第6話 

「貴方はこの時代の人間ではない。間違いありまセンカ?」

「はい。未来の時代から来ました。」

「私の祖国はイタリアデス。行ったことはありマスカ?」

「機会があったので行った事があります。ピサの斜塔は特に素晴らしい建物でした。」


 郎世寧は目下の問題を解決すべく島野蒼──少女と会話をする。

まず、本当にこの少女がこの時代の人間ではないという確固たる証拠が欲しかった。

 もちろん誰にも言うつもりはない。

自身が仕えている乾隆帝にもである。終生、口に出すつもりはない。

これからこの少女を助けていく上で彼女のことを知っておきたかったのだ。


(あの斜塔を知っているとは…しかも行った事が特別ではない様子デスネ。)


 郎世寧が考えいている通り、島野にとってイタリアに行ったことは特別なことではなかった。

 大学でも成績優秀者であった彼女は無償でイタリア短期留学をしていたのである。

その際に観光することもできたので島野はピサの斜塔にも足を運んでいた。


「貴女の職業はなんですカ?」

「ピアニストです。あんまり売れてないんですけど。」


 碧眼が見開いた。

女官とは即ち奴婢である。

その奴婢の身分である少女からはあり得ない発言だった。

いや、そもそも。この国の人間が弾ける楽器ではないのである。

 手足が短いその身体であの鍵盤を操る事ができるのか。

ペダルを踏みこなす事ができるのか。

郎世寧は問いかけに自然体で答えた少女に疑念を抱いた。


「その手でピアノを弾くのは難しいのではないですカ?」

「手の大きさにピアノの演奏は関係ありません。技術さえあれば補えます。」


 当たり前の事ように少女は言った。

まるでピアニストとしてはそれは当然の事だと言わんばかりに。

少女は即答した。

 その答えに郎世寧は思考する。

実は円明園には最近発明された黒いグランドピアノが置いてあるのだ。

誰も弾く事ができる人間がいないため、放置されている。

 もはや置き物状態とされ、乾隆帝は弾ける人間以外は触るなと命じたほどであった。

グランドピアノに埃がそろそろ積もりそうでしたね…と彼は思い出していた。

乾隆帝はこう言っていた。


『弾けない人間は触るな』と。


つまり、弾ける人間であるのならば自由に触ってもいいと言う事である。

身分は関係ない命令だと信じたい、郎世寧はそう思って少女に言った。


「ピアニストであるなら、もちろんピアノは弾けますよネ?」

「は…い。え?ここにピアノがあるんですか。」

「あります。貴女が本当にピアニストであるならぜひ聴かせてもらえませんか。今なら人は居まセン。」

「分かりました。その場所に連れて行ってください。」


 少女は間を置くことはせず迷わずにそう言った。

郎世寧はその反応の速さに再び碧眼を見開く。

 最初、イタリアで発明されたピアノの鍵盤の数は54。

この円明園にある新しく発明されたピアノの鍵盤の数は88である。

郎世寧は祖国の事である楽器のことは宮廷内に居る誰よりも詳しかった。

 その88の鍵盤を少女は操れると言ったのである。

漆黒のその瞳に嘘はないように見えた。


(嘘かどうか、弾かせてみせれば分かる事デス。連れて行きましょう。)


「こちらデス。案内しマス。」


 郎世寧の背中を小さな手足の少女が早歩きで着いていく。

島野は彼が自分に対して疑念を抱くのは宮中の人間として当然の事だと考えていた。

 むしろ今までの対応がおかしいくらいだった。

宮中の女官の服を着ているとはいえ、光の中から現れた侵入者。

その謎の侵入者に対してここまで親切な対応をしてくれているのだ。

 ピアニストという発言に対しての疑念まで捨てられ信じてしまう。

それは宮中の人間としてはいかがなものか、と島野は現実的な考えを持っていた。

だから彼女にとっては、郎世寧のことは親切な人だという印象しか残っていなかった。

 円明園はアロー戦争で破壊されてしまったために現代では残っていない。

そのため、島野にとっては夢のような風景だった。

西洋風の建設がとても多かった。西洋の城を思い出させる建設物もあった。

 展覧会で描かれていた噴水はまだ建設されていないらしい。

描かれていた女官もここには居ない。

 管理されている色とりどりの花はまるで女の園を思わせるかのよう。

ここは離宮といえど紫禁城の一角だ。

花に対し、彼女がそのような思考に走っても仕方のないことであった。


(花に対してドラマの思考回路とか…失礼だよねぇ。)


