第7話
「さぁ、どうぞ。座ってください。」
「ありがとうございます。椅子の調節は自分でしますのでお気遣いなく。」
小さい形をした方の椅子だった。
ピアノの椅子の種類は2つある。
1つは背付ピアノ椅子。こちらが小さめの椅子である。
もう1つは横長の椅子が特徴のコンサート椅子とも呼ばれるものだ。
実は小さい方の椅子はやり方を知っていても慣れていないと高さの調節が難しい。
そんな椅子に迷うことなく島野は座る。
まずは椅子に座り、ペダルと足の位置、手と身体の距離の確認。
少し座高が低いと感じた野島はすぐさま椅子の後方にある調節する場所にしゃがみ込んで、小さな手を使い上にあるロックを解除してラックと呼ばれる部分を押しながら2段階上げた。
もう1度座り、同じく確認する野島。
そんな少女を郎世寧は碧眼を見開いて見つめていた。
──間違いなくこのシマノと名乗った少女はピアニストである、と。
(まだ演奏も聴いてもいないのにこれだけで分かるとは…)
準備が出来たのか、島野は鍵盤を両手に置く。
足もペダルに置かれていた。
それだけではない。
背筋を伸ばし、顎は引いて薔薇のような唇は何故か開きっぱなしだった。
息を吸う音が聞こえた。
独特な吸い方だった。
──現代でいう腹式呼吸というものだった。
そして彼女は歌い出した。
──青い瞳から一筋の雫が流れた。
もう生きて戻ることもないかもしれない祖国、イタリア語だったからだ。
曲は郎世寧もよく知っている曲であった。
ゲオルク・フリードリヒ・ヘンデル作曲オペラ『リナルド』より「私を泣かせてください」。
少女はほとんどアカペラに近い状態──専門用語でいうとレスタティーヴォから歌っていた。
音程も発音もほとんど完璧に近い状態の歌声であった。
特にRの巻き舌はイタリア人とほとんど変わりなかった。
レスタティーヴォが終わり、アリア──例えるなら歌の本編が始まった。
ピアノの伴奏が歌に合わせて奏でられる。
あの小さな手が鍵盤を最も容易く操っていた。
ペダルもあの小さな足と踏みにくそうな靴で簡単そうに踏みこなしている。
本来なら踵が高い靴の方が踏みやすいはずだ。
だが、島野はピアニストである。
どんな状況でも完成された形で弾くというのが演奏家だ。多少の踏みづらさを感じていても、それを表に出すということはなかった。
『苦しい運命に泣くがままにさせて下さい。そして自由に焦がれることをお許し下さい。
悲しみが、私の苦悩の枷を打ち砕きますように。ただ憐みのために。』
簡単に訳すとそういう意味の歌である。
発声はまるでオペラ歌手のようでピアニストというだけなのは嘘なのではと郎世寧は思うほどであった。
ピアノの弾き歌いは見ている側からすると、とても簡単そうに見えるが実際は違う。
歌いながら弾くピアニストは意識すべき点が増えてしまうために困難になるのである。
だからそれを簡単そうに笑って歌う島野──少女のピアニストとしての実力は相当なものであった。
(しかし何故イタリア語で歌えるのでしょうか…?)
郎世寧の疑問はごもっともである。
その答えは至極簡単な話で、島野は大学でイタリア語の講義をとっていたというのとイタリア歌曲を学んでいたからである。
音楽大学は中心として学ぶ楽器を主科と呼び、必ず最低1つは副科と言ってもう1つ楽器を学ばなくてはならなかった。
彼女が選んだ1つが声楽だったのである。
その声楽のレッスンで初めて習った曲が今まさしく歌っている曲であった。
歌が終わり、少女は立ち上りピアノを片手につけて優雅にお辞儀をする。
それはまるで舞踏会の踊りを終えた貴族のように。
郎世寧は少女のいる場所は西洋のどこかの宮殿のようだと錯覚してしまう方だった。
(あぁ。彼女は間違いなくピアニストです。)
賞賛の拍手を贈る。
祖国を思い起こさせる曲を歌ってくれてありがとう、という感謝の意味も込めて。
確固たる証拠を得た出来事の話であった。
証拠を得たことで目下の問題を解決しようと郎世寧は考え始めた。
「素敵な演奏をありがとうございます。イタリア語も素晴らしかったデス。感動しマシタ。」
「本国の方に言われると嬉しいですね。久しぶりで緊張しました。」
「その割には簡単そうに弾いていましたね。」
「伴奏は簡単な方ですから。」
その小さな手であの曲を弾きこなしたのか、と郎世寧は言葉にせず思う。
目下の問題についてはこれもまた簡単なことでしたね、と郎世寧はすぐに案が浮かんだ。
「貴女にはこの国の名前はありませんヨネ?」
「はい。ありません。」
「
「若汐…ですか。素敵な発音ですね。有り難く頂戴します。」
「魏佳氏には私から話をつけておきマス。これで戸籍は心配ないと思いマス。」
魏佳氏…?どこかで聞いた名だなと島野は思ったが、深くは考えることをやめた。
久しぶりのイタリア語での歌唱。
正直に言うと彼女は緊張疲れをしていた。
これは自分を助けてくれた郎世寧に向けてのプレゼントの意味でもあったのだ。
イタリア人にイタリア語の歌を聴かせるとは今ままでの経験がなければ玉砕ものであっただろう。
それほどまでに気を張り詰めて、でも久しく純粋に楽しく歌って弾くことができて彼女は満足していた。
18世紀のピアノを弾くことも出来たのだ。大満足である。
こんなに何も考えず楽しんで音楽を奏でたのは久しぶりではないかとも思い出していた。
「それでは若汐。私の女官になってもらえマスカ?ちょうど良い助手が欲しかったのデス。もちろん仕事は私が責任を持って教えマス。陛下もお許しになるでショウ。」
それって郎世寧の女官になるということ?
自分の立場が激変したことについていけない島野蒼こと若汐は戸惑いを隠せなかった。
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