第29話
「陛下と話をしていたのだけれどね、貴方を貴人に昇格しようかと思うの。」
「私をですか?恐れ多い事でございます。」
皇后にお茶へお呼ばれした若汐であったが、意外な話を聞かされ内心驚いた。
貴人とは妃嬪の下の位から3番目の事だ。
若汐は思考する。
彼女は常在の身分で充分だと考えている為にその話を断っても良かった。
高い位を目指そうなどという事は全く考えていない。
そんなものは時代劇ドラマだけで充分なのである。
「そんなことはないわ。貴女の評判はとても良いのよ。それにピアノだって貴女にしか弾けないものじゃない。貴人に相応しいわ。」
「過分なお言葉です。私には皆様のように字を書いたり、詩をよんだりといった事ができません。ピアノしか取り柄のないつまらない女でございます。」
実は若汐はその事に悩んでいた。
自分はピアノしか取り柄がない、と。
先ほども述べたように彼女は上の位を目指しているわけではない。
だが、妃嬪として最低限の教養は身につけておきたいと思っていたのだ。
それが最低限の礼儀だと若汐の中で考えていた。
しかし、乾隆帝が頻繁にピアノの演奏を求めてくるというので時間がない。
それだけでなく、どの様に教養を身につけるべきなのか分からないという問題があった。
他の妃嬪達とは1部を除いて円滑に関係を結んでいる。
その彼女達から学ぶのが1番良いことだという事は若汐自身が良く分かっている。
だが、どう頼むべきなのかも彼女はよく分からなかった。
それは本来は現代人であるというどうしようもない時間と歴史の差があった為だった。
「それはこれから身につけていけばいい話よ。簡単に諦めてしまうのは良くないわ。」
「そうでございますね。」
「時間がある時に私や嫻妃、愉嬪が貴女に教養を教えるわよ。それで問題は解決するのではなくて?」
「貴重なお時間を割いて頂くのは大変恐縮でございますが、それが叶うのでしたらお願い申し上げます。」
若汐は立ち上がり、片足を軽く下げて頭を下げる。
すぐに皇后から「楽にして。」という言葉が頭上から響いた。
ずっと悩んでいた問題が解決しそうだと若汐は少し心が軽くなった。
これでまたピアノの演奏を頼まれたとしても、取り柄がピアノしかないと思うことも少なくなることだろう。
それはメンタルの調整として大事な事であった。
「それでは決まりね。本来陛下から知らさせるべきことでしょうけど、今は政務でお忙しいから後宮の主人として決定を伝えるわ。」
若汐絨毯の上に両膝を折り曲げる。
そして勅命を聞いた。
「勅命よ、貴女に称号を贈り『令貴人』に昇格します。」
「陛下と皇后娘娘の恩情に感謝いたします。」
綺麗に手を揃えて絨毯に頭を突けるくらい下げる。
その中で疑問に思う若汐がいた。
(令貴人ってどこかで聞いた覚えがよくあるんだけど、まさか同一人物じゃないよね。)
歴史に干渉してしまっているのではないか。
ピアノを弾いてしまっている時点で今更なのだが。
だが、この少女は本当に居た人物ではないだろう。
そう願うように若汐は思った。
思わず皇后の前で冷や汗をかきそうになった。
もちろん言語道断な話である。
──事件は数日後に起こった。
その日もピアノの演奏を乾隆帝に披露する為、乾隆帝より先に円明園へ若汐は来ていた。
彼女にしかピアノの蓋を全て確実に開ける事が出来ないからだ。
準備をする為に早めに来ていた時に事件は起こった。
いや、起こっていたというのが正しい。
──ピアノの鍵盤部分の蓋が外され、乱暴にピアノの上に置かれていたのである。
このピアノは決して若汐の為に贈られたものではない。
あくまでも乾隆帝の為に贈られたものである。
その事をこの実行犯は知って行ったのだろうか。
若汐が怒りより先に来るのは、呆れという感情だった。
──これ如きで自分からピアノを取り上げる事ができるとでも?
