高崎の街にて了解(わか)りしこと ひとつ 「『山のあなた』は盆地の文学」
[山のあなた カアル・ブッセ
山のあなたの空遠く
「幸(さいはひ)」住むと人のいふ。
噫(ああ)、われひとゝ尋(と)めゆきて、
涙さしぐみ、かへりきぬ。
山のあなたになほ遠く
「幸(さいはひ)」住むと人のいふ。]
訳詩集・『海潮音』(上田敏)より
(出典 : 青空文庫
https://www.aozora.gr.jp/cards/000235/files/2259_34474.html)
ずっと疑問に思ってたんです。
「何故、わざわざ『山のあなた(「貴方」ではなく、「彼方」)』なのか」と。
「山を超えた向こう側に『幸(さいはひ)』を夢想する」という、文章そのものの意味は判っても、
そういう詩を作る人の気持ちが、どうしても解らなかった。
この間、縁あって群馬県の前橋市に行きまして、
その途中、高崎で降りて、少しだけ高崎の市街を歩いたのですが、
駅前の歩道橋の上から街と、街を囲む山とを眺めていた時、
突如、どおぉん…と頭の上に降ってきたみたいに、『山のあなた』の心象風景が理解できました。
毎日、四方を囲む山々を眺めながら暮らしていたら、
それはどうしたってきっと、「『山の彼方』にあるという『さいはひ』」を、夢想してしまう…と思います。
「ここではないどこか」を希求する心理を、絶えずちくちくと刺激されるような感覚です。
特に、若い人なら余計でしょう。
もし、僻地の山村の出身なら、よしんば「幸(さいはひ)」は見つからなくても、
「故郷にいるよりは運が開ける…」と、そのまま「山のあなた」に根を下ろすことも考えるでしょう。
特に、スマートフォン一台あれば、どこでもある程度の情報の送受信ができてしまう現代と違って、
都市部でも、個人宅の電話の普及は、恐らく満足とは言えなかったと思われる時代のお話ですし。
でも、この詩の主人公は、(どうやら)比較的早々に「山のあなた」から戻って来てしまっています。
進学で都会に出ても、地元の企業に就職するために、実家に戻る学生のように。
これも恐らくですが、この詩の主人公は、
「今居る場所」で、少なくとも、充分に生計は立つのでしょう。
けれど、決して満足している訳ではない…と。
そうした人生を送る人を、その心を、
いつかお話に書いてみたい…と、そう思ってしまいました。
(我ながら、業の深いことです)
(2023. 7. 5.)
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