第2話

  みさ緒の育った村は東京からは山を三つほど越えたところにある。今、国は欧米各国に追いつかんと、近代的な国家建設に邁進しており、紡績業・製糸業に続き重工業の興隆にも力をいれていた。西洋との貿易も盛んに行われるようになっていたが、この辺りでは、まだのどかで昔ながらの暮らしが続いていた。




 冴島家に着いた日から遡ること10日・・



 みさ緒は、村の寺の裏手にある丘に立って、抜けるように青い空をぼんやりと眺めていた。白く薄い煙がゆっくりと昇っていくのが見える。五月の風が頬を優しくなでて、ここはみさ緒の大好きな場所だった。

「うっ・・うっ・・」

 みさ緒の目に急に大粒の涙が盛り上がって、堪えきれないように嗚咽し始めた。体の奥から突き上げてくる痛みのような悲しみに、体を折ってただ慟哭している。

 優しかった祖母のフミはもういない。フミが病の床についてから亡くなるまであっという間で、それが現実に起こったことだと葬式が済んだ今でも信じられない。心も体もしょうがないままふわふわして、まるで何かに操られているかのように、葬式から荼毘だびに付すまでとにかく一人でやり遂げた。悲しくてつらいはずなのに、さっきまでは涙一筋も流れなかった。

 張り詰めていたものが切れた、とでもいうのだろう。フミの火葬の煙を見ているうちに、みさ緒は急に大きな悲しみの波に襲われたのだった。

「独りぼっち・・」

 声に出すと、フミとふたりの質素だけれど心を寄せあった毎日が思い出されて、今度は言いようのない淋しさを感じていた。


 どれくらいそうしていただろうか。

「みさ緒」

 呼ばれて振り返ると、寺の住職が立っていた。

「はい」

「ここに居たのか・・・。ちょっと来なさい。話がある」

 涙が乾いた跡が残る顔をぬぐって、後についていくと庫裏くりに通された。

「ま、座りなさい。泣いていたのか・・。無理もない。今だに信じられんような気持ちだろう。急なことだったな。気持ちが落ち着くまでは無理しないがいい」

 みさ緒は、ただ、しん、と俯くばかりだった。

 住職もみさ緒の気持ちを察してか、しばらく黙っていたが、

「話というのは、これだ」

 と、おもむろに口を開くと、封筒を差し出した。

「実は、亡くなる少し前にフミさんが訪ねてきてな。これを預かっておった」

「・・え?」

「自分に何かあったら、みさ緒に渡してほしいということでの」

「そのときは、おかしなことを言いだすものよ、と思っていたのだが・・。今から思えば、自分の死期が近いことを知っておったのだな」

「・・・」

「貯金通帳がはいっている、ということだったな」

「通帳?」

「おぉ。自分が死んだ後、みさ緒が落ち着くまでの生活を賄えるだけの金額は貯えてあるとのことだ」

「・・・」

「みさ緒は自分の生い立ちについてフミさんから何か聞いておるか?」

「・・いえ」

「そうか・・・」

 住職は、じっと黙って何か考える風だったが、ふっと上に目をやると遠い昔を思い出すように話し出した。

「フミさんとは幼馴染でな。裏の丘なんぞで一緒に遊んだもんだ。その頃はフミさんもよく笑って明るいお人だったな。学校を卒業するとフミさんは奉公すると言ってこの村を出て行ったし、わしも僧としての修業があってそれきりになっておったんだが、年とって突然孫だというお前さんを連れて、フミさんがこの村に戻ってきた」

「まぁ、昔からフミさんはあまり余計なことはしゃべらんお人だったが、何十年かぶりに戻ってきたフミさんは、無口と言えるくらいにしゃべらんようになっていたな。それだから、この村に帰って来るまでの経緯は、わしも何も聞いておらん」