 幾分か落ち着きを取り戻していた島野は展覧会に居た時のように気持ちが変わっていた。

 彼女が辺りを見渡しながら5分ほどすると、離宮にしてはとてもシンプルな作りの建物に到着した。

 ここに、18世紀のピアノがあるのだという。

イタリアで発明されたばかりの最新のものであることを島野は知識として知っていた。


──気分の高揚を抑えるのに必死だった。


 ピアニストであるならば、自分が主に演奏している楽器に対して興味を持つのは当然の事である。

だが、その高揚感を郎世寧が理解してくれるかは話が別だ。

そのために必死の思いで平静を保っていた。

 郎世寧に案内され彼女は建物内には入ると、様々な彩りどりの陶器や楽器が置かれているのを見ることができた。

 置き物状態にされているのは郎世寧の説明がなくともすぐに分かった島野は勿体無いと感じていた。

 どれも学校や大学の授業で見たことあるものばかりだと彼女は見渡す。

その中でも一際目立つ大きな楽器があった。


──黒いグランドピアノだった。


サイズはG3ぐらいではないかと島野は見ていた。

 グランドピアノにも、もちろん色んな大きさが存在するのだがG3はもう現代では販売されていない大きさのグランドピアノだった。


(まさかこの18世紀の最新のピアノかつ、大きさまでもうないものなんて。)


これを弾かせてくれるのだろうか。

どんな音がするのだろうか。

彼女は期待に胸を膨らませる。


「ピアノの蓋を開けると響きマス…よね?」

「そうですね。響きます。」

「人に聞かれると少し良くないので鍵盤のところだけ開けマスネ。」


 郎世寧は少し被っていた埃を綺麗に払い、蓋をソッと割れものを触るかのように開けた。

島野は考えた。

今更だがこれは乾隆帝に向けて贈られたものなのでは?

 それを奴婢の自分が触っても良いものか?もちろん、答えは出ない。

答えの材料がないのだから当たり前だ。


「さぁ、どうぞ。」

「あの、奴婢である自分が触っても良いのですか?」

「大丈夫デス。貴女は『弾ける』人間なのですから。」


 もしや、弾くことが出来る人間が居ないから置き物状態にされていたのだろうか。

島野は瞳を細める。

事実、その通りであった。

 その事実を知るのは関係者のみである。

少女の顔が不満気な表情に変わっていることに郎世寧は気がついた。


「どうかしましたか?」

「郎世寧様。楽器とは生き物です。ぞんざいに扱うことは誰であろうと許されません。」

「は、はい…。」

「ここの管理者の方は存じ上げませんが、もっと丁寧に管理するよう指示することを求めます。」


 自分の今の身分が奴婢であることはよく理解していた。

 しかし、ピアニストである彼女は自分が主に弾く楽器をこのようなぞんざいな扱いを受けている事が到底許す事ができなかった。

 これで死刑になるならこの国に音楽の発展はないだろう。

その覚悟の上で島野は言った。


「わ、分かりました…すみません…。」

「謝るのなら郎世寧様ではないと思います。この身分で生意気を申し上げてすみません。」

「イイエ。貴女の意見はごもっともデス。気にしないでください。」

「そう言ってもらえると有り難いです。」


 内心、安心して胸を撫で下ろしたことを気づかせないように島野は気を張った。

確かに死刑を覚悟して言ったことである。

 この時代はまだ命の価値はとてつもなく軽い。

皇帝が絶対であり、その他の命はその皇帝が握っているのだ。

フランスの絶対王政と同じと思っていい。

いや、それ以上かもしれない。

 つまりもし郎世寧が悪人だったとすると、即座に島野の発言を乾隆帝に報告するだろう。

そうなれば奴婢である少女の姿をした彼女は死刑確定である。

そのことを島野は分かっていた。

 死が怖いと思うのは人間として当然の事である。

幸いにもその恐怖を欠陥していない彼女は、今この瞬間に命があることのありがたみを感じていた。

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