湊と詩の場合


 一花が無事退院して、数週間後の日曜日。

 季節はいつの間にか春になっていた。


 東京都K市。

 葉桜となった玉川上水沿いの桜並木を、家族三人で鮮やかな新緑の中、ゆっくりと歩く。

 住んでいる町から電車と徒歩で30分以上掛かるこの町を歩いているのは、ただの遠出の散歩ではない。


 とある人物に会うため、家族で訪れたのだ。

 その人は、日本のアンドロイド技術の先駆者であり、権威でもある。


 桜並木が途絶えた先に三人の前に現れたのは、小さなプレハブで作られた町工場だった。


 入り口の引き戸には、【日下くさかアンドロイド技術研究所】と手書きの木板に書かれていた。

 以前は大きなアンドロイド研究所に勤めていたらしいが、退職後は気ままにオーダーメイドのアンドロイドを作っているのだという。

 御年79歳。

 保健師の今村さんの義理の兄だという。


「こんにちはー!」


 湊がレトロな曇りガラスの引き戸を開けて、挨拶をすると「はーい!」と白の割烹着姿の中年の女性が出てきた。

 少しふくよかな、笑顔の似合う人良さそうな女性だ。


「あの、今村清子さんから紹介を受けた下村ですが」

「はい。伺っていますよ。博士、博士〜! 

 下村様がいらっしゃいましたよ~! さあさあ、こちらへどうぞ!」


 左右、作りかけのアンドロイドの頭部や部品やらがごった返した背の高い棚を迷路の様に進むと、開けた空間にたどり着いた。

 その中央には作業台があり、右側は天井まで届く部品の山。左側に簡単にパーテーションで区切られたソファーとテーブルがあった。

 その作業台で湊達に丸くなった背を向けて電動ドリル片手に作業をしている人こそ、この工場の主である、日下くさか慎司しんじ博士であった。

 こちらにゆっくりと振り向くと、白い髭をしごきながら、パタパタとサンダルを鳴らして近づいてきた。


「はいはい。清子さんから聞いていますよ。よくいらっしゃいました。みどりさん、この方達にお茶をお出ししてくれますか?」

「もう用意済みですよ!」


 みどりさんと呼ばれた中年女性は、いつの間にかテーブルに緑茶を並べていた。


「はっは。流石はみどりさん。仕事が早い。さ、こちらに座ってお話しましょうか」



 ◆



 ――実のところ、詩にはまだ迷いがあった。


 数週間前、三人が幸せに暮らすために、アンドロイドの手助けが必要だという結論に思い至ったが、本当に、これで良かったのか。


 自分の幼少期を思えば、不安でしょうがないのだ。日下博士はみどりさんの淹れたお茶を一口飲み、


「さて、あなた達の事情は清子さんから聞いていますよ」


 と、言って立ち上がった。


「数週間前に保育補助アンドロイドの作成依頼を受けて、お二人にぴったりのアンドロイドを作りました。今、連れて来ますからね」

「あの……!」


 作業台の方へとノソノソ歩いていく日下博士を詩は引き留めた。


「何か?」

「……あ、あの……。実はまだ、アンドロイドを持つことが……不安で……」


 動悸が止まらない。手に変な汗がじわりと滲む。不安な気持ちが落ち着かない。

 そんな詩の様子を感じ取って、手を握る湊。

 久しぶりに繋いだ手。湊の手はこんなに大きかっただろうか。


 不安に身を縮める詩を、博士は目を細めて微笑んだ。


「大丈夫。貴女もきっとに好きになれますよ。私が保証します」


 日下博士がパーテーション越しに「さあ、おいで」と手招きして、アンドロイドを呼んでいる。

 詩はぎゅっと目を瞑る。



 ――怖い……!














