第2話 盛栄の名残り

 イスペリエ国グレイディアス地方はかつて他教徒の占領地だった。


 千年近く昔、海を挟んでミシュル教を国教とする東のパルシリア帝国が侵攻してきた。


 当時のイスペリエ国はカシウス教の周辺諸国と共に抗戦したが、百日の戦いの後に陥落した。


 パルシリアの時の総督は、グレイディアスの丘の上にあるかつての城砦を総督府として役所兼住居とするために改装を行った。


 パルシリアは土木と建築の分野では当代随一であり、この総督府はその最先端の技術を集約して改修建造されたのだった。


 海を挟んだ南の大陸とも交易を行い、西の内陸にまで影響力を及ぼした帝国はやがて時代の趨勢で衰退し、今から二百年前に起きたカシウス教の国土奪還運動が更に追いうちをかけた。


 当時のイスペリエ国王はパルシリアの総督と協議を重ねて、戦を起こすことなくしてグレイディアスを取り戻した。


 パルシリア人はグレイディアスを撤退し、残った総督府は本来なら丘の麓にある町のミシュル教の教会のように取り壊されるはずだった。


 だが当時の王妃が病を得て、王都を離れて温暖なこの地に療養することになったために中止された。


 王妃は快癒してからも、この異国風の建物を気に入り、休みの度に訪れては浮世を忘れさせてくれるここを愛した。


 そして、丘の周囲一帯の取り壊しを禁じ、王妃が亡くなった後はこの建物の一角に埋葬してほしいと遺言を残した。


 その後、内乱があり、王朝も変わった。


 だが、王妃の眠るこの元総督府は権力争いからは隔たり、遥かな時代の記憶をそのままに今でも丘の上に佇んでいる。



 望洋の果ての地に 上古盛栄の名残あり

 絶えず流れる水の音 さにあらざりし人の世の

 儚きこと 泡沫ほうまつの如し

 芳しき花の宵こそ 春の夢



 男性は自国語で歌うように語った後に、セシリアのためにイスペリエ語に訳してくれた。


「吟遊詩人が歌ったこの詩の中に出てくる『芳しき花』というのが、このロースメリーザだといわれている」


 ここにあった華やかなりし繁栄の成れの果てを見て、栄耀栄華も長い時の流れのほんの一瞬の輝きでしかないと説明を付け加えて。


 セシリアは艶やかで光沢のある葉の表面に触れ、目を閉じた。


 再び目を開いた時に『10』という数字が見える。


「この木もあと十年くらいで寿命になります。でも草木は種を残し、枯死した後も別の木が繁茂を続けます。そうしてここと共にこれからも生きていくのでしょうね」


 この花も人も同じだ。


 人の栄華は儚いが、それでも人もまた子孫を残して続いていく。


 うまく言葉にすることはできないが、摂理とはそういうものなのかもしれない。


 男性の緑色の瞳はセシリアに向けられ、ゆっくりと細められた。


「そうですね。そういうものなのでしょう」


 言いたいことは伝わったと、彼の顔を見て感じとったセシリアは、急に気恥ずかしくなって麦わら帽子を被り直した。


「あ、先生、こちらにいらしたんですか」

 回廊から声がして振り返ると、若い男性が声を掛けてきた。


 くせのある黒髪で太い眉と髭剃り跡の濃いイスペリエ人の若者は、中庭に入ってこようとしたが、苔むしているのを見て取って躊躇った。


「すぐ戻ります」


 異国風の男性はそう答えてからセシリアを見て、自国語で呟いた後に失礼しますとこの国の言葉で挨拶した。


 苔の床を難なく歩き渡り、回廊にいる男性と共に邸内に入って行った。


 セシリアはメモ用紙を開き、『ロスメリッサ』『ロースメリーザ』と記入した。


 メモを閉じると腹の虫が鳴いた。


 直後、サン・ホセ教会の正午を知らせる鐘が鳴った。



   ☆

 日向から日陰の建物内に入り、目が慣れるのに若干の時間を要した。


「突然お姿が見えなくなったので慌てましたよ」


「すまないな、マルケス君。手間をかけた」


 背の低い青年はとんでもないと言って、先導するように半歩前を歩く。


 彼はこの建物の下にあるロサレダの町の生まれで、幼い頃はここが遊び場だったそうだ。


 人が増える度に増改築を繰り返し迷路のようになっている内部をよく知る人物の一人で、他所から来た学者達の案内役を勤めている。


「お仕事は順調ですか?」

「ああ、お陰様でね。でもこの建物は広大だから、いつ終わるか検討もつかないよ」


 ミシュル教の装飾とこの国の人はよく言うが、厳密には宗教美術のクレーアス様式の装飾である。


 幾何学的な模様や唐草模様のタイル、ドーム型の天井にまで施されている彫刻などが特徴で、中でもミシュル教の聖教書の言葉や戒律がタイルで壁や柱に残されている。


 それを解読するのが、アミルの仕事だ。


 この建物に残されているのは古いパルシリア語で、解読はそれを研究している学者でないとできないということで、今回の調査に招聘されたのだ。


 言語学を専攻し、西のイスペリエ国の言葉も精通しているので、多国籍な調査団の中で通訳はいらない希少な存在だが、この建物の中を歩くにはマルケスのような案内がなければ迷子になってしまう。


 だか、先程は祖母が持っていた懐かしい精油の香りにつられて一人で出歩いてしまった。


 そこで、金髪碧眼の男装をした天使に会うとは思いもしなかった。


 名前も知らない天使とロスメリッサの香りが浮かび、アミルはあくびが出た。

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