許容怪

小狸

短編

 *


 平船ひらふね藤次とうじにとって、己の息子は許せない存在であった。


 許せない。


 その感情の発端は、一体どこにあるのだろうかと問えば、藤次の幼少期の苛烈な教育体験がある。


 彼の母親は――両親共に既に他界しているけれど――俗に言う教育ママであった。


 そして、教育的虐待の行使者であった。


 何かをしたい。


 何かをやりたい。


 そんな意欲すらも、藤次は削がれて育ってきた。


 当たり前のように何をするにもまず勉強であった。


 夜のこの時間までは、どれだけ疲弊していようとも勉強、勉強、勉強――そう言われて、それが正しいと思って、強固な束縛の下で育ってきた。


 そして一流大学に入学し、一流企業に就職――大学時代から交際していた明日香という名の女性と結婚し入籍――二人の子供をこさえた。


 子どもたちはすくすくと育ち、上の子が私立の中学に入るか公立のまま進むかで、藤次は初めて、妻と口論になった。


 妻は、公立中学校、公立高校の出であった。


 別に子供たちに秀才になって欲しいわけではない――と、彼女は言ったけれど、藤次はがんとして譲らなかった。


 譲らなかったというか、それ以外の道を知らなかった。

 

 そしてそんな感情は、徐々に息子たちにも向けられるようになった。

 

 にこにこと笑いながら、友達と野球をしに行く話をする兄。

 

 ギターを始めたいと言って聞かない弟。

 

 妻はそれを許した。

 

 自分はやりたくてもやりたくてもできなかったことを、息子たちは当たり前のように享受していたのである。


 藤次は、それが許せなかった。


 自分があんなに辛い体験をしたのだから――息子たちももっと苦痛を味わうべきだ、とすら思っていた。


 そんな夫婦間の齟齬そごは徐々に大きくなっていき、やがて離婚の話となった。


 藤次は親権を主張した。弁護士も立てたけれど、既に、二人共14歳越えており、母のもとにつくと、はっきりと宣言された。


 結果、協議離婚が成立し、藤次は独り身となった。


 この家の名義は俺だ、と主張したら――妻――元妻は、なら私達が出て行きますと言って、手続きをしてさっさと出て行った。


 行先はどうやら、義祖母の所らしい。


 それから二か月、藤次は仕事をし、家に帰るだけの生活を続けた。


 元々一人暮らし経験が無かったため最初は苦労をしたけれど、次第に慣れていった。


 それより何より気になったのは、二人の息子のことだった。


 藤次は、未だに、彼らを許すことができないでいた。


 時折休日、元義祖母の家に秘密で出向いて、様子を外から見ていた。


 ある日のこと、いつものように、外から元義祖母の家を窺っていた時のことである。


 するとそこからは、楽しそうな一家団欒の声が零れてきていた。


 それを耳にして――藤次は、壊れた。


 そして気が付いたら、持ってきていたガソリンを浴び、残った缶を持って、義祖母の古い邸宅の庭へと入っていた。


 ――何をしているのだろう、俺は。


 いや、違う。


 


 ――俺は、許すことができないのだ。


 どうして、楽しいを享受している。


 どうして、嬉しいと感じられている。


 どうして、笑顔でいられる。

 

 ――俺にはそんなこと、許されなかったのに。

 

 窓ガラスを破壊して鍵を開け、中へと入った。

 

 居間には、元義祖母が目を白黒させながら、茶を飲んでいた。

 

 なんだなんだと、家の中の人が集まって来るのが分かった。

 

 元妻が、藤次を見て、ぎょっとしていた。

 

 そして息子――兄の方が階段から一階に降りてきて、居間の扉を開けた瞬間。


 目が合ったのが、分かった。


 その瞬間。

 

 


「この、幸せ者どもが」


 それが、藤次の放った、最後の言葉になった。


 藤次は、ライターに火を付けた。


 それは彼が浴びた、揮発性の高い気体である所のガソリンに引火する。


 そして化学反応の当然の帰結として、爆発した。



 *


 松田まつだ家が全焼し、元夫の凶行が全国の夜のニュース番組で報道されたのは、まだ梅雨の開けぬ、雨空と晴天の交錯こうさくする、令和5年の6月26日月曜日のことである。

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許容怪 小狸 @segen_gen

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