第2話 隣の浪人生

 牛島夫婦がT坂ニュータウンに引っ越してきてから三か月が経った頃、彼らの隣に一人の浪人生が引っ越してきた。彼の親は、少し裕福だったこともあって、マンション代は親が持ってくれ、

「ここならお勉強するには最適でしょう」

 ということで、大学を目指すための一人暮らしを始めた。

 引っ越しには大した荷物もなかったので、最初は隣に誰かが引っ越してきたなど知らなかった桜子だったが、浪人生が一人で挨拶に来た時はビックリした。

「あの、お隣に今度引っ越してきました。本城直樹と言います。よろしくお願いします」

 と言って、これでもかというほど恐縮していたのを見て、桜子の方も恐縮し、

「ええ、こちらこそ」

 と言って、それ以上何も言えなかった。

 ぎこちないというよりも、その暗い雰囲気が気持ち悪かったと言っていいだろう。

 手土産はクッキーのようだったが、ちゃんと隣近所に引っ越しの挨拶ができるだけでもいいのかも知れない。

 リビングに戻ると、旦那の幸助がテレビを見ながら、首だけを後ろに向け、

「何だって?」

 と聞いた。

「お隣さんなんだけど、浪人生の男の子が引っ越してきたのよ。そのご挨拶なんだって」

 と言っていただいたクッキーを台所のテーブルに置いた。

「へえ、今どき律義な少年じゃないか。引っ越しの挨拶なんか、なかなかしないぞ」

 と言って笑っていたが、そういえば自分たちも引っ越してきた時、管理人さんには挨拶をしたが、ご近所さんには挨拶をしなかったような気がする。

「ええ、大人しそうな男の子で、私たちもお勉強の邪魔しないようにしないとね」

 と言った。

 桜子は専業主婦なので、ほとんど家にいることが多い。一日に一度くらい出かけるが、それは買い物くらいで、一時間くらいで帰ってくる。それなのに、彼がいつ荷物を搬入したのか分からないほど静かだったことを思えば、それほど荷物らしい荷物はなかったのかも知れない。

 ただ、実際にはそのほとんどは新たに買いそろえたもので、電気屋さん、家具屋さんなどの搬入が別々にあり、それぞれに時間にすれば少しの間だったことで、桜子の知らない間の搬入だったとしても、それは無理もないことだった。

 ただ、実際に荷物は少なかった。必要最小限度のものしか買いそろえなかったようで、彼の部屋を訪れた友達も、

「お前の部屋は殺風景だな」

 と言ってたほどであった。

「掃除するのも面倒だし、必要なものだけあれば、それでいいんだ」

 と言っていたが、彼の雰囲気を見ていれば、それも分かる気がした。

 彼は決して自分から何かをしようとするタイプではない。掃除も洗濯もあまりせず、ためてからする方だった。食事も外食が多く、物音もほとんどしないので、隣で桜子は、

「あの子、いつ家にいるのかしら?」

 と思ったほどだった。

 普段はあまり人のことに干渉することはなく、人に興味を持つことのない桜子だったが、なぜか隣の浪人生は何かが気になるようで、悪いとは思いながら、時々隣の部屋にグラスを押し当てて、盗み聞きのようなマネをしていた。

 音が響くわけもないマンションなのに、聞こえてくるかも知れないと思うことで、どんどん耳を離せなくなってしまった。どんな音が聞こえてくるのか、ドキドキするという感情と、少しでも気を緩めると、聞こえたはずの音を聞き逃しそうになる感覚がさらに桜子の感情を誘った。

「人の会話を盗み聞くことを楽しいと思う人がいるようだけど、何となく分かる気がしてきたわ」

 と、いつもなら恥辱に塗れたと思うようなこんな恥ずかしい行為を、どこか自分で正当化させようという思いがあるようで、不思議な感覚があった。

 桜子は、中学時代に女だてらに探偵小説に凝ったことがあった。その時に見ていたのは、謎解きやトリックなどがテーマとなっている本格探偵小説よりも、どちらかというと、猟奇的だったり、変態趣味であったりする、ちょっとホラー系の変格小説が好きだったりした。壁に耳を当てて、盗み聞くなど、まさにその時に読んだ変格探偵小説を思わせるではないか。

 桜子は、一人弟がいた。桜子よりも四歳下だったので、少し離れていると自分では思っていたが、弟の方はどうだったのだろうか?

