第8話 バングル
スビアのホテルから元総督府までは徒歩で二十分程だ。
セシリアとウルスラは朝、共に出勤して先に着いて子爵達の到着を待っている。
本来はまだ学術調査中でもあり、修復・補修の最中なので関係者以外は立ち入り禁止だが、行政官の承認があれば書類にサインをするだけで見学することができる。
「外国の子爵様のお相手をしなくて、本当にいいの?」
貴族の来訪があるというので、シャツのボタンを一番上まで留めているデルガドは、サインを終えて書面を渡して寄越したウルスラに尋ねた。
「ええ。レザイー先生がついて回るということですので。それに、いらっしゃるのは子爵とお付きの方だけですから」
たった二人の来訪者に、行政官が説明のためにぞろぞろ付き添うのも仰々しくなってしまうと、ウルスラはやんわりと断った。
「そっか。まあ、その方がこっちも手間が省けるから楽でいいよ」
「多分、ご挨拶でこちらの部屋にも寄ると思います」
だからその時までお行儀良くしているように、とでも言われた錯覚に陥り、デルガドは背筋がすっと伸びた。
ウルスラは上司ではない。命令ではないので強制力はないはずなのに、従わなければのらない圧を感じた。
「その時はよろしくお願いします。さて、セシリアの部屋はどちらになりますか」
午前中は使いの子供達も学校に行っているので、デルガドは後輩に案内を頼んだ。
何度か回路を曲がり、似たようなアルコーブのような造りの部屋が並んでいるうちの一つがセシリアの執務室だという。
部屋の手前で案内の行政官にお礼を言い、そこで別れた。
部屋の前に行くと、ふうふうという息遣いが聞こえてくる。
ドアがないので叩く物がなく、声を掛けようかとも思ったが、ちらりと中が覗き見えてしまった。
「何やっているの、セシリア」
床に毛布のような物を敷いて、その上でクランチをしている。
「筋トレです」
セシリアは行政官室にウルスラを連れて行った後、時間がもったいないのでやっていたと言う。
怪我が治ってからリハビリを兼ねて筋トレを始めたのは知っている。
だが手首だけでいいのに、体中満遍なくしているのだ。
立て籠りの犯人を捕らえる時の負傷だが、こんなことくらいで怪我をするなんてと、しばらく
他人が思うより自尊心の傷の方が大きかったようだ。
「また腹筋割れるわよ」
「望むところです」
起き上がると、ずり上がったシャツを整え、捲っていた袖を戻す。
その時に右手首に嵌めている、幅広の金属製で表面にクレーアス様式の装飾が浮き彫りされている
以前、手首を亜脱臼した時、包帯だけでは心許ないだろうと、固定するためにアミルが贈ったものだ。
「まだ痛むの?」
完治はしているはずだが、まだ痛いのだろうかと心配した。
だが、答えるよりも先にセシリアの顔が赤
くなる。
「う、ううん。もう大丈夫なんだけど、ずっと着けていたから外すとなんか調子が狂うっていうか……結構重いし、いいトレーニングにもなると思って……」
セシリアにしては歯切れが悪い。
なるほど、とウルスラは得心した。
顔とは言わず体全体で感情が滲み出るわかりやすい性質なので、傍から見ていてもセシリアがアミルに好意を寄せているのはわかっている。
大好きな人からの贈り物だ。用がなくなってもずっと着けていたいのだろう。
特異な経験をして心身共に強くなった彼女だが、中身は年頃の女性と変わらないのだ。
意地らしくて可愛らしい。
ウルスラは口角を上げて、息をついた。
「もう、髪の毛もくしゃくしゃじゃない。そこ、座りなさい」
バッグから櫛を取り出して、絡まった金色の髪を梳かす。
そして、少しでも可愛く見えるように手の込んだ編み込み施した。
☆
十時過ぎにコールフォード子爵とミルトンがアミルに伴われて訪れた。
セシリアとウルスラは中央部の大玄関の前で、元総督府の統括部長と共に出迎えた。
仰々しいのはなしにしてほしいと子爵から要望があったが、外国の貴族が来訪するので体裁として現場の一番上の部長が挨拶に出たのだ。
やって来た子爵はアミルの紹介で統括部長と挨拶をしてから、隣にいるセシリアに目を移した。
「セシリア嬢」
にこやかに声を掛けてきた。
この間は世話になった、とアミルが通訳してくれたので、以前にウルスラから講習を受けたことを思い出し貴族に対する挨拶をした。
ちらりと横を見ると、ウルスラもこみかみに青筋が出てないのでまずまずだったのだろう。
ウルスラはそのまま子爵について行ったが、挨拶が終わればエリゲールド国の言葉はわからないセシリアは自分の仕事に戻る。
挨拶だけで三割り増しで疲労が溜まったので、これくらいでちょうどいい。
多分、お昼前には子爵達も帰るだろう。
セシリアは執務室へ戻り、溜まっている資料整理の仕事に取り掛かった。
ふと、壁に掛けた鏡に目がいった。
ウルスラが髪を梳かして、編み込みをしてくれたのでいつもと少しだけ違う自分が映る。
たかが髪型かもしれないが、ちょっとだけ違うのに気づいてくれたら、いつもよりましに見えていただろうか。
セシリアは袖の上からそっとバングルをなぞった。
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