雨は上がる

雪野スオミ

雨は上がる 前編

 小さなバスが山道のトンネルを抜け、ゆっくりと走っていた。トンネルに入る前はギラギラと照り付ける太陽がバスの中を暖めていたが、今は一転していくつもの雨水が天井から窓をなぞり、落ちている。バスの最後部の席に座って眠っていた若い男は、突然の雨音に起こされ、いささか不機嫌そうに眼をこすった後、今度は満足そうに笑みを浮かべて、何やら持っていたノートに書き始めた。

「日和村~。日和村~」

覇気のない運転手のアナウンスが聞こえ、慌てて男は荷物をまとめて立ちあがった。他に客は乗っておらず、バスの中は男一人であったためか、運転手もどこか気合が入っていないようで、欠伸を数度した。

「おっととと……」

男の方もまだ目が覚めていないのか、ワイシャツの胸に入れていた鉛筆を落としかけ、ふらふらと前の昇降口へと向かった。

「お客さん、ちょっといいかい?」

運転手が男に、ぶっきらぼうに尋ねた。

「はい、何でしょう?」

「いや、この村に来る奴なんて最近見ないからよ。観光かなんかかい?」

男はそれを聞いて笑った。

「いえ、大学の研究です。この地域の風習について研究していまして……」

男が話し始めると、運転手は興味なさそうに煙草を取り出した。

「ほう。ま、変わったとこだからな」

運転手は煙草に火をつけると、男にさっさと降りるよう促した。

「すみません、つい話が長く……」

男はバスを降り、村の役場へと向かった。先ほどから降り続く雨のせいか、人はあまり出歩いておらず、居るのはあぜ道の蛙だけだ。ケロケロと止むことのない声があちこちから聴こえる。

 やがて泥だらけの道の向こうに木造の大きな建物が見えてきた。

「日和村の役場、ようやく着いた……。ぬかるんだ道だから、ずいぶんとかかってしまったみたいだ」

バスを降りたのは午後3時40分であったが、役場の外に取り付けられている時計はすでに午後4時を指していた。男は傘をたたみ、雨で傷んだ扉を開けた。扉は重く、冷たい。

「えーと……」

役場に入った男は辺りを見回し、やがて奥へと向かった。煙草とコーヒーの匂いが、天井の低い、薄暗いフロアに漂っている。

「こんにちは」

通りがかった役場の事務員が機械的な挨拶をする。男は軽い会釈をし、待合の席へと向かった。

「しかし、本当に雨が多い村なんだな」

男は窓から近くの山を見上げた。山は霞がかかり、その大きな姿をぼんやりと見せていた。

 数分後、勢いよく入り口の扉が開いた。続いてどたどたと品の無い音がフロア中に響く。

「や、遅れてすまない。君が連絡をくれた佐々木君かい?」

席に座っていた男に、先ほど現れた恰幅のよい男が声をかけた。佐々木と呼ばれた男が返事をする前に、彼はすぐに向かいの席へ腰かけた。

「どうもはじめまして。東京から参りました、佐々木国男と申します」

佐々木は丁寧に挨拶し、頭を下げた。

「いやはや、こんな辺鄙なところへようこそ。私はこの村の村長をしております、浅原と申します」

浅原も笑顔で頭を下げた。

「さっそくですが、浅原さん。以前送らせていただいた件なのですが……」

「ええ、わが日和村の風習について大学で研究なされているそうで。ちょうどこの天気ですし、さっそくご覧になってもらいましょう」

そう言うとすぐに浅原は外に停めていた車へ佐々木を案内した。外では運転手が、傘もささずにドアを開けて待っていたため、佐々木は急いで乗り込んだ。

「佐々木君、そんなに急がなくてもいいんじゃないかい?」

浅原は佐々木を見て不思議そうな顔をして言った。それを聞いた佐々木も同じ顔をした。

「いえ、雨でしたので。それに運転手の方も濡れてしまいますし」

一瞬、佐々木の言葉に浅原は驚いたように目を丸くし、やがて大口を開けて笑った。

「はっはっは。そういえばそうだね。佐々木君、我が村ではもう雨に多少濡れることくらい、皆気にしないのだよ」

運転手も小さく頷いた。浅原はそれから延々と、この村の住人がどれだけ雨に慣れているかを得意気に話した。ある人は洗濯と乾燥を一度に出来ると物干しにずっと洗濯物を干しているとか、またある人は夜になると裸になって外に置いてある桶に溜まった水を風呂代わりにするとか、そんな話であった。佐々木はそれを聞いて満足そうに頷き、ノートに書き留める。浅原はそれを見てまた話を始めるといった具合だ。

