落穂拾い

笠井 野里

落穂拾い・前編

 「彼」は金がなかった。どうしようかと困っていた。今では彼もあるSNSサービスの若社長ではあるが、これは彼の昔話である。彼はこのときにはすでに、何か起業をしようという、高い志があった。目標、夢、価値、このようなものに猛進できる、じみた…… いや起業をして、ある程度の成功を収めているのだから、妄信ではない、自己肯定に満ち溢れた―― つまり、典型的な意識高い系の学生だった。


 多摩の丘陵きゅうりょうにあるC大学という有名私立大に通っていた彼は、さっきも言ったが、金がなかった。バイトはしている。プログラミングの類のものだ。普段はMacをカタカタ、スターバックスで打っている。そんなのんきなことをやって、金を持っていないことがあるのだろうか。彼は実家も太い。元々静岡県の三島市というところの出身で、なにやら親父が眼科医かなにかだということだ。しかも、甘えて育った一人っ子。金に困るなんてことがあるのだろうか? 仕送りも十万近く貰っている。大学近くの学生にしては豪華なマンションに住んで、こちらも家賃は親の金でのうのうとしている。


 彼はともかく、コネクションづくりと言って、都内に繰り出し、なにやら高尚で夢があり、お馬鹿さんにはわからないカタカナ語が飛び交うような頭のよい大学生たちの食事会に相当な数、行っていた。何某園なにがしえんなぞという高級焼肉屋によく行く(たまに回らない寿司屋さん)ものだから、それは確かに財布も空になる。


 しかし、馬鹿にしちゃあいけない。この何某園で高い金だして飯を食うことは、ともかくなにやら価値があるようだ。彼の周りの友人は、今や価値に溢れた人ばかりである。地元にごまんといる高卒専門卒で工場か土方かなんかをやってるやつ。偏差値五十にさえ満たない地元の大学に進んだようなやつ。そういう先が見えていない鹿であるような人は、彼の周りにはいなかった。ビジネス用語が飛び交い、英語なのか日本語なのかもよくわからない、空虚で変な言葉ばかりのその空間は、先が見えていて、資本主義的で、ともかく有意義なのだ。


 そういうわけで、彼はギャンブルや女、浪費のために金がないのではなくて、有意義な先行投資のために、懐中無銭かいちゅうむせん苦汁くじゅうを一時的に飲んでいるだけなのだ。

 二限にあった経営学の授業を終え、大教室でぼおっとしている、鼠色したスーツに黒光りする革靴を履いた彼は、ぐうぐう鳴る腹を抑えて、飯について考えていた。冷蔵庫の中にはもうなにもなかった。米は残っていたが、おかずはない。スティーブ・ジョブズならどうするか、孫正義そんまさよしならどうするか…… 孔子こうしなら、クラウゼヴィッツの『戦争論』なら、マキャベリなら、福沢諭吉ふくざわゆきちなら、渋沢栄一しぶさわえいいちなら…… あらいけない、万札、お金の方に寄っている。うむ、ロジカルシンキング、ラテラルシンキング…… やはり後の若社長は凄まじい思考と思想をお持ちのようだ。なにを言っているのか私にゃチンプンカンプン。ある駄作者ださくしゃが『落穂拾い』という作品で言うには

「米だけで飯を食えばいい」「借銭しゃくせんをすればいいだろう」

 という見事な言葉を残している。

 しかしこれは採用されるはずもない。彼の脳内辞書に、私のアフォリズムはないのだ。さらに言うなら、米だけで飯を食うという提案は、「パフォーマンス」が低いのである。私のような、ぶしょったい(静岡の方言である、だらしないの意)人間は、白米だけでおかず要らぬというぐらいであるのだが、彼はそうも烏賊いかのなんとやらなようで、ここらへんも、はあ金持ち様の発想ですなあという気もする。あと借銭は論外。金銭トラブルは抱えたくないというのだ。友情が崩れるという。まともな倫理ではある。なら親の脛をとも思うが、彼は自分を独立した身分と思っているらしく、親の手は借りまいとしている。あっぱれ高潔こうけつの男児よ。自分の家賃はどこから出ていると思っているのだろうか。


 結局彼が様々な思考法をうんちゃらかんちゃら、脳内に図を描き、付箋ふせんを貼って様々試した末にたどり着いたのは

「農家のお爺さんお婆さんに話しかける」

 という珍妙なアイデアだった。お爺さんお婆さんは寂しいだろう。なにをしているのかと若者が話しかけたなら、気を良くして色々喋り、野菜をくれるに違いないとのこと。どこからそんな発想が出てくるのか、ともかく彼は、八王子の小高い丘にあるキャンパスを出て、茶色の目立つ風景に足を運んで行った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る