 弟も大学入試に一度失敗し、一浪していた。二回目の入試はうまく行ったのでよかったが、さすがに最初の入試に比べて二回目はかなりナイーブになっていた。

 元々弟は頭の悪い方ではなく、高望みしなければ、浪人することもなかったのだが、第一志望の大学が不合格だったことで浪人の道を選んだのだが、さすがに二回目の入試の時は、

「第一志望が合格しなくても、今度は入学できればどこでもいい」

 というほどになっていた。

 さすがに二回目の入試では第一志望に合格できたので事なきをえたが、もし、前回と結果が同じであれば、どうしただろうと思うと、それはそれで見てみたかった気がする。姉としてはいささか不謹慎ではあるが、興味深いことであった。

 隣に引っ越してきたという浪人生、どこか弟の面影がある。少しあどけなさも感じられ、顔にニキビの跡でも残っていそうな雰囲気である。

 まだ思春期を少し超えたくらいの男の子だと思うと、その視線がギラギラしたものに思えてきて。暗い表情のその裏に、どんな本性を持っているのかと思うと、それも興味深いところであった。

 さすがに厭らしい目で見てくることはないと思ったが、桜子の中で悪戯心が芽生えたとしてもそれは不思議ではなかった。

「そうだ。今度カレーを作って、作りすぎたというのを理由に、お隣におすそ分けでもしてみようかしら?」

 というほどの悪戯心だった。

「浪人生で、いかも一人暮らしの男の子の部屋を、隣の奥さんがおすそ分けを持って訪ねるなんてシチュエーション、考えただけでもゾクゾクするわ」

 と、すぐにその気になってしまい、次第にその妄想は現実味を帯びてくるようになっていた。

 翌日カレーを作った鍋を持って隣のベルを鳴らした桜子だったが、

「お隣のものですが」

 と言って、扉を開けてもらい、

「カレー作りすぎちゃって……」

 と言って、彼に手渡した。

「あっ、それはどうも」

 と、彼もあっけに取られていたが、すぐに笑顔になって、少し赤らめた顔で、頭を下げてくれた。

 この時、

「このマンションで分からないことがあれば何でも聞いてね」

 と思わず口にしてしまった。

 まだ自分たちも入居してきて三か月だというのに、本来ならどの口がいうのかというほどなのだろうが、

――どうせ、彼が私たちに聞いてくることなんかないわよね――

 という思いが強かったので、そんな大胆なことも言えたのだろう。

 こんな他愛もない会話、マンションではよくあることなのだろうか。ただ、Ⅴシネマであったり、成人向けの作品であったりすれば、これくらいの会話は別に普通にあることのように思えた。

 このマンションに引っ越してくると、地元のケーブルテレビが回線を敷いていて、契約だけを行えば、工事がいらないということだったので、ケーブルテレビと契約している家庭も多いという。牛島家もその類に漏れず。ケーブルテレビを契約していた。

 チャンネルによっては、そんな成人作品やⅤシネマ系を専門でやっているところもあり、専業主婦で、ある程度の家事が済めば暇な時間を迎える桜子は、時々そんな番組を見ていたのである。

 この間見たⅤシネマでは、一人暮らしの大学生が、隣の新婚夫婦の夜の声を壁を通して耳を押し当てるようにして聞いているというような話があった。聞かれていることを知らずにエッチな声を上げている夫婦のうちの奥さんの方が、そのうちにその事実を知ることになるのだが、そのショックたるや、どんなものなのだろう。映画では、奥さんはさらに声を大きく上げて、わざと隣に聞かせようとしていたが、男の子の方もそのことに気付いて、最初は興奮していたが、次第に冷めていくようだった。映像を見ていて、そのあたりの精神的な流動性が、桜子には分かりかねるところがあった。そして最後には、

