第25話 

翌日。

 若汐は昨日より少しだけ髪飾り増やし、服装も深海のような色を選択した。

 今日から皇后へ挨拶する為に他の妃嬪達が集まり若汐を見る。

第一印象というものは3秒で決まるのだという。

 それだけで自身がどう思われるのかが決まるのだ。

敵はなるべく作りたくない若汐は、最低限の容姿にまでに仕上げて貰った。


「素敵ですよ、若汐様。」

「2人のおかげよ。さ、時間もないし急ぎましょ。」


 春海と共に若汐は寝殿を歩いて出た。

翠蘭は若汐の寝殿で別の仕事をしている。

 皇后が住まう寝殿にわざわざ2人も女官を連れて行く必要はないからだ。

遅刻を嫌う若汐は早足で紫禁城を歩いた。

──誰もが彼女に頭を下げて歩いて行く。


「魏常在ご機嫌麗しゅう。」


これに返事をしてはいけなかった

身分がもう彼らとは違うからだ。

まるでそこに存在していないかのようにそのまま歩かなくてはならない。


(慣れないなぁ。慣れなきゃならないんだろうけど慣れない。)


 時間が解決してくれるだろう、と今はそれを願うしかなかった。

…まぁ、内心慣れるという事はついぞなかったのだが。

 10分程歩くと皇后の寝殿、永寿宮えいじゅきゅうに到着した。


「ここね。」

「はい、お召し物失礼致します。」


主人の服装に乱れがないか春海は確認する。

自分達の仕事は完璧だ、改めて確認すると主人と共に永寿宮の門を潜った。




──皇后は密かに待ち侘びていた。


 昨日、魏常在が自分に挨拶に来る事がなかったのはなんとまだ女官としての仕事中に李玉から常在に封じされた事を言い伝えられたからだという。

 封じされた日の妃嬪はその日の夜伽を命じられる。

時間がないという理由は仕方がないものであった。


(あの少女が妃嬪の服装になる…楽しみね。)


 自身の太監から魏常在が来た事を伝えられる。

通して、と言うと彼女は入ってきた。


──皇后の中の時が止まった。


 もう履き慣れたのであろうか、花盆底靴。

女官の頃と変わらずに全く揺れる事なく歩いている。

平衡感覚が元々いいのだろう。

 煩くない程度に音を立てて歩いてきた。

そして服装は見違えていた。

 サファイヤを思い起こさせるような蒼い上着に花の刺繍。

 髪飾りは造花も使用しているだけでなく、下賜されたであろう小さな宝石類が差し込まれていた。


「新入りの方は、拝跪はいきして皇后娘娘にご挨拶を。」

「皇后娘娘にご挨拶致します。」


 若汐は皇后の太監の言葉に従う。

服の上着を両手で優雅に摘み、膝を地面に折り曲げる。

 そして右手を挙げて3回上下に軽く動かす。

今日は服装に合わせたのだろう、蒼い爪かざりが着けられていた。


「皇后娘娘ご機嫌麗しゅう。」


 化粧もしっかりされており、幼かった顔が大人びていた。

それはまるで彼女の演奏を聴いているかのような一連の動作で。

 皇后の時は止まってしまっていた。

だが皇后の責務がそのままでいる事を許さない。


「楽に。座りなさい。」

「はい、感謝致します。」


 毅然として皇后はなんとかそう言った。

音も立てずに優雅に立ち上がり、魏常在は女官に支えられながら席に着いた。

 その動作もあまりにも綺麗で。

どうして自分はもっと早く彼女を見つける事が出来なかったのかを悔やんだ。


「昨日はご挨拶に伺う事が出来ず、誠に申し訳ございません。」

「良いのよ、事情は聞いているわ。時間がなかったのでしょう。」

「はい。寛大なお心遣いに感謝します。」


 斜めに座る姿勢も両手を合わせて膝の上に置いている仕草も美しかった。

 そして何より挨拶に昨日来れなかった事を真っ先に謝罪してくる礼儀正しさに感心した。

 妃嬪になってまだ1日経ったか、というところの少女が簡単に出来ることではない。

だがこの少女は皇后の想像を簡単に超えてきた。


(この娘には驚かせられる事ばかりね…)


皇后は期待以上のものが見れたと満足した。




 煌びやかな格好をしている高貴妃こうきひはこの小娘が…と若汐を見て考えていた。

貴妃とは皇后から3番目の位の人物である。

 3人しかなる事が出来ない位と決まっている。

この人物もまた乾隆帝が皇子だった頃からの側室であった。


「どんな手を使ったら円明園の奴婢が陛下に気に入られるのかしら。」


小手調べとばかりに嫌味を交えて高貴妃は尋ねてみる。

するとまるで最初から妃嬪であったかのような高潔な笑顔で若汐は答えた。


「特に何も。強いて言うのらばピアノを聴いて頂いた程度です。」


 そう簡潔に、事実のみを彼女は礼儀正しく伝えた。

それが高貴妃の勘に触った。

 たかがピアノを弾いただけで陛下の心を掴んだと若汐というあの奴婢は言ったのである。

 許せなかった。

高貴妃には子供は居ない。

 貴妃に子供が居ないのに貴妃の位であるというのは珍しいと言えた。

 その為に、皇后との付き合いを特に大事にし周りの妃嬪達とも上手く付き合っているつもりだった。

 綱渡りをしているかのように慎重に付き合いをしているつもりだった。


──その努力が否定されたような気がした。


 高貴妃は乾隆帝がまだ皇子の頃に侍女から格格に昇格され側室となった。

若汐とは違い段階を踏んで彼女なりに苦労をして得た地位なのである。

 なのにこの奴婢はただピアノを聴かせただけで妃嬪の地位を手に入れたのだと言う。


たかが常在。たかが常在。たかが常在。


それでも簡単に妃嬪の位を手に入れたことに変わりはない。

若汐はそんな事は望んでいなかったというのに。

高貴妃はそんな事情も知らずに勝手に想像を膨らませていく。


──奴婢のくせに余計な事を。


ピアノを弾いたのも命令があったからであった。

 決して彼女が皇帝を誘惑したわけではない。

女の嫉妬に近い勘違いというものは恐ろしいものである。

 平穏を望んでいた若汐であったが、今この瞬間崩れ去った。

静かに女の戦いというものが始まってしまった日の話であった。

 若汐は高貴妃のその瞳に敵意を感じ、これはまた面倒なことになりそうだとため息を飲み込んだ。

 嘉嬪かひんからの視線も高貴妃ほどではないが、それなりに痛かった。

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