プロローグ「蛇の目、転生者ロルフ」
第1話「ロルフは幻の中」
終業式終わりの真夏日。渋谷スクランブル交差点には、相変わらず信号待ちの人で溢れかえっていた。じりじりと身を焼くような日照りの中、息苦しくなるほどの雑踏が体を包んでいた。
制服を着た人間たちが晴れやかな顔で楽しそうに笑っている。きっと世間の大半の高校生は、これから始まる夏の予定に心踊らせているに違いない。……■■にとっては地獄に等しいが。
なにが悲しくて、夏休みの二週間を塾の合宿に費やさなければならないんだ。
親は自分たちの青春時代など忘れて、遊びよりも勉強を優先させて欲しいらしい。勝手に塾合宿に申し込むなど鬼畜の所業だ。
まぁ、夏休みに遊んだ所で、友人たちと程々の思い出になるのがオチだろうが。だが、思い出であることには違いないし、勉強よりは楽しい。退屈さも幾分かはマシである。それなのに両親は■■の心情など一切考慮しなかった。
気付くと、赤信号で止まっていた周囲の人が動き始めていた。■■もつられて、塾へ向かうべく歩き出す。
なんだ……? 前が騒がしいな?
歩き始めてすぐ違和感に気付く。交差点の中央付近には円を描くように人だかりが出来ていた。まるで、なにかを遠巻きに見ているような――
まるで、餌に群がる蟻の様に見える。
その時、■■の両隣には見覚えのある女性二人がいた。
「気になりませんか?」
修道服を着こなす、エルフのような長耳の女性が言い――
「ロルフーっ、あれ見てみようよっ!」
金髪ショートカットの元気な娘が■■に抱き付いて人だかりの中を見ることを勧めてきた。
二人は■■をロルフと呼び、並んで歩いてくる。
なぜか■■は、ロルフと彼女たちから呼ばれることを受け入れ――
「分かった、行ってみよう」
気付いた時にはそう無意識の内に答えていた。
彼女たちは誰だっけ? 思い出せない。でも、知っているはずだ。
両隣を彼女たちに挟まれ、人だかりに向かう。困惑しながらも足は止まらない。
すると、人だかりから一人の少女がこっちに向かってきた。
「ちょっと、ロルフ遅いわよ。早く来なさいっ!」
「えっ、ちょっ」
銀髪のツインテールが特徴的なその少女は、ロルフの腕を取ってずんずんと人だかりへ向かわせた。ロルフは引きづられて、連れて行かれる。
「レイラとルーシーも来なさい――面白いものが見れるわよ」
「ミアちゃんに言われなくても行くわよ。ねえ、ルーシー」
「うんっ」
どうやら、小柄な方がルーシーというみたいだ。エルフのシスターはレイラか。
そして、目の前を歩く少女がミア。やはりどこかで聞き覚えがある。しかし、頭がもやもやと霞掛かり肝心なことが思い出せない。
頭の中で彼女たちの名前をぐるぐるさせていると、ミアが声を上げた。
「さあ、着いたわよ。……そこ、ちょっと退きなさいよ」
ミアは文句を言いつつ、強引に人だかりへ割り入っていく。
人混みはみな、一様にスマホを構えていた。その先は一点に集中している。ミアはそこへ向かっていた。
なにかを撮っているらしい。だが人だかりのせいで、なんなのかよく見えない。
強引に割り込むせいで、周りから迷惑そうな声が聞こえてくる。
「ミアちゃん、待ってよー」
「入れなーいっ」
後ろから中々入れないのか、ルーシーとレイラの声が聞こえてくる。
ミアに引っ張られながら、ロルフはどこか期待するのをやめられない。渋谷スクランブル交差点のど真ん中、そこになにがあるのか。いつもとは違う、なにが。
「ロルフ、見れるわよ」
「っと……」
ミアに引きずられ、ロルフは最前列へ躍り出た。
目線を上げる。
――
冗談の様な大きさだった。人間の腕くらいの太さはある。綺麗な鱗が日差しに反射し、光っている様に見える。蛇はチロチロと舌を出し、周囲を警戒していた。
みんなこれを撮っていたのか。それにしても――
「なんで、蛇が?」
思わず疑問が口をつく。
「くすくすっ」
ミアが隣で笑った。繋いでいる手がぐっと握られる。
なぜ、笑っているのだろう。
「ロルフ。あなたにそっくりね、あれ」
「え?」
そっくり? 白蛇にか? なぜ? その疑問をぶつける前に、蛇の頭がゆっくり、とこちらを向いた。血のように赤い眼が周囲を睥睨する。ロルフの周りが少しばかり後ずさった。
蛇は、なにかを見定めるようにロルフをじっと見つめているように思える。
……なんか、こっちを見ているような。
奇妙な蛇の視線に、ロルフは不安が這い上がってくるのを感じた。その真っ赤な瞳は、なにかをこちらに問うてきている気がする。
蛇はくわっ、と口を開け――突如として、俊敏に動き出した。周りが一気に騒がしくなる。逃げようとしたが、人だかりに阻まれて後ろへ下がることが出来ない。
蛇は、明らかにこちらに向かってきていた。
ようやく一歩、下がる。
「ロルフ、逃げないで」
しかし、ミアが手を掴んで後ろへ下がれなかった。
その瞬間――ロルフを嘲笑うかのように蛇がこちら目掛け、飛び上がった。
白い大蛇が宙を舞う。開け放った口は鋭い牙を光らせている――
ロルフは咄嗟に空いている腕で顔を覆った。
重力を無視するかのように飛んできた蛇は、その牙でロルフの手に噛み付いた。刺すような痛みが襲う。
蛇の真っ赤な瞳は、怒りに燃えていた。一体、なにに怒っているというのか。
次の瞬間――
「がぁっ、いって、えっ」
ロルフは胸を押さえて膝を落とした。ミアの手が離される。
心臓を握り潰されているような錯覚に、ロルフはのたうち回る。
こいつ、毒蛇かよっ……!