「が、・・」

 ひと呼吸おいて、少し膝を寄せると

「実は、フミさんからの頼まれごとは、この封筒を預かってお前さんに渡すことだけではない」

 言伝てを頼まれておるのだ、と言うと住職は声を落として

「誰かがみさ緒を迎えに来る、という話だ」

「・・え? 迎え?」

 驚くみさ緒に、そう、わしも驚いておるといった顔で頷きながら

「確かにフミさんはそう言っておった。一人になったみさ緒を迎えに来る者がいると。その迎えが誰なのかは自分も判らんが、信用していいという話だったな。だからそれまで、つまり迎えが来るまでは村に留まっているようにみさ緒に言い聞かせてほしいということだった」

 と、フミからの頼まれごとを話し終えると

「村での暮らしぶりから、村の外にみさ緒を託せるような知り人がいるとは思いがけぬ話でな。しかもフミさん自身も迎えに来るのが誰かは判らんということでは、雲をつかむような話だ」

 みさ緒も合点がいかん話だろ?と覗き込むようにしながら、ちらと封筒に目をやると、さらに続けて言った。

「それに、その通帳の金とやらだ。当面のみさ緒の生活を賄えるだけの金が貯えられているという。いや、金額までは聞いとらん。しかし、そこそこまとまった金額には違いなかろう。つましい生活の中でどこからそんな金がつくれたものか不思議でならん。これもフミさんの言う“迎え”と関係があるのかもしれんが・・」

 とはいえ、わざわざ訪ねてきての頼み事だ、作り話ではあるまい、と独り言のように言うと、

「とにかく、そういうことだ。これはフミさんの遺言でもある。わかったな」

 と念を押すと、真剣な顔でさらに付け加えた。

「フミさんが、みさ緒の幸せを思って、考えてくれたことだ。無駄にすまいぞ」

 みさ緒は小さく「はい」と頷いた。

 住職は、これで大事な役目を果たし終えた、という顔でほぉっと息をつくと、

「骨になるまで、まだまだ時間がかかる。茶でも飲んだら暗くならないうちに家に帰っていなさい」

 と立ち上がった。



 みさ緒の母は、みさ緒が未だ幼いころに病気でなくなったらしい。(らしい)というのはフミからそれ以上詳しいことを聞かされていないからだ。

「親なしっ子」

「みさ緒と一緒に遊んじゃいけないんだぞ」

 と、幼い頃よく村の子供たちに囃し立てられた。みさ緒はいつも仲間外れでひとりポツンとしていたものだ。子供は本来、何の偏見もないだろう。だが、そうやって囃すのは、親たちが家でそういう話をしているのを見聞きしているからだ。大人の真似をしているのだ。

 突然村に戻ってきたフミとみさ緒に向けられたのは、人々の好奇の目とある種の蔑みだった。この蔑みには、みさ緒の容姿も関係していたのかもしれない。小さい頃はさほど目立たなかったが、大きくなるにつれ、みさ緒の容姿は周りにいる子供と少し違ってきていた。その髪はうっすらと茶色味を帯び、肌は透き通るように白い。上気したようにほんのり桃色を帯びており、同じ白い肌でもそこら辺りにいる日本人とは違っていた。瞳は黒目勝ちで大きく、睫毛も長い。くっきりとした目鼻立ちが印象的な愛らしい顔立ちの娘だった。

 しかし、その個性ゆえに心無いうわさ話がまことしやかに囁かれることになった。

「みさ緒には西洋人の血が混じっているのではなかろうか」

「みさ緒の母が何やら後ろ暗い商売をした挙句にできた子がみさ緒らしい」

 偏見が、村の人々の目にみさ緒の美しさを見えなくしていた。



「私の母さんはどんな人?父さんはどんな人?なぜ一緒にいないの?なぜみさ緒は、おばあちゃんとふたりっきり?」とフミに泣いて尋ねたこともあった。そんなときフミは何も答えず、ただ黙ってみさ緒の背なかをさすり続けてくれた。そんなことが二、三度あっただろうか。みさ緒は聞くのを止めた。というより聞いてはいけないことなのだ、と子供心に理解した。以来、フミに対して自分の生い立ちについて尋ねることをしないままフミがこの世を去ったのだ。

 それが、誰かが自分を迎えに来ると、そしてそれは信用していい人なんだというフミの言葉を突然聞かされた。迎えに来るような知り人などいない、と自分も思う。それにお金のことも・・。フミからの伝言、いや遺言にみさ緒は混乱していた。

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