86話 秋の実りの収穫祭 4
心地の良い眠りから覚めたクロはすんすんと部屋の匂いを嗅ぐ。いつの間にか部屋は美味しそうな香りに満ちている。
当たっていたはずの窓からの日差しもクロの体をそれている。どうやら、クロはだいぶ深く眠っていたようだ。
恵真たちはすでに調理を終えて片付けの最中だ。ぴょんとソファーから飛び降りたクロは恵真に向かってみゃうと鳴く。
「クロ、おはよう。ずっと寝てたね」
「みゃ」
「まったくこっちはあんたの手も借りたいくらい忙しかったのよ」
そんな祖母の言葉を気にもせず、クロは大きな欠伸をする。
キッチンからはくつくつと何かを煮込む音がし、食欲をそそる香りが漂う。食器を洗い終えた恵真がクロの頭を撫でながら話しかける。
「じっくりゆっくり明日に向けて煮込んでるのよ。明日は煮込み料理を2品、好きな方をお客さんに選んでもらおうかなって。おばあちゃんの作った料理と作っておいたピクルスを添えて、あとは明日の朝にもう1品作るんだ」
「みゃう」
「ちょっと恵真ちゃん、この子もうごはんが食べたいって言ってるわ」
呆れたように言う祖母の言葉に恵真は笑うが、クロは恵真の脚にくっつきながら、みゃうみゃうと鳴く。まだ食事の時間には早いため恵真は食器棚の下からクロ用のおやつを取り出し、鍋の様子も確認する。
弱火でくつくつと煮込んでいるのはリアムから貰った赤身肉をアメリアから貰った赤葡萄酒で煮込んだものだ。玉ねぎや人参、香味野菜を加えじっくりと煮込むことで味が馴染みコクも深くなる。初めて調理する肉ではあるがその風味は牛肉に近い。きっと良い味になるだろうと恵真は確信する。
もう一品は白身魚のクリーム煮である。ナタリアに貰った鮭に近い白身魚を人参や玉ねぎ、じゃがいもと煮込んだものだ。こちらも粗熱が冷めた後、冷蔵庫で保管する予定だ。
そして、祖母が作ったのは秋野菜を使った煮しめである。レンコンや人参、鶏肉に椎茸をじっくり煮込んだ煮しめは遠野家の定番料理だ。今回は残念ながらこんにゃくとごぼうは抜いているが、きっちりと味の染みた煮しめはこの季節の定番で恵真にも懐かしい料理だ。
「みゃうー」
「あぁ、ごめんごめん」
つい今日、準備した料理の数々を考えてしまった恵真にクロがおやつを催促する。自身の手から勢い良く食べるクロに笑いながら、再び恵真は明日の収穫祭の料理のことを考える。
今日作った料理も明日作る予定の料理もその材料はすべて皆が持ち寄ってくれたものだ。明日の収穫祭で振舞うものは喫茶エニシに集う多くの人が作り上げたものとなる。
初めての収穫祭への不安がないとも言い切れないが、それ以上にどんな人々が訪れるのか、料理を楽しんでもらえるだろうかという期待と興奮が大きい。
そんな思いは祖母も同じなのか、頬に手を当てそわそわと恵真に尋ねる。
「お煮しめ、あちらの人たちに受け入れてもらえるかしら?」
「大丈夫だよ、前にレンコンを使った料理を出したときに好評だったもん。おばあちゃんのお煮しめの味は孫の私が保障します」
「そうね、もしあちらの方には合わなくってもこちらの方には大丈夫よね。ご近所さんにもお分けして残りは2人で食べればいいのよ! うん、そうしましょ!」
解決策を見つけ出した祖母は自分に言い聞かせるように何度も頷くが、その表情は明日の収穫祭への期待に溢れている。楽しみにしつつも落ち着かない、そんな祖母の様子は遠足の前の日の少女のようだ。
自身も明日の収穫祭に胸を弾ませながら、そんな祖母の様子をひそかに微笑ましく思う恵真であった。
その夜、誰もいないリビングをテトテトと歩くものがいた。
深い緑色の瞳がじっくりと裏庭へと続くドアを確かめる。その毛色は窓から差し込む街灯の光がなければ姿を確認できないほどの美しい黒である。
ちょこんとドアの前に座ったその小さな生き物はじっとドアを見て、一声「みゃう」と鳴いた。「大丈夫なのか」と確認するようなまなざしに、「ふぅ」とため息を吐きそうな空気がドアから伝わる。
それにむっとし、再び「みゃう」と鳴くがドアから伝わる感情はそっけないものだ。深い緑色の瞳の生き物は再びテトテトと歩き出し、暗闇へと消える。
遥か昔、ドアを生み出して意思を与えたのはその生き物だが、いつの間にか意思があるドアとの関係は対等に近いものとなってしまっていた。特に前回、その生き物が瑠璃子を驚かせ、そこから恵真に至るまで時を経たことをドアは根に持っている。
ドアからすれば、自分はずっと光を守ってきたのだ。余計なお世話である。
時計は深夜12時を過ぎ、今日は収穫祭である。多くの人が訪れるだろう今日はいつもより念入りに警戒し、自分が恵真を守ろうと小さなクロと裏庭のドアはそれぞれに思うのだった。
*****
収穫祭を迎えたその日、幸いにも天候も良い。
バゲットサンドをアッシャーたちに渡した恵真は、最後の料理を確認する。