「これの何が面白いのかしら?」

 と結局考えるのをやめてしまった。

 ひょっとすると、リアルさが感じられないことで、飽きてしまったのかも知れないと思ったのかも知れない。

――――――ここからは、浪人生の感じたこと

 あれは、いつのことだったか。確か、あの奥さんがカレーを持ってきてくれてから少ししてのことだったと思う。僕は、あの奥さんのことが気になり始めたんだ。

 浪人なんかしていると、女の子と知り合うこともないし、知り合えそうな女の子と言っても予備校の女の子、彼女たちは、必要以上に何かに敏感で、こっちはその気もないのに、まるで僕たちを変人扱いで見ている。

 自分たちだって、見られているという意識があるから、神経が過敏になるんじゃないか。それなのに、男側だけを変人扱いするってどうなのよ。自意識過剰の甚だしいじゃないの。

 僕も確かに毎日悶々とした毎日を過ごしている。家からは、

「一人になった方がお勉強が捗るんじゃないの?」

 と言われて、僕も最初は一人の方が何でもできると思って、親の言っていることに全面的に賛成し、やっと家から抜け出せた悦びを感じていたんだけど、実際に一人になってみると、今度は何をしていいのか分からなくなる。

 予備校の中には、すでに受験を諦めているのか、予備校生という立場を使って、いろいろ企んでいる連中もいるようだが、僕には馴染めない。しょせんは予備校生というのは、高校生でもない、大学生でもない。ましてや社会人でもない中途半端なものなのだ。

 受験を半分諦めているのなら、それくらい分かりそうなのに、そんな感覚もマヒするほどになってしまったのだろうか。自分だけはそんな風にはなりたくないと思った。

 最初は、部屋に友達を連れてきて、遊べばいいんじゃないかと思ったけど、隣があの夫婦だと思うと気が引けてしまう。旦那さんは優しそうな人だし、奥さんは優しそうというよりも、包み込んでくれるような心地よさを感じる。こんな感覚今までになかったことだ。

 だからと言って、好きになったという感じではない。元々僕は年上の女性をあまり好きになれない方だった。バカにされているという思いが強いからであって、トラウマにもなっている。

 あれは、高校の頃のことだった。三年生の先輩から、

「お前童貞なんだろう?」

 と言われて、恥ずかしさで何も言えなかった時、

「よし、俺が卒業させてやる」

 と言って、強引に風俗に連れていかれた。

 強引にと言ってはいるが、別に拒もうという気はなかった。一人では勇気が出ないのでこの時、これ幸いにと思ったことで風俗デビューを果たそうと思ったのだ。

「少し早いんじゃないか?」

 とも思ったが、せっかく誘ってくれたのだから、これもいい機会だと捉えればいいことで黙ってついていくことにした。

 こういう時は余計なことを言わないに限る。すべてまわりに任せることで、事足りるのだ。

 何しろ本当に初めてなんだから、背伸びしたって、すぐにバレるだけのことである。正直に初めてだというアピールをしていれば、相手だって、

「かわいい」

 と言って、初めて用のサービスをしてくれるはずだ。

 強引過ぎず、しかし興奮を最高潮に保ったまま、どこか焦らすような雰囲気に、男は興奮するということは、本を読んで知っていた。

 だが、本は本である。実際にその通りかどうか、人によっても違うだろうし、百戦錬磨の相手であれば、本当に任せていればいいだけだった。

 別に我慢することもないのだが、我慢している態度を示すことで、相手はかわいいと思ってくれて、感動してくれる。それくらいの思いがあるだけで、あとはすべてお任せだった。

 相手の女の子がその時どう思っていたか、計り知ることはできなかったが、僕は満足だった。顔を赤らめて彼女を見ると、

「かわいい」

 と言ってキスをしてくれた。

 僕も嬉しくなって、さらに恥ずかしさが増してきたような気がした。これが初めてだと思うと、実感が湧かなかったが、それ以上に女性と一緒にいることがどれほど大切な時間なのかを知ることができたのは嬉しかった。

