第24話
夜伽の時は、特別な馬車が寝殿まで迎えに来る。
だが、これ以上自分に対して仕事を増やさせたくない若汐は歩いて養心殿に向かうことにした。
それに馬車というものに乗った事がない。本来、現代人である彼女はそれは無理もない。
酔って吐いてでもしてしまったら取り返しがつかないと考えていた。
理由はまだある。
花盆底靴に慣れておきたいと言う理由もあった。
転びそうになっても宮女2人が支えてくれる。
練習にはもってこいの時間だった。
──満月の夜だった。
星空は満月の輝きに潜めている。だが、横に木星が輝きを失わずにいた。
この時代でも木星を眺めることは出来るのだなと少し、孤独感が紛らわせることができた。
けれど月の光で夏の大三角形を探すのは無理だ。
若汐はゆっくり眺めて歩きながら現代と同じものをもう少し探してみたかったなと残念に思った。
本当の妃嬪であるならば詩でもよんでいただろう。
生憎と、現代の感覚に染まっている若汐はただ綺麗だなと思うだけ。
情緒が足りないと言われればそういう人間であった。
若汐の周りには彼女付きの宦官が若汐の足元を灯りで照らしていた。
一歩ずつ一歩ずつ、地面を踏み締めながら若汐は乾隆帝の元へと向かう。
未だ、心の中は引き返したい気持ちで一杯である。
だが責務から逃げるという事を自分の性格のせいか、若汐は許すことが出来なかった。
(目指すは平穏よ、私!)
内心、小さく自身を鼓舞する若汐。
ピアノの演奏だけで皇帝の心を掴んだ彼女にその平穏という言葉が遠いということは、この時の彼女は知る由もない。
「娘娘、歩くのお上手ですね。」
「そうかしら。ヒ…じゃなくて体幹が良いのもかもしれないわね。」
「体幹?」
「簡単に言うと上半身のことね。首から上と腕、脚を除いたものの事を言うのよ。」
ヒールと言いそうだった若汐は慌てて話を逸らす。
やはり自身が未来から来た人間である事を伏せておいて良かったと思っていた。
今は他の宦官も居るのである。
壁に目あり障子に耳あり、以上の事があるに違いない。
何処で誰が話を聞いているだなんて分かったものではない。
だから後宮に入るということが嫌だったのだ。
それに今、ヒールと言いかけてやはり本来の自分の事は完全に伏せるべきだと考えた。
「若汐様は博識ですね。」
「ただ知っていただけよ。そんな事はないわ。」
春海の言葉を否定する若汐。
現代人にとっては当たり前にある知識だ。
特別なことではないと考えていた。
若汐はこの時代の考えに合わせようと日々努力しているが、やはり難しい。
無理に近いものがあった。価値観がまるで違う。
そして生まれた時代がこの少女の中の人間も違うのだ。
簡単に考え方まで適応するというのは無理な話だった。
「到着しましたね、娘娘。」
「ここが、養心殿。立派ね。」
護衛である御前侍衛達が綺麗に並んでおり、荘厳な佇まいである。
もちろん、現代に政務と寝殿を兼ね備えていた養心殿は残っていない。
写真でも再現のみしか若汐は見たことがなかった。
李玉がわざわざ入口まで迎えてくれた。
夜伽の身支度を整えるようにと若汐に伝えてくる。
彼女は後はどうにでもなれ、という勢いで粛々と従った。
この当時の夜伽というものは妃嬪は下着の状態にされ、布団でぐるぐるに巻かれた状態にされてから運ばれていた。
これは皇帝の暗殺を防ぐ為だったとされている。
若汐もそれに従い、布団にぐるぐる巻きにされて乾隆帝の寝所へと運ばれた。
簀巻きにされているようだなと色気の欠片もないことを彼女は考えていた。
「来たか。朕に全て委ねると良い。」
「はい、陛下が仰せの通りに。」
金色の寝所はなんとも目が痛い場所だなぁと若汐は思う。
彼女が考えていた通りに派手な場所だった。
こんな所で落ち着いて寝れるものなのかと考えてしまう。
やはり色気の欠片もない。
早く終わることを若汐は切に願った。
乾隆帝はお気に入りをやっと手に入れたと夜伽の最中、そう考えていた。
少し時間はかかったものの珍しいものを手に入れる事が出来たと。
それはこの少女も同じように思っている事だろう。
女官から妃嬪に封じられるなど、ほとんどない。奇跡に近い。
光栄に思っているに違いない。そう、勝手に考えていた。
皇帝独特の考えである。しかしそれは間違いであった。
彼女の心を手に入れるという事は出来なかった。
──だって彼女が愛しているのは、情熱を失おうともピアノなのだから。
30分後。
夜伽は終わり、再び布団で身体を包み込まれる。
そしてその後ようやく宮女2人の力を借りて服を着る事ができた。
夏の夜。
冬よりは幾分かマシだが、夜ということで夏の夜でも下着から服を着るという状況は寒かった。
(寵愛される妃嬪達は毎回こんな思いするのね。やってらんないわ。風邪ひくじゃない。)
「お疲れ様でございました、娘娘。」
「うん、ちょっと疲れたわね。」
翠蘭の労いにの言葉に若汐は苦笑いで答える。
彼女にとっては皇帝と過ごす時間は30分と決まっているのでそれさえ分かっていればなんという事はない。
『皇帝』を聴かせた時に比べたらなんという事はないな、とこれまた若汐限定の話になってしまうがそう感じていた。
若汐達は養心殿から再び歩いて自身の寝殿に戻る。
花盆底靴も歩き方さえコツを掴めばヒールのように普通に歩く事が出来た。
コツン、コツンと夜の紫禁城に靴の音が響き渡る。
こんな満月の綺麗な夜はなんだか口ずさみたい気分だな、と若汐は考えたが現代の曲しか知らない事を咄嗟に思い出しやめることにした。
信頼すべき宮女2人と壁が出来ていることに少し悲しくなる。
しかし、これから先自身が知っている歴史通りに事が運ぶとは限らないのだ。
余計な事を言うのは控えるべきだ、と考えていた。
──例え、信頼における人物だとしてもだ。
このことだけは伏せていようと改めて決意していた。
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