第8話 私は何も返せない

 沈黙を破ったのはアロイス様だった。


 「卒業パティ―のエスコートは俺がするものだと思ってた。だからニコが本当は違う男とダンスを踊りたかったのかと焦ったよ」


 「……私はいつもどおりご当主様のご指示に従うつもりでした。今回は指摘されて初めてそれがなかったことを思い出しましたので、マルガレータ様にも曖昧な態度をとってしまいました」


 「うちのみんな……おじい様すら、言った気になってたんだな。……すまない」


 「滅相もございません。もしも私が誰かと踊ることが社交的にローデンヴァルト家のためになるのなら、喜んで従います。卒業してしまったらおいそれと皆様にお会いできなくなりますし、直接恩返しをできるのもこのパーティーが最後ですので」


 「俺たちはそういう政治的な利用をするつもりでニコの後見をしているわけじゃない」


 アロイス様が言いたいことや察してほしいことは、私が言ったようなことではないことを、本当はわかっている。

 だから私は、言葉を続けられなくなって目を伏せた。


 「それに、これが最後なんて寂しいことは言わないでくれ。気づいているかもしれないが、俺たちはニコを家族として迎えたいと思ってる。おじい様は義理の孫娘として、両親は義娘として。俺は」


 「アロイス様」

 

 震える声を振り絞り、私はアロイス様の言葉をさえぎった。

 上擦っているくせに妙に大きくなってしまった私の声に、アロイス様が黙り込む。


 「今のままではいけませんか」


 私は、日本にいるときに図書室で読んだ物語の主人公のように鈍感ではない。

 ローデンヴァルト家のみんなが……ご当主様も、夫人も、旦那様も、屋敷で働く使用人に至るまで――それどころかアロイス様ご本人までもが、アロイス様の妻に私を据えようとしていることに、私は気がついている。


 ご当主様がことあるごとにアロイス様に私をエスコートするよう命じるのも、旦那様が貴族社会で通用するように私を学院に通わせたのも、ローデンヴァルト夫人が緑の魔石や宝石がついた装飾品で私を飾りたがるのも、……アロイス様が、黒い服や黒い魔石の髪留めで夜会に出席するのも。


 全てが私をローデンヴァルト家の嫁として迎えるための準備であることをわかっている。


 〝異世界人で、次期王妃であり救国の聖女様に友人だと公言されている〟という貴重性は自分でも自覚している。それが建国からの歴史あるローデンヴァルト侯爵家の嫁にふさわしい希少価値であることも承知している。


 それだけではなくて、ローデンヴァルト家のみんなが私のことを好いてくれているのもわかっている。


 「卒業後、私は庶民になりますが、ローデンヴァルト家の皆様からいただいた多大なるご恩を忘れることはありません。皆様が私を……ひ、必要だと、思ってくださるうちは、喜んで馳せ参じます」


 そうすれば、関係性は今のまま変わらない。


 「ニコ……」


 アロイス様が困ったような声で私を呼んだ。


 私は、アロイス様が私に少なくない好意を持ってくれているのも感じている。

 彼は優しい。異世界の一般庶民なこんな小娘に、紳士的に接してくれる。優しいだけでなく、親切で、面倒見もいい。


 たとえば一緒に出席したパーティーでマナーを間違っても怒ることはない。私が落ち込んでマナーの勉強を見直していると付き合ってすらくれる。


 今も。話を途中で遮るという失礼なことをしているのに、怒って私を黙らせることもない。


 今までだって、私のたわいのない話を聞いてくれた。

 好きな食べ物、好きな色、好きなデザイン、好きな空間。反対に、苦手な食べ物、苦手な色、居心地が悪く思える空間。私がいったい何に感動し、何に苦手意識を持っているのか、……彼は私の言葉をちゃんと聞いてくれる。


 けれどアロイス様はそういう性質の人で、きっと私相手でなくとも優しいのだと思う。


 今のまま、アロイス様の優しさを享受する大勢のうちの一人のままでいたい。アロイス様から受け取った優しさは、ローデンヴァルト家の指示に従ってローデンヴァルト家にお返しする。私はそういう関係性のままでいたいのだ。


 「……こっちの世界では、貴族だけでなく裕福な庶民たちの間でも、ニ十歳差程度の年の差がある結婚は普通なんだが」


 アロイス様がぽつりと言った異世界事情は、ローデンヴァルト家のお世話になり始めたころに聞いた。

 そのときは聖女様と誰か年上の有力者との婚約の話でも出ていて、その話に同意せよということなのだと思っていた。


 「自然と婚家に好意が向くように、年の離れた婚約者の面倒を幼いころから自分の家でみるのが一般的だから、ついその感覚でいたけど……。そういう習慣のない世界から来たニコに何も説明せず外堀を埋めて察してもらおうって、家族そろって俺たちは卑怯だったな。すまない」


 右も左もわからぬ異世界で、聖女でもない私が無事に生きてこられたのもローデンヴァルト家とアロイス様のおかげだ。彼らは私の成長を見守ってくれた。

 だけど後見するだけならばなにも家に引き取って一緒に住む必要はない。

 王城には使用人のための部屋があるし、学院には領地が遠方の貴族のために寮がある。


 だから途中から私も気づいていた。彼らが私を引き取って、私に親切にしてくれる理由を。

 そう。ローデンヴァルト家の好意も狙いもわかっている。わかっているけれど。


 「ニコ、俺が君を好きだから、一緒にいてほしいんだ」


 風がない温室。

 音がない一瞬。


 私は何も返せない。

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