 ただ、一つ気になるのは、相手が風俗だということだ。次にするのがもし彼女だったら、僕はどんな気持ちになるのだろう。

「ひょっとしてできなかったらどうしよう?」

 という危惧があるのも事実で、

「本当にこの自分が誰か女性を好きになることなどあるのだろうか?」

 と思えてならなかった。

 そんな彼女を見ていると、どこか動物的なところがあることに気付いた。思わず翌日、近くのスーパーにあるペットショップに行ってみた。今までにもペットショップには何度か入ったことがあり、子犬を見ていると、気が付けば時間が結構過ぎていて、ハッとしたことがあったっけ。

 さすがに犬を飼いたいなど家で言えるわけはなかった。うちの実家でも僕の小さかった頃、犬を飼っていた。すでに僕が物心ついた頃にはだいぶお爺さんになっていたようで、よぼよぼだったのを覚えている。

 その犬が死んでしまったのは、僕が小学生三年生くらいの頃だったか、学校が終わってから帰ってみると、お母さんがショックで寝込んでいた。どうしたのかと思うと、おばあちゃんがこっそりと教えてくれた。

「イヌが死んだんだよ。お母さんが一番かわいがっていたので、そのショックも大きいんだろうね」

 と言われた。

 確かに、いつも犬の世話をしていたのはお母さんだった。ご飯の世話も毎日のお散歩も、お母さんの役目だった。

「もう、誰も手伝ってくれないんだから」

 と口では言っていたが、まだ小学生だった僕にもその時のお母さんの言葉が本心ではないことは分かっていた。

 それだけ犬の世話を焼くのが楽しかったのだろう。

 そんな犬が死んでしまった。一瞬にして生きがいを失くしてしまったかのような顔は、僕が見ていても、声を掛けられない雰囲気だった。お父さんは、一向にお母さんに構おうとはしない。イヌが死んだことなど、どうでもいいという感じだ。食事の用意をしていないと言ってお母さんに文句を言っているようだったが、そこはさすがにおばあちゃんが宥めて、お父さんに食事の用意をしてあげていた。お母さんは部屋に閉じこもってしばらくは何もしなかった。お父さんも、そのあたりは気付いてあげればいいのに。

 ショックから立ち直ったお母さんに、僕はある日、

「もう、犬は飼わないの?」

 と聞くと、顔が微妙に引きつっているようで、すぐには返事ができないようだった。

 それでもすぐに気を取り直して、

「イヌは死んじゃうから……」

 とそこまで言って、それ以上は何も言えなかった。

 僕もそれ以上聞こうとは思わなかった。最初に聞いてしまったことを後悔したくらいだからだ。

――そっか、犬は死んじゃうんだ――

 死ぬのは何もイヌだけではない。

 人間だって死んでしまうのに、人間が死ぬよりも悲しんでいる様子は、子供の僕には分からなかった。

 だから、きっとこの悲しさはお母さんにしか分からないものなんだ。そのお母さんが、

「イヌはもう嫌だ」

 と言っているんだから、本当に嫌なのだろう。

 あれから、家でイヌおろか、他の動物を飼うこともなかったのだ。

 僕も、ペットを飼うということは諦めていた。しかし、今度期せずして一人暮らしをすることになった。マンションでは基本的にペットが禁止というわけではなかったが、どうやらこのマンションでは誰もペットを飼っていないようである。ひょっとしてペットを飼わないことが暗黙の了解になっているのだとすれば、泣き叫ぶようなペットは飼うことはできないだろう。

 犬や猫、そのあたりはダメだろうし、鳥もダメである。できるとすれば、金魚や熱帯後などであろうか。

 最初はウサギを考えたが、ウサギは何かアレルギーを感じさせる。少しでもアレルギーを緩和できる動物はいないかと思い、ペットショップで聞いてみた。

 すると紹介してくれたのが、

「この子なんかどうですか?」

 と言って勧めてくれたのが、ハムスターだった。

――そういえば、ハムスターといえば、僕が小さかった頃、アニメの主人公になっていて、可愛いと思ったんだっけ?