 数十分後、二人を乗せた車は、やがて村のはずれにある広場に停まった。

「ここが、儀式の場所ですか?」

佐々木は車を降りて、辺りを見渡した。広場には宿舎と、佐々木の腰ほどの小さな社が建っていた。

「そうとも。ずいぶん昔からこの地は常に雨とそれがもたらす洪水に悩まされてきた。しかしある時、雨神に祈ることでこの降り続く雨を止ませた娘が居た。私たちはその娘をハレノミコと呼び、その力を受け継ぐ娘に雨除けの儀式、私たちはハレノギと呼ぶのだがね。それを行ってもらっていたのだよ。……もうあいつも来ているはずだ。少し待っていてくれ」

浅原はそう言うと宿舎に向かった。佐々木が傘をさしながら待っていると、やがて十四、五歳ほどの若い娘を一人連れ、戻ってきた。娘は真っ白な装束を身に纏っている。そこから伸びる華奢な腕や小さな顔もその装束のように白かった。

「いや、遅れてすまない。こいつが先ほど言ったハレノミコを務める娘だ」

浅原はそう言うと、娘に挨拶するように言った。

「はじめまして……。私はリン。十四代目ハレノミコです……」

リンと名乗った娘は静かに頭を下げた。首から下げた小さな金色の鈴が静かに揺れた。佐々木は年の割に落ち着いたリンを見て驚きながら、早速ハレノギについて尋ねた。

「はじめまして。僕は佐々木という。今日は君の行うハレノギという儀式について、少し話を聞きたくて来たんだ。よろしく」

そう言って佐々木は右手を出した。リンはそれを少し見つめ、黙ってどこかへ行ってしまった。

「何か、気にさわりましたかね……?」

「まぁ、あいつは昔から愛想というものがまるでありませんでしたから。それより、佐々木君、ハレノミコがハレノギを始めたんだ。私たちは宿舎に向かおう」

浅原はそう言って、佐々木を連れて宿舎に向かった。

 宿舎は木造の小さなものだった。中には数個の部屋があったが、村民が集まる集会所と言った方がしっくりくるだろう。浅原は奥の座敷へと佐々木を案内した。

「失礼します……。ん?」

部屋に入った途端、佐々木はあまりの酒臭さに倒れそうになった。見ると座敷には数人の男が座って酒を浴びるように飲んでいた。男たちは佐々木を見ると、まるでおもちゃを見つけた子供のように騒ぎ始めた。

「おう、あんたが都会から来た兄ちゃんかい?」

「物好きなもんだな、まぁ座れや」

「リンには会うたか? べっぴんさんだろ?」

佐々木はその内の一人に促されるまま、入り口近くの座布団に座った。

「はじめまして、佐々木と申します。研究のため……」

「まぁまぁ、そんな堅苦しいのは抜きだ。お前さん、しばらくここに居るんだろ?」

「ええ。数日の間、ここでお世話になります」

「そんならええな、若いのがいたほうが面白い!」

「そうじゃの! 雨が上がれば盛大にやろう!」

そう言って男たちは酒を飲んで歌い始めた。佐々木は浅原に尋ねた。

「浅原さん、何かお祝いでもあるんですか?」

「ああ、社でリンが祈っていれば、そのうち雨が上がる。するとハレノギは成功というわけだ。そうすると私たち村の年長者はここで儀式の成功を盛大に祝うのよ。さ、君も今回は一緒に楽しもうや!」