最後の一品はアッシャーとテオがくれたきのこを使ったピラフである。米はアルロが米料理のお礼にくれたものだ。大きな鍋で炊き込んだピラフはバターの香りがふんわりとし、ふっくらと炊けている。一口食べ、味を確認した恵真もその出来栄えに頷く。
これで赤身肉の赤葡萄酒煮、白身魚のクリーム煮、祖母の作った煮しめにピクルス、そしてきのこのピラフと収穫祭のプレート料理が完成した。いつもより少し豪華な秋の定食に収穫祭への恵真の意気込みが感じられる。
祖母の瑠璃子は手伝いたいと言っていたのだが、黒髪黒目の恵真に加え、姿や雰囲気から高位であると察せられる祖母が手を貸すのは目立ち過ぎるだろうと周囲が止めた。そのため、筑前煮を持って祖母は岩間さんのお宅へと伺っている。
煮込み料理を温める恵真に慌てた様子でアッシャーたちが戻ってきた。
「エマさん、凄いよ。お客さんがもう並んでる!」
「え! もういらしてるの?」
「はい、お昼みたいにお客さんがいっぱいです」
普段であれば、バゲットサンドを販売した後の喫茶エニシはそこまで訪れる人は多くない。喫茶エニシが一番賑わうのはやはり昼食の時間帯である。その時間帯と同じくらいの人々が集まっているというアッシャーの言葉に、慌てる恵真だがすぐに気を引き締める。恵真が不安になればその心はアッシャーたちにも伝わってしまう。
恵真はいつもどおりの笑顔で2人に言う。
「じゃあ、少し早いけどお客様をご案内してくれる?」
「はい!」
その言葉に安心したのか笑顔で2人がドアへと走っていく。その姿を見た恵真はキッチンへと向かい、2人がすぐ運べるようにグラスに水を入れておく。後ろから聞こえる客の声に、すぅと大きく息を吸い込み気合を入れる恵真であった。
「凄い、本当に黒髪で黒目の御方だ」
「いや、それよりも魔獣だ。あんなに深い緑の瞳、そんじょそこらの魔法使いじゃ太刀打ちできないだろう」
「見て、このグラス。薄いし綺麗だわ。それにひんやりしてる! ねぇ、まさかこの浮かんでるのって氷かしら」
小声で話しているつもりなのだろうが、驚きから出るその言葉はすべて恵真の耳にも届く。喫茶エニシを始めた頃のようだとほんの少し前のことを恵真は懐かしく思う。客の方へ恵真が目を向けると皆、ぱっと視線を逸らすのもそのころ同様だ。
今日は料理に集中し、接客や配膳はアッシャーとテオに任せた方がいいだろうとお客の反応に恵真は思う。
メインである赤身肉の赤葡萄酒煮と白身魚のクリーム煮をどちらか選んで貰って、恵真は手早くそれを盛りつける。きのこのピラフにピクルス、それに祖母の作った煮しめを添えてプレートは完成だ。
アッシャーとテオが運ぶ姿を見送った恵真はドアを少し開け、こちらを見ている見覚えのある瞳に気付く。深い海のような緑の瞳に銀の髪、その姿に恵真はつい声をかける。
「オリヴィエ君! 来てくれたの?」
「っ!」
「こっちこっち。座ってていいよ」
そう呼びかけた恵真の声で人々の視線はドアを開きかけたオリヴィエにと注がれる。その姿にひゅっと息を呑む人々にオリヴィエは内心で舌打ちをする。
オリヴィエほど深い緑の瞳を持つ者は希少である。その力を示す瞳の色は尊敬と共に、時として畏怖の対象にもなるのだ。約束を交わしたものの、やはり来るべきではなかったのではという思いがオリヴィエの頭によぎる。
だが、そんなオリヴィエにアッシャーとテオが駆け寄り、袖を引っ張る。驚くオリヴィエだが2人の表情は安堵に染まる。その意味がわからず、瞬きをするオリヴィエに真剣な顔でテオが言う。
「オリヴィエのお兄さん、待ってたよ!」
「え、あ、あぁ」
「オリヴィエのお兄さん、どうぞ早く入ってください」
「あ、あぁ、わかったよ」
2人の勢いに押されたオリヴィエは先程の考えも忘れ、つい喫茶エニシへと足を進める。人々の注目に居心地の悪さを感じるが、喫茶エニシ以外ではよくあることだ。肩を竦めたオリヴィエにテオが笑顔で何かを差し出す。
「これ、運んでください!」
「え?」
「忙しくなりそうで困ってたところなんだ! ふふ、来てくれてよかった」
「あ、あちらのお客様まで運んでください」
そう言って2人はそれぞれの仕事へと戻っていく。食器の入った盆を持ったまま、助けを求めるように恵真を見るがにっこりと笑い返されるだけだ。
先程とは異なる意味で肩を竦め、渋々オリヴィエは彼らの指示に従うのだった。
「黒髪の女神は魔獣だけではなく、魔導師も従えている」そんな噂がしばらくしてマルティアの街に広がるのは、収穫祭の今日訪れた人々によるものである。
収穫祭のために皆で作った料理は好評で、恵真は秋の実りに改めて感謝をするのだった。
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