 というのを思い出した。

「狭いスペースでも飼えますし、騒音もないので、ペット禁止のマンションなどでも、飼育しておられる方も結構いますよ。飼いやすいというのと、癒されたいというのであれば、ハムスターをお勧めしまう」

 と言われた。

 ハムスターは確かに可愛い。男の僕が一人で飼うのは抵抗があるかも思われるかも知れないが、僕にとってそれは自分をかわいいと思える瞬間でもあった。

 動物を愛でている自分の姿を想像すると、普段とは違う自分の顔が想像される。元々自分の顔など、鏡でも見なければ見ることはできない。そんなことはよく分かっているつもりだ。

 同じ顔であっても、表情が違えば確かに違った雰囲気に写るのだろうが、この時に感じた僕の僕を想像する顔は、明らかに別人だった。

 僕の友達の中で、そんな気の利いた表情をするやつがいたっけ?

 ああ、いたいた。あいつなら……。

 というわけで想像してみたが、ハムスターを見る顔が、今度はだんだんハムスターに似てくる。別に怒っているわけでもないのに、頬袋をプクッとさせる仕草は、まさにハムスターそのものだ。

 ただ、今想像した友達は、どちらかというと恰好いいやつだったので、こんなおちゃめなことが似合うやつではなかった。また別のやつを想像すると、なるほど、似ている似ている。いかにもハムスターだった。

 そうやって見ていると、またしてもさっきの恰好いいやつに顔が戻ってきた。こみあげてきた怒りからなのか、今まで僕という表現が多かったが、ここからは完全に俺になってしまっていた。

「ひょっとすると俺は、おちゃめな雰囲気よりも格好いい男に憧れているのではないだろうか」

 と思えてきた。

 その男は女性にも結構モテるのだが、

「やつが女性と一緒にいるところなど見たくもない」

 といつも思っているのは、やっかみ以外の何物でもないと分かっている。

 それでも思い浮かべてしまうのは、別の意識があるからだろうか。

 一つ気になったことだが、どうやら俺とやつとでは女性の好みが似ているようだ。だからあいつが連れている女は、ことごとく俺の好みである。

 実際に好きになった女性がいて、何とか話ができるくらいにならないかと模索していた。自分としては、まず第一段階としては、話ができるくらいで満足できると思っていた。

 どうやったら話しかけることができるのかと、あれこれ考えていると、いつの間にか彼女とそいつが仲良くなってしまっていて、出鼻をくじかれたことで、完全に彼女に対しての気持ちを失ってしまった。

「その程度にしか思っていないなら、好きになる資格はない」

 と言われるかも知れないが、俺には彼女があいつと一緒にいて楽しそうな顔を見るだけで、今まで抱いていた好意が、嫌悪に変わったのだ。

 ひょっとすると、最初から嫌悪の裏がえしだったのかも知れない。

「どうせ俺じゃあダメなんだ」

 という後ろ向きな考えが絶えずある俺には、ダメだと思った瞬間にすぐに逃げに入るという癖がある。

 だから逃げ足の早さだけは負けないつもりでいるのだが、それがいいことなのか悪いことなのか、俺には分からなかった。

 俺も自分がここまで被害妄想で、偏屈だとは思わなかったが、それなりの意地はあるつもりだった。

 好きになったはずの彼女をすっぱりと諦める気持ちになったのも、その意地からだと思っている。逃げ足というのは言い訳に過ぎないが、意地だといえば、自分を納得させることができる。そう思うと、

「俺は他人とは違う」

 という心境に行き着いた。

 そんな中でも、一人気になる女性がいた。

 昨年の予備校にいた女の子だったが、今年はいないので、どこかの大学に入学できたのだろう。彼女は綺麗というよりも可愛いという雰囲気で、いつも端っこにいて目立たないタイプの女性だった。そういう女性を自分は好きになるんだということを最初に感じさせてくれた女性でもあった。

 もちろん話しかけたりしたことはない。偶然を装って、隣の席に座るという勇気すらなかった。それでも少し離れたところから彼女を見守っているのが好きだった。まるで自分が彼女の守り神であるかのような妄想に駆られるのがよかったのである。

