第33話 混迷
「あぁ、すっきりした」
紗和ははぁっと、大きく息を吐き出した。背伸びを一つ済ませた彼女の顔は、もうすっかり普段通りの紗和の顔だった。どこにも狂気は感じられない。しかしそのあまりにも唐突な変化に後藤は、ぞくりと背筋が震えたのだった。
「先生、これで全てです。警察にも医師にも言えなかった。分かるでしょう? 誰も信じませんよ、こんな話。でも先生はそうではないですよね。そういう人に、聞いてもらいたかったんです」
「ああ。そうだね。たしかに僕くらいにしか、話そうとは思わないだろう」
「先生、ありがとうございました」
憑き物が落ちた人の顔とは、こういう表情を言うのだろう。後藤は紗和の朗らかな顔を見て、そんなことを考えた。
そして狐に包まれたような感覚とは、今の自分が体現しているのではないかとも思ったのだった。
「ちょっとお手洗いに行ってきますね」
ベッドから下りて歩いていく様子にも、どこにもおかしさはなかった。歩行に問題もないという先ほどの言葉に、嘘はないのだろう。
「原くん。君はどう思う。もう聞いていたんだろう。間宮さんの話」
紗和が病室を出ていってから、後藤は教え子に短く問いかけた。そして彼の返事を待たずに言葉を続けた。
「正直僕には、今の彼女の話の殆どは、理解が追いつかなかった」
ほとんど吐息のような笑い声が、健人の口から漏れた。
「先生でもそんな風に言うことあるんですね。理解できないなんて、被験者やセラピー患者の前では絶対に禁句じゃないですか」
「はあ。そうだな……まずいな」
苦笑いした後藤は、大きく深呼吸した。体内に酸素を取り込むことを意識しながら、もう一度先程の紗和の話を反芻させる。
「……蛸、と。蛸と言っていたな、間宮さん」
「ええ。大きな蛸ですよ。足一本が俺の背丈よりある」
「見てきたかのように言うじゃないか」
「そうですね」
健人は更に続けようか少しだけ思いを巡らせ、結局そこで会話を一旦終わらせた。曖昧な終わらせ方だったが、後藤が訝しむ様子はなかった。
なんとなく会話が途切れて、二人とも口をつぐんだ。そんな風に後藤は受け取っただろう。まさか健人が『蛸を見た』だなんて打ち明け話をしようか考えていただなんて、思いもよらないはずだ。
――蛸、あの蛸は
写真の中で紗和に巻き付き、彼女を締め上げていた大蛸。朦朧とした意識の中で、健人はあの蛸が自分にも触れたことを知っていた。
ふいに滑りを感じた。その場所に触れてみれば、ただ乾いた自分の唇があるだけだった。
『健人を介して意識は共にあるから』
弾む紗和の声が蘇る。
――あの蛸はどこへ消えたんだろう
目が覚めた時、写真は何の変哲もない紙だった。蛸の吸盤も、うごめく軟体の脚も見えなかった。ただの画像として、写真の中の紗和は健人に笑いかけていたのだった。
「健人、先生。すみません」
トイレから戻った紗和は、そのままベッドに戻らずに病室の入口から二人に呼びかけてきた。
「今から検査に呼ばれてしまって。ちょっと行ってきます。昼食、先に食べてて」
「待ってるよ」
健人が手を振り、後藤も頷いた。廊下を足早に去った紗和を二人は見送ると、再び病室内にしばしの沈黙が訪れた。
「解決ってことでいいんだろうか」
「解決?」
「事件ではなくて、間宮さんの内側の問題についてだよ」
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