが反応する。それほど蓮華の知名度は高いということだろうか。それともSNSで拡散でもされているのだろうか。
――そうだったら、やだな。
冬葉は小さくため息を吐いて動画を再生した。綺麗なメロディが流れ始め、そのメロディに透明な蓮華の歌声が乗る。
――こんなに綺麗で素敵な曲なのに。
冬葉は画面の向こうでギターを弾きながら歌う蓮華の姿をじっと見つめる。歌う彼女はとても綺麗で楽しそうだった。公園で話している彼女とは別の一面が見られて嬉しくもあり、そして悲しくもある。きっと彼女はずっと歌いたかったはずなのに、それをすることができなかった。自らをずっと責めていたから。
曲が終わって動画は停止した。冬葉はぼんやりと画面を見つめる。
「……話、できたかな」
海音とちゃんと話すことはできただろうか。海音はきっと蓮華のことを責めてなどいない。海音のした選択はたしかに蓮華の為を思ってのことだったのだろう。だが、それは彼女が彼女自身の意思で決めたこと。決して蓮華のせいではないはずだ。
そのとき脳裏に浮かんだのは藍沢の泣き顔だった。蓮華を助けるために海音がした選択は藍沢を深く傷つけた。その傷が今でも藍沢の心には残っている。彼女を苦しめている。そんな彼女は冬葉のことを好きだと言った。本気だ、と。その言葉は冬葉に救いを求めているように思えてならない。
――わたしは。
どうすればいいのだろう。昨夜から答えの出ない思考が再び繰り返される。冬葉は小さく頭を振るとノロノロと立ち上がって冷蔵庫を開いた。そして苦笑する。
「何もないや」
冷凍食品すらほとんど残っていない。これではまた紗綾に呆れられてしまう。
「買い物行こうかな」
家に籠もって悶々としているよりは良いだろう。気分転換に一人でどこかにランチへ行くのもいいかもしれない。そのとき思い出したのは藍沢と行ったカフェだった。
「……後輩さん、今日はいるかな」
彼女は藍沢と海音が付き合っている頃のことを知っている様子だった。もしいるのだったら、その頃の藍沢のことを聞けたりはしないだろうか。
聞いて何かわかるわけでもない。自分の気持ちに答えが出るわけでもないだろう。それでもきっかけにはなるかもしれない。藍沢から気持ちを告げられたときから心のどこかに引っかかっている何かを知るきっかけに。
「よし。行こう」
冬葉は一人頷くと出掛ける準備を始めた。
カフェはまだ開いていない時間帯だろうと冬葉はとりあえずスーパーに向かった。店は開店時間を回ったばかりのようで客の姿も少ない。
「今買うと荷物になっちゃうか……」
まだ棚に並べられたばかりだろう野菜の数々を眺めながら呟く。さすがにスーパーで買い物をした後でカフェに行くのは順番が違う気がする。きっと紗綾がいれば「お姉ちゃん、要領悪すぎ」と言われてしまうだろう。
その様子を想像して苦笑しながら冬葉はスマホの画面を確認する。紗綾からメッセージは来ていない。返信もしていないのだから当然だ。
紗綾は蓮華のことを誤解している。しかしきっと冬葉がどんな言葉を返したところで紗綾のもつ蓮華のイメージは変わらないのだろう。きっと冬葉が何を言ってもダメなのだ。本当の蓮華の姿を見てもらわなくては。
冬葉は小さくため息を吐き、店内をブラブラと歩く。
――とりあえず何を買うか決めるだけ決めておこうかな。
そうすれば帰りにまたここに立ち寄ってサッと買って帰れるだろう。考えながら歩いていると「あれ……?」と近くで声が聞こえた。立ち止まって声がした方を見ると見覚えのある女性が冬葉を見つめて立っている。
彼女はわずかに眉を寄せて冬葉を見ていたが、すぐに「間違ってたらすみません。冬葉さん、ですよね?」と首を傾げた。
「えっと……」
冬葉はじっと彼女を見返したがやがて「あ!」と声を上げた。
「三朝さん?」
「はい。以前、ここでお会いしましたよね。三朝海音です」
海音はホッとしたように「偶然ですね」と笑った。
「はい。本当に……」
冬葉はどう反応したら良いのかわからず、曖昧に笑って頷くと彼女はそれをどう受け取ったのか「すみません」となぜか謝った。
「え?」
「冬葉さんって馴れ馴れしく呼んでしまって」
「いえ、それは全然」
「蓮華からは冬葉さんっていうお名前しか聞いていなくて」
そのとき初めて冬葉は彼女に名乗っていなかったことに気がついた。
「すみません。以前、お会いしたときもちゃんと名乗っていませんでした。桜庭冬葉と申します」
「桜庭さん」
「はい。でも冬葉でいいですよ」
「じゃあ、そう呼ばせていただきます。なんだかそっちの方がしっくりくるので」
「しっくり……?」
「ええ。蓮華がずっと冬葉さん冬葉さんって家で話してるものですから」
彼女は言いながら微笑んだ。少しだけ、寂しそうに。
「……あの、蓮華さんは?」
「寝てますよ。明け方くらいまで話してたんですけど、気づいたら寝落ちしちゃってました」
「そうですか」
冬葉は安堵して微笑んだ。
――ちゃんと話ができたんだ。
思ってから冬葉は首を傾げた。
「もしかして三朝さんは寝てないんですか?」
「ええ。なんだか目が冴えてしまって。特に買う物もないんですが、散歩がてらここに」
「一緒ですね」
「冬葉さんも?」
「あ、わたしの場合は冷蔵庫の中が空っぽなので買わなくちゃいけないものはたくさんあるんですが、ちょっとカフェにも行きたいなと思ってて。買い物は帰りにしようかと」
「そうですか」
海音は頷くと迷うように視線を泳がせた。そして「あの」と控えめに口を開く。
「はい?」
「もしよかったら、ご一緒してもよろしいでしょうか?」
「カフェですか?」
「はい。冬葉さんとお話をしなくてはと思っていまして……」
冬葉は頷く。
「わたしも三朝さんとはお話してみたかったので、是非」
すると海音は「ありがとう」と笑みを浮かべた。そして腕時計で時間を確認する。
「カフェってこの近くのお店ですか?」
「ああ、いえ。えっと――」
店名を口に出しかけて冬葉はふと思いとどまる。あのカフェにはきっと海音も行ったことがあるはずだ。もしかすると海音にとってもあの店は特別な場所かもしれない。ならば今日あそこに行くのはやめておいた方がいいかもしれない。
「冬葉さん?」
不思議そうに首を傾げる海音に冬葉は笑って誤魔化しながら「どこに行くかまだ決めてなくて」と答えた。
「わたし、あまりこの辺りのお店も知らないんですよね」
「ああ、そうなんですね。だったら近くに良いお店があるから、そこに行きますか? 今の時間ならもう開いてると思いますし」
海音の提案を断る理由もなく冬葉は承諾し、一緒にスーパーを出てカフェに向かった。
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