 あれは、ある日、彼女が友達との会話の中で、ペットの話をしていた。三人くらいの女の子が話していたのだが、そのうちの一人が、

「私、本当はフェレットが飼いたいんだけどな」

 と言っていた。

 気になる彼女ではない女の子だったが、フェレットという動物をイメージすると、その女の子に雰囲気が似ているような気がした。

 イタチっぽくて、愛らしい小さな顔が特徴で、僕も好きな動物の一つだ。

 ちなみに、嫌なやつのことからペットの話になったので、一人称も俺から僕に戻すようにしよう。

 その話を聞いた僕が気になった女の子が、

「フェレットは、日本で飼うのは難しい動物なんじゃないかしら? 確か法規制も厳しいって聞いているわ」

「そうなんだけど、飼える種類もあるっていうわ。それに飼いやすいという話も聞くし、それに値段的にもそれほど高くはないとも聞くわ」

 どうやら、少しは知識があるようだ。

「フェレット、確かに可愛いわね。でも私は別のペットを飼っているから、羨ましいけど、うちの子だって可愛いからそれでいいのよ」

 と、ちょっとおかしな語彙だったが、どうやら相手に話しかけながら、自分にも言い聞かせているような気がして、思わず聞いていて微笑ましく感じられた。

「何を飼っているの?」

 ともう一人の女の子に聞かれた時、彼女はすぐに答えたはずなのだが、その時僕は彼女が何と答えるか、想像がついた気がした。

 僕も思わず心の声で叫んでいたが、それとほぼ同時に彼女が答えた。

「ハムスター」

 このタイミングが僕には嬉しかった。

 嬉しいだけで満足してしまいそうになっていたが。、どうして彼女がハムスターを飼っていると分かったのかというと、友達に聞かれて答えようとしたその瞬間、彼女の顔がハムスターに見えたからだ。

 さっきの女の子はフェレットと聞いてから、想像したので、自分の想像が妄想に変わったのかも知れない。

 だが、その後のハムスターというのは、彼女の顔を見てハムスターだと思ったのだから、自分の妄想が想像に変わったと言ってもいいのではないだろうか。

 彼女は続けた。

「ハウスたーも結構飼いやすいのよ。頬袋を膨らませた姿なんか、本当にかわいい。リスもイメージできるし、掌に載ったり、ポケットに入ったりって、前にあったハムスターのアニメそのままって感じで、子供の頃はずっと一緒にいたくらいだったわ」

 と言った、

「そういえば、小学生の頃はいつも早く家に帰っていたものね」

「ええ、ハムスターを見にね」

 どうやら、この二人は小学生の頃からの友達のようだった。

 その会話をきいてからだが、ペットの話をしている時の飼い主の顔を見ると、そのペットが何なのか分かる気がした。

 犬、猫というだけではなく、その種類までも知っている種類であれば、容易に想像ができた。

 僕はどちらかというとイヌ派だった。

 猫も可愛いのだが、犬の場合は人に懐くので、それが可愛かったのだ。

 猫というと、家に着くという。飼い主が引っ越しても、その家に居つくのだ。それを聞いた時、

「やっぱり僕は犬だな」

 と感じた。

 だが、犬を飼うことは親の手前できなかった。一人暮らしができるようになれば、ペットが飼えるところで、飼えるペットを飼おうと思っていた。イヌやネコであれば、なかなか外出もできないが、室内で飼えるペットであれば、そうでもないだろう。イヌなどは飼い主がいないというだけでいつまでも鳴き続けているという特徴がある。それに比べれば小動物であれば、自分でなくても、餌を与えればいいだけにしておけば、頼みやすいとも思った。

 小動物であれば、特に女性に人気のペットなどは、きっと預かってくれる人もいることだろう。

 そんなこんなで、僕はハムスターを飼うことにした。

「今の僕も他の人から見れば、ハムスターに見えるかも知れないな」

 と感じていた。

 このマンションはペットを完全に禁止していない。ハムスターだったら、ちょうどいいのではないだろうか。

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