湊の場合⑩


「はい――はい、分かりました」


 湊はスマートフォンの通話終了ボタンを押した。

 そのまま席から立ち上がり、鶴橋のデスク前へ立った。


「あの、鶴橋部長。娘が熱が出てしまって……。今日はもう退社します」

「えっ? またぁ!? 頼んでいた仕事はそれまでに終わるんでしょうね!?」


 一花が保育園に通いだして二か月が経った。

 最初は順調かと思った保育園生活。しかし登園三日後に最初の熱が出て、それから断続的に体調不良を起こす一花。

 希望の園は希望をすれば、病児保育をしてくれる。

 しかし、それでも、我が子が体調不良ならば、早く帰って、一花を安心させてやりたい。


「鶴橋さん、私が代わりにやりますから」


 エミリが手を挙げた。

 続く早退や欠勤を不憫に思ったのか、エミリが以前から自主的に仕事を請け負ってくれる。湊はエミリの善意に、何度も助けられた。


 今や、湊の中でエミリの存在はかなり大きなものになっていた。お互いが目配せして微笑むのを鶴橋が「あのさあ!」と声を荒げて遮った。


「その件なんだけど」


 周囲もシンとなる。


「エミリ、明日から部署異動になったから」

「「えっ!?」」


 エミリも知らなかったようで、湊と一緒に驚きの声をあげた。鶴橋は理由を言おうとしたが、どうやら理由があまり公で話す内容ではないらしい。口を動かそうとして留まる。

 ――現状、周りの人間は聞き耳を経てて鶴橋の理由を知りたがっている。

 湊とエミリは小会議室に連れて行かれた。

 鶴橋と対面し、湊とエミリが隣同士に座った直後「要はさ」と鶴橋は話し始めた。


「社長が怒っているの。エミリ、心当たりあるんでしょ?」

「あ……」


 俯くエミリ。


「社長もさ、エミリの肩入れ具合が異常だって気が付いたみたい。傍から見たら二人の関係が怪しいってわかるくらいね」

「そんな! 私はアンドロイドですよ!? パ……社長に言われた通り、部署内にがあれば、それを私が率先して解決しているだけです! もし、これが鶴橋部長でも、私は同じ事をします!!」


 湊本人には個人的な感情がないと弁明するエミリ。清々するほどに。

 湊の心の中で、少しだけ膨れていた邪な想いをぺちゃんこにするほどに。他意のないエミリにガンと言われて、改めて認識する。


 そうか、自分はアンドロイドエミリからみても、この部署の、この集団の中の「問題のある人間」なのだ。


 だから、万能なエミリが部署内の危機を回避するために率先して解決していたに過ぎない。

 つまりはエミリだって、持ち主の社長の言いつけ通りに動いた結果で、それ以上の感情は無いのだ。


「うん。エミリはそのつもりでもね。「どっかの誰かさん」はちょっと勘違いしているみたい。だから、異動するの」

「……」


 そして湊の勘違いを鶴橋は知っていた。いや鶴橋だけじゃなくて、きっと部署内のみんなも。

 湊は恥ずかしさとみっともなさのあまり、顔を上げられない。太ももに置かれた握りしめた両手を見つめていた。


「明日からは、エミリは社長の目の届く秘書課に異動よ。……エミリは本当に出来る子だったから、こちらとしては損失が大きいわ。新しいアンドロイドは高機能のエミリの様に働けないし……下村君


 こんな事を言われた後に「じゃあ帰ります」と言い難くなってしまった。


「どうしたの? お子さんの体調が悪いんでしょ? 帰ったら?」

「……あの、妻に代わって貰えるか電話してもいいですか?」

「ああ、そういえば、仕事がとっても忙しい奥さんが居たわよね。大変ね。東雲さん、美人で仕事が出来るから社内外で引っ張りだこだもの」

「下村さん……」


 エミリが何か言いたそうだったが、湊はそれを遮って詩に連絡を入れた。

 十回以上コールを入れるが、そもそも電話に出ない。一度切って、もう一度掛けてみるが、電話に出ない。


「ちょっと、営業課に行ってきます」


 湊は急ぎ足で自分のいる2階から5階にある営業部へと向かった。


 営業部は総務と違って華やかだった。日当たりのよい南側にあり、一面の窓ガラスから程よい太陽光が差して明るい。総務は北側にあって、いつも薄暗いというのに。仕事内容や来客の頻度にも理由はあるのだが。

 電話は常に鳴っているし、人々は生き生きとしていて……なんだろうか、活気がある。


「おお、下村君。久しぶりだな!」


 湊が入り口で詩を探していると、ちょうど会議を終えた豊川部長が声を掛けてきた。

 現在は詩の上司で、湊の入社当時は湊の上司だった。湊と同じ既婚者で成人した子供もいる。


「豊川部長、お久ぶりです。あの、妻は……」

「ああ、東雲君はレセプション業務しているよ。今から接待だと言っていたけれど、用事かい?」

「……あ、いえ……」

「いやいや、わざわざ来るくらいだから、重要な事なんだろう。どうした? 子供のことか?」

「いえ、大丈夫です」


 と、総務課へと戻ろうとすると、ガシリと肩を掴まれた。もう反対の手で豊川部長は背広の胸ポケットからスマートフォンを取り出して通話始めた。どうやら詩へらしい。

 湊の電話には出ない癖に、部長から掛けるとすぐに繋がった。


「ああ、東雲君、ご苦労様。その接待ね、私が行くから。下村君が営業部に来ていてね。――うん、君に何か用事があるんだよ。うん。うん。――ああ、大丈夫。――うん。大丈夫だから。――じゃあ、私が今から行くからね」


 プッと電話を切ると「そういう事だからね。もうすぐ東雲君は帰ってくると思うよ」と言った。


「部長! そんな事をしてもらうほどの事では……!」

「君、大した事ない理由でここに来たの? 子供が体調不調なんだろう? それは大した事じゃないの??」

「……!」


 にこにこと朗らかに笑う恵比寿顔の豊川部長。


「下村君。あのね、上司ってのはさ。

 部下に指示したり評価するためだけにいるんじゃないんだよ。部下が困っているときに、手を差し伸べるためにもいるんだからね。……それに、私は個人的に君たちの選択を応援したいんだ。私の時代だって、社会の子育てに対する理解は乏しかった。――結局、手が回らなくて奥さんが一時的に仕事を辞めちゃったけれどね。

 遥か昔は、一番が明確だった。

 男は仕事をして、女は家族を守って。それが一番だった。けれど、私達も君達も、勉強して、仕事して、結婚して、子育てして。一番がたくさんありすぎて、結局は我々は一番時間と苦労と金がかかる子育てを放棄した。人工的に生まれる様になったしね。……でも、でもさ。なんか、そんなの寂しくないか? 私はそれがとても寂しいと思ったんだ。愛する人との間に子供をもうけて、家族を作りたかったんだ。――周りからしたら、そんな合理的じゃない事をわざわざ苦労してやっているのかと思うだろうけれど。苦労したって良いじゃないか。何が悪いんだ。苦労は人を成長させる。

 下村君、今は辛いことばかりだろうけれど、きっといつか、来るよ。君の選択が良かったって思える日がね」


「……そう、なんでしょうか……」


「子供は可愛いかい?」

「はい」

「じゃあ、大丈夫だ! 子供が可愛いなら、大丈夫!」


 そう言うと、豊川部長は湊の肩を軽く叩いて、廊下へと消えて行った。


 ――それから数分後。

 詩が営業部にもどってきた。

 とても不服そうな顔して。


「……話って何?」

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