必死に蛇を離そうとするも、まったく取れない。いや、それ以上に腕に力が入らなくなっていた。
やがて、全身の力が抜け始め……、うずくまるしか出来なくなった。
「ロルフ、いつまでそうしてるの」
レイラ、ルーシー、ミアのどれでもない。でも聞き覚えがある。女性の声だ。鋭く、しかし安心する。愛おしい。
彼女は状況が分かっていないのだろうか? こっちは蛇に噛まれ、死にかけているというのに。
蛇はなんの恨みがあるのか、腕を一心不乱に噛み付いたまま離れてくれない。
――ここで、死ぬのか。
誰かが救急車やパトカーを呼んだのだろう。わずかにサイレンの音が聞こえ始めたが、段々と音が小さくなっていく。
まぶたが重い。なにも感じなくなっていく。視界が真っ暗に染まっていく。
噛んでいる蛇は、まだこちらを睨んでいた。
女性の叱咤する声が、遠くに聞こえた。
「思い出してっ! ロルフっ!」
ロルフはなにも感じなくなった。
◆
ロルフは息苦しさで目が覚めた。
がばっと上半身を起こし、片手で胸を押さえる。ドクドクと明らかにいつもより早い鼓動が手に伝わってくる。前屈みになっていると、少ししてようやく息が収まってきた。
……くそっ。この手の夢を見るのは久々だな。毎回息苦しくなるのは何とかならないものか。
薄い掛布団を掴む手が緩む。自分が強く握っていたことに気付いた。思わず、苦笑してしまう。この夢を見るといつもこうだ。
しかし、今日はいつもと内容が違う。レイラ、ルーシー、ミア、最後はサンディだろうか。
それ以外はいつも通り、というか、転生前の記憶通りではあったのだが……。
渋谷のスクランブル交差点のど真ん中で蛇に殺された、あの日。次の瞬間にはロルフ・ダールと言う名の赤ん坊の姿で産婆に抱えられていた。
言葉がまったく分からなくて困ったんだよなぁ。
当時を思い出し、ロルフはしみじみと浸る。
あの当時、ロルフは状況を理解しようと必死だった。周りから聞こえてくる言語は明らかに日本語でない上に、自分が赤ん坊になっているのだから無理もない。産まれた家で魔法を使っているのを直接目撃して、ようやく異世界に転生したのに気付いた。
それなら、言語がすぐに理解できる転生特典みたいのをつけろよと思ったが。
ロルフが産まれたのは、ある一家に仕える家系だ。そのせいか十七歳になる今まで、マナーや護身術といった訓練をさせられた。
主であるお嬢様とは小さい頃から仲が良いのだが、いかんせん勝ち気で、なかなかに生意気な少女だった。最近はそこに拍車がかかり――ロルフの目下の悩みは、彼女のその言動だった。
まぁ、外では猫が被れているみたいだけど……。将来の旦那様が、心配だよなぁ。先が思いやられる。そして、その時にお嬢様や旦那様をフォローするのは自分なのだろう。
こんなこと思っていれば、ぶん殴られる上に罵倒されること間違いないが、婚姻後の結婚生活が今から心配だ。
転生から今までの記憶をなぞるように思い返し、お嬢様の言動が浮かぶ。素直になれば、可愛くて将来の旦那様も苦労しないんだけどな。
静寂さを割るように外から鐘の音が聞こえてきた。教会だ、起きないと。
ロルフは二段ベットの下から這い出る。掛布団や枕を整えた。
寒っ……。この調子だと、今日も起きるのぐずりそうだな。
近くのクローゼットで身支度を整えたロルフは、姿見の前で自身を最終チェックする。茶髪の柔らかそうな短髪に、鳶色の瞳。前世より遥かにイケメンな自分の姿があった。黒の執事服は着慣れているとは言い難いが、仕事服なのだからしょうがない。
寝癖はないし、髭も剃った。よし、問題ないな。
そろそろ出ようと考えていると、ベッドからうめき声が聞こえてくる。
「先に行ってるぞ、グレン」
声をかけたが、あー、とも、うーとも分からない返事があるだけで、そのままスースーと寝息が聞こえていた。
ロルフは彼を放っておき、部屋から出た。
ん? なんだ、蝶か……。
屋敷の廊下には一羽、紫色の蝶が飛んでいた。最近見かけることが多い。キラキラとした鱗粉を散らしている。
どこから入ったのか。まぁ、放っておけば出て行くだろう。
ロルフはお嬢様の寝室に向かった。
朝、お嬢様を起こしに行くのがロルフの毎日の仕事の始まりである。わりとお寝坊さんなのだ。
だから、毎回ロルフが起こさなければ、ほぼ百パーセント寝坊してしまう。以前は自分で起床してもらうように努力もしたのだが――結局出来ず、彼女の一日の怒りが増すだけだった。あれほど理不尽なこともそうそう無いと思う。
今はいいけど、そのうち直してもらわないと。
ロルフはお嬢様の部屋を軽くノックした。
……しばらく待つが、なんの返事も無かった。
「はぁー……」
いつものことだ。ロルフはドアノブに手を掛ける。
ノックはしましたよぉーっと。
やや覚悟を決めつつ、ロルフはお嬢様の部屋のドアを慎重に開けていく。ノックもしないで入ったのが分かったら、殺さねかねないのだ。物理的に。
ロルフが中に入ると、バタンとドアが閉まった。
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