そう言って浅原は男たちと騒ぎ始めた。詳しい儀式の内容を聞きそびれた佐々木は仕方なく、雨が上がるのを待つことにした。

 この宿舎の一番端の部屋が佐々木に与えられた部屋であると道中、聞いていた。入ると、ずいぶんと誰も使っていなかったようで家具にはたくさんの埃が積もっていた。佐々木は適当に埃を払い、持っていたノートにあれこれと書き始めた。幸いノートや資料をまとめられるだけの机はある。ある程度、書き終えた佐々木は窓の外に目をやった。外は相変わらずの雨である。

「やれやれ、わかっていたことだがこう雨が降っているとじめじめして困る」

佐々木はとりあえず荷物を広げ、部屋に寝転がった。天井は雨で黒ずみ、持ってきた菓子は湿気で柔らかくなっている。佐々木は外の雨を眺めつつ、先ほどの娘を思い出していた。

「確かあの娘はリンといったな。ハレノミコとはいったい何をするのだろうか」

佐々木はあれこれ考えたが答えなど出るはずもなく、いつの間にやら眠ってしまっていた。

 あれから数時間経った頃だったろう。浅原が佐々木の部屋を開けた。

「佐々木君、佐々木君! 外を見てみなさい!」

「はい……。何でしょう……?」

佐々木は窓の外を眺めた。すると驚くことに先ほどまで降っていた雨は一粒も無く、空には大きな月が輝いていた。

「ハレノギは成功だ。さぁ、座敷へいらっしゃい」

浅原に続いて座敷へ入ると、先ほどの男たちと、その奥にリンが座っていた。男たちは二人を待っていたようで、佐々木と浅原が座るまで酒に手をつけず、ソワソワとしていた。

「えー、今回も14代目ハレノミコであるリンがハレノギを無事に成功させ、見事、雨はあがった。そして今回は都会から佐々木君が見学に来てくれている! ハレノギの成功と村の知名度向上に、さぁ、皆さん乾杯!」

浅原の音頭で男たちは酒を飲み始めた。先ほどはそれほどでもなかった浅原も今回は他の男たちに負けない量の酒を飲んでいる。

「おい、佐々木君。君も飲んでいるかい?」

男が佐々木のコップを見て言った。

「全然減ってないじゃないか!」

「この宴会も大切なんだ!」

男たちが佐々木に絡みだし、酒瓶を持ってくる。

「い、いえ。僕はあまり酒は……」

佐々木は元々、酒が得意ではなかったが、そんなことはお構い無しに男たちは酒を飲ませた。コップに次々と酒が注がれ、佐々木は休む間もなく飲んだ。やがて男たちは面倒になったのか瓶のまま一気に飲ませ始めた。佐々木は四本目でついに顔を真っ赤にして気を失った。

 翌日の早朝、佐々木は激しい頭痛と共に目を覚ました。昨晩の記憶が途切れ途切れに頭の中を駆け巡る。

「少し……。外の風に当たろう……」

外は雨も降っておらず、涼しい風が吹いていた。佐々木はサクサクとした冷たい土を踏み、外のベンチに腰掛けた。

「あれ、佐々木さん……?」

「はい! ……あれ、リンちゃん?」

突然、声をかけられ驚いた佐々木は二日酔いを忘れて思わず、大きな声をあげてしまった。

「あっ、痛たたた……」

「無理しないでください、昨日あれだけ飲まされていたんですから」

リンは宿舎から水を入れたコップを持ってきて佐々木に手渡した。

「ありがとう。昨日あれから倒れてたみたいだ」

「無理もないですよ、あれだけ飲むとあの人たちでも倒れますよ」

リンは宿舎を指差して言った。佐々木は苦笑いをしてリンに尋ねた。

「あはは……。そういえば、リンちゃんは昨日あれからどうしてたの? 良ければハレノギのこととか聞きたいな?」

「それは……」

リンは一瞬、考え込むような表情をして、やがてすぐに佐々木の顔を見て言った。

「ハレノギは……ハレノギは貴方が思っているほど楽しい儀式じゃありません」

「えっ?」

「わかったら、もうハレノギの研究なんて辞めて、帰ってください」

リンはそう言って宿舎の方へ戻っていった。佐々木は突然の出来事を飲み込めず、しばらくベンチから動けなかった。

 

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