「……わあ! 可愛いな!」



 湊が感嘆の声をあげた。








 ――そうか、女の子のアンドロイドなのか。





 一花は女の子だし、女型のアンドロイドは予想していたが……。





 そろそろ覚悟を決めて目を開かなければならない。しかし、さっきから目を瞑った詩の前髪を靡かせる、生暖かな風は一体何なのか。

 その気味が悪い空気にも我慢が出来ず、目をパチリと開けると、そこには金色に近いしっとりとした体毛を持つ、大型犬が居た。


「……い、犬?」


 優しそうな円らな黒目が詩を覗き込み、ペロリと詩の頬を舐めた。思わず「ひゃっ!」と声が漏れた。

 どういう事なのか。

 詩は犬の後ろに立つ日下博士を見た。


「この子は、子守用アンドロイド犬です」

「「アンドロイド犬??」」


 ハッハッハと荒い息遣いで「ワン!」と吠えるアンドロイド犬。

 どこからどう見ても、犬そのもの。ゴールデンレトリバーだ。

 アンドロイド犬は今度は湊に抱っこされた一花の元へと行き、一花をじっと見つめた。

 そして眠る一花の匂いをクンクンと嗅ぐと、キューン、キューンと嬉しそうに足踏みし、箒みたいな大きな尻尾をパタパタと振った。


「そうだよ。その子がお前と一緒に暮らす赤ん坊だ」

「あ、あの、博士」


「なんだい?」

「この犬がアンドロイドなのは、分かりました。しかし、この犬が子守り用って……?」

「うむ。下村さん、アンドロイド犬に赤ん坊を抱っこさせてみなさい」

「えっ、犬にですか?」


 湊も驚く。しかし博士は「大丈夫だから」と言う。

 湊は抱っこ紐から一花を外すと、犬の目の前に、眠る一花を差しだした。


 ――すると、犬はいきなり二足歩行になり、前足を差し伸べて一花を抱っこしたのだ。一花は犬の前足でしっかりと抱きしめられて、ふわふわな胸毛に包まれて眠っている。


「う、うそっ!?」

「犬が抱っこ出来るの??」

「このアンドロイド犬はオムツ替えもミルクを飲ませるのも『出来る』ように作ってある。他にも体調不良や怪我を感知出来たり、主人や救急に連絡も『出来る』。もちろん、一緒に赤ん坊と遊んだりも『出来る』」

「万能ですね!」


 湊が関心すると、博士は「しかし」と付け加えた。


「この犬は『出来る』けれど『完璧』じゃない。まず、言葉は喋れない。意志疎通は出来るが、必ずしも言うことを聞くとは限らない。そして、個性がある。この子は素直で優しいが、少々怠け者で、おっちょこちょいだ」


 おっちょこちょいの……アンドロイド犬??

 湊と詩は顔を合わせ、慌てて犬から一花を奪い戻した。ちょっと悲しそうに「くーん」と鳴く犬。


「あの、博士。作成して頂いて大変申し訳ありませんが、もう少し安全なアンドロイドに改良して貰えますか?」

「私からも、お願いします」


 湊と詩はそう言ったが、博士は首を傾げて「おかしいな」と呟く。


「君たちにぴったりのアンドロイドだと思ったのだけど」

「安全ではないアンドロイドがですか?」


「そうだよ。詩さん。特に貴女にぴったりだ。貴女は完璧じゃないアンドロイドが必要なんです。――私もね、ロボットを何十年も作っていて、初めて気が付きました。理想は人を救うけれど、時に理想は人を追い込むのだと。この子は貴女が嫌悪するアンドロイドの「順従性じゅんじゅうせい」を一切取っ払った子です」


「つまり、この子は不安定で不完全なアンドロイドって事ですか?」


「はっは。その通り。つまり、この子は【我々人間と一緒】なんだ。作っていてね、改めて思い出したよ。僕の初心をね。

 僕は、幼い時に若年性認知症になった祖父の介護をしていた。母親もいたけれど、母親は幼い人で、自分が生きるので精一杯だった。だから、僕がやるしかなかった。悲しかったよ。友達とろくに遊べず、学校も満足に行けない。生きる事に絶望して苦しんでいた。でも、周りには自分が可哀想って思われたくなくて、いつも、へっちゃらって顔して、でもゴールの見えない暗い人生がとても辛かったんだ。  

 そんな時、僕に手を差し伸べてくれた人がいた。

 その人は自分だって苦しい状況だったのに、僕に介護用ロボットをくれたんだ。僕は、その人に恩返しをしたくて、その人を救いたくて、たくさん勉強をして、介護用ロボットを作ったのが始まりだ。

 それから、たくさんの苦しみ悩む「僕たち」にロボット……今ではアンドロイドを届けたくて、半世紀生きた。……しかし、今の人々は快楽のためにアンドロイドを使おうとする人間ばかりが増えて、アンドロイドの価値が変わってしまった。

 僕は、この先の未来がとても悲しくて不安だよ。理想と完璧を求める先に慈しみがあるのだろうかと。……けど、その中で、君たちのような若者がまだいてくれて、感動したんだ。

 君たちのような、人生を人間らしく精一杯生きて、時には失敗し苦しみながらも、それでも前へ進もうとする人にこそ、アンドロイドは必要なんだ。だから、僕は喜んでこの不完全なこの子をプレゼントする。


 僕は君たちが、この不完全なアンドロイドと共に人生を色濃く生きていけると、信じているよ……」

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