──どれ程ここまで来るのに苦労を重ねてきたと思っている。
──言葉には尽くせないほど、努力と苦労を積み重ねてきた。
──そんなものをこんな事で簡単に取り上げられるとでも?
犯人は誰なのか、容易に予想はついた。
高貴妃だ。
令貴人となった彼女を1番嫌っているのは高貴妃だという事は皇后への妃嬪達の挨拶でよく分かっていた。
それが、どうしようもない事であるということも。
分かっていたことだった。
誰からも好かれるだなんてことは生きている限り無理な話なのだ。
それは残酷なことかもしれないが、人間関係とはそう出来ている。
だが、これはあまりにもやることが安直過ぎる。
もし自分であるという証拠が残っていたら乾隆帝に彼女はどう言い訳するのだろうか。
いや、そんな事はどうでもいい。
思考が若汐の中でどんどん変わっていった。
呆れというものがなくなっていき、彼女の中で冷たいものが心の中を覆っていく。
それは氷のようで。
触れれば冷たくやがて痛みが伴なる。
薔薇に棘があり触れば痛むように、氷も触り続けていれば痛みを伴うものだ。
それくらい若汐の瞳は冷たかった。
触れれば痛みが伴うほど、冷たかったのだ。
春海は初めて見る主人の怒りというものに怯えを感じていた。
仕えて数ヶ月になるが、主人に怒りというものを見た事は一切なかった。
見たことがあるのは疲労の表情くらいだ。
それ以外はほとんど笑顔でいる優しい主人だった。
──こんなにも恐ろしい一面があったなんて。
そう春海は考えながら表情はどうにか崩さずにいた。
「陛下に知らせるべきでは?」
「…いいえ、必要ないわ。これくらい陛下が来る前に直せる。」
「え?」
ピアノの部分の蓋というのは見た目よりも重い。
少女の身体が持つにはかなり辛いはずだが、怒りで若汐はそんな瑣末な事が構うものではなくなっていた。
言うなり、若汐は鍵盤の部分へ慎重に持ちながら重さを感じさせることなく迷わずに元の場所へとはめ込んでいった。
さながらパズルのピースを埋め込んでいるかのようだった。
現代のピアニストでも同じような状況で同じような事が出来るかと言えば、難しいと言えるだろう。
だが若汐には可能だった。
それは彼女の母親がピアノの調律師だったからだ。
その為にピアノの楽器の仕組みというものもよく理解していた。
だから例え、ピアノを全て分解されようが何度でも組み立てる事が可能なのだ。
そもそもピアノが分解できるところは限られている。
それはどの楽器も同じ事だ。
ましてや素人が嫌がらせで分解した所で若汐の知識には敵わない。
──この時代のこの国の人間が、ピアノの嫌がらせなどしようが彼女にはなんともないのだ。
ただし、若汐の逆鱗に触れている事に変わりはないのだが。
静かな怒りを含めながら彼女は作業を進めていく。
どうにか乾隆帝が来る前に全ての鍵盤は元に戻され、ピアノの蓋も無事嵌め込まれた。
(凄い…本当に郎世寧様に基礎を教えて頂いただけなの?)
春海は主人にそう言いたい言葉をグッと堪えた。
緊急事態の事が起こったにも関わらず、主人は淡々とピアノを元に戻した。
その事に素直に感心してしまった。賞賛を贈りたいほどだった。
しかし。
元の表情に戻ったかと思った春海の主人は、いつもの上品な笑顔というだけではなかったのだ。
──この主人に怒りというものが消えていていない。
乾隆帝はその事に気がつくことは演奏が終わった後もなかった。
いつものように演奏が素晴らしいと言うだけ。
だが彼女だけは秘めた怒りに気がつく事が出来ていた。
(何事も起きないといいけど…)
春海は不安を押し殺した。
──春海の心配は残念なことに杞憂に終わることはなかった。
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