鏑木という少年は悲しき化け物

Azuma

鏑木という少年は悲しき化け物

明確に何が嫌であるということを言葉にするのは難しい。

人に説明するための言葉を知らないだとか、高校生の俺にはまだ経験則が足りないだとか色々理由はある。だから俺も現状を説明できないでいた。親や先生とか大人たちにだ。友達は――現在一人もいないからそこは省略する。

鏑木かぶらぎくん!おはよ!」

俺は呼びかけられて振り向く。俺の彼女である黒滝アイカくろたきあいかという女の子が俺の数メートル後ろから小走りで駆け付けて俺の隣に並ぶ。

 俺が普通の人間だったら見向きもされない類の良家の御息女で美人で可愛くてそつがなくて……誰もが好意を持っても可笑しくない人で俺の彼女という役割を演じている人。

アイカさんは俺のことを本当に好きというわけではない、だから俺も彼女を好きではないけど俺たちは付き合っている。……ということになっている。

なんでそうなったかと言うと宛てがわれたからだ。彼女の瞳は俺を見ているようで見ていない、そこに恋とか愛とかの感情は読み取れず多分これは俺への恐怖。

「うん、おはよ……」

そう返事をして歩き出したところで後ろから小石を投げられた。こつんと頭に当たったが痛くはない。俺はそんなことで怪我をしたり痛みを感じたりしない、ただ振り向きはした。

でもシン、と辺りは静かだった。登校中の道路で学生が一杯いるのに、誰も何も言わないで歩いて通り過ぎて行く。こそこそと素通り出来て俺に声を掛けられなければ、そうした人は俺をいないものにして明らかにほっとした後、彼らの本来の日常が始まる。俺の後ろの人たちはずっと戦々恐々としている。

俺がそういった手合いに反応や声掛けをすることはないし、俺はこういうことに慣れている。

小石を拾って手の中で転がしながらじっと見つめていると「早くいこ?鏑木くん!」と言ってアイカさんが小石を持っていた手を引っ張って張り付かせた笑顔で焦ったように走り出す。

ああ、石が転がって行っちゃった。

もうあの石も、見つからないだろう。



――放課後のこと。一日何も起きず、大体通常通りの、言葉にできないなんだか少し嫌な日常を過ごした後の話。

教科書を片付けていると、聞きたくもないのに教室内の喧騒を突き抜けるような言葉が聞こえてきた。

「あーんな可愛い彼女いんのに冷たいよなーあいつ」

「せんせー達にも目かけてもらってほんとさぁ」

「クールぶってるのってあれじゃん?中二病こじらせくん?」

ははは、と笑ってるそれ、全部聞こえてるんだよな。帰り準備を黙々とこなしながら俺はこの後の予定のことからそいつらが言っているアイカさんの事に意識を向けた。

好きでもない、好きになってもらってるわけでもない相手にどうやれば優しく接せれるのか俺には解らないだけなんだけど。もっと言うと別に毎度優しくしてもらってるわけでもないし、何なら今まで一回も優しくしてもらったこともない。どっちかと言えば回数で言うならお前らの方が彼女に優しくされてると思うぞ。

彼女は皆に優しいが俺には優しくない。

「鏑木くん!一緒に帰ろ?」

見かねたように、たたたとこちらに走り寄ってくる学校の天使、学校一の美少女と言われているそんなアイカさんが張り付かせた笑みを俺に向けてくる。

「ごめん、今日部活……」

僕が部活があったので断りの言葉を返そうとした時だった。

「あーあ、彼女かわいそ!」

誰かが発したその言葉で、シンとまた教室内が静まりかえる。

僕はため息を吐く。

アイカさんの強張った笑顔を見て俺はため息を吐く。

そのさ、一言爆弾投げてはこちらの反応見て怯えて黙るのどうにかなんないのかなっていつも思う。構わず声をアイカさんに投げた。

「部活、行くから。ごめんだけど先帰って。」

「そー……わかった、じゃあ残念だけど先に帰るね!」

舌打ちが教室のどこかからか聞こえた気がした。アイカさんはどこか弾むような足取りで他の女子に声をかけて下校していったようだった。俺と帰る時より楽しそうな彼女。

そんなことはどうでもよくなっていた俺は学校で唯一楽しみな部活へと向かう。

でも周りにそれを気取られたらいけない。何食わぬ顔で向かえ。美術室に。

そこにはあの人が待っているんだから。



美術室という札がかかっている教室は旧校舎だからか少し雰囲気が古い。それでも教室として使うことに問題がないと言われている建物ではあるんだけど新校舎と比べるとやっぱり見劣りはする。

カラリと滑りが見た目より良い扉を開けると油絵を溶かす油の匂いや木炭の匂いが少しだけ香る。油絵をする際には換気が必要だから窓は常にあけているのだけど、その中に彼女はいた。

木椅子に腰かけ、熱心にキャンバスに向かっている、その結んだ後ろ髪が少し風に揺れている。少し落ちた少し茶けた前髪が風に揺れて……凄く綺麗だと思った。

カーテンが白く光を透かして揺れている。鼓動が高鳴るけれど、彼女はキャンバスに集中しすぎて俺の存在に気付いていないようだった。

俺は少し間を置いて「こんにちは」と声を掛けた。変声期が終わったばかりで自分では変な声、と思ってしまう。その俺の声に弾かれるようにその人、先輩の高緑アカネたかみどりあかねさんは「ああ、キミか」と少し困ったように笑って筆を持っている左手を上げた。その困っている顔を見てぎゅっと胸が締め付けられる。

このおままごとみたいなこと、いつまで、……いつまで続けないといけないんだろう。

そう思いながらも俺は表情を変えずに会釈をして目の前の席に座った。ここに座ればアカネさんを良く盗み見ることが出来る。

俺はアカネさんが好きだ。確かにあの日、アカネさんと視線が混ざって、俺たちは心を通わせたと思った瞬間だってあった。恋とか愛とか言うなら俺はアカネさんと結ばれたいと心の深いところで本当にそう思ったんだ。

俺は終わらないデッサンを始める。デッサンは目の訓練なんだよ、とアカネさんと今より俺と距離が近かった時に彼女から教わった。

今より部員も多くて、もっと言うなら俺と二人きりなんかじゃなくて、俺を怖がって他の部員が次々辞めていくのをアカネさんが悲しそうに頷いて見送るのを見たあの時のこと。たとえ、こうなったのが俺のせいだとしても、俺はこの場を諦めることが出来ないぐらいにはアカネさんが好きだった。

俺は静物画を描きながら、過去のことを思い出す。柔らかい風が吹く中でふわりふわりと記憶が運ばれてくる。

あの時右側に感じたほのかな体温。指を差しながらどうやって鉛筆を走らせればいいか、綺麗な細い指先の爪の形まで、俺は網膜に焼き付けた。アカネさんは俺の拙い言葉をよく拾って俺とよく話してくれた。

俺がそんなアカネさんを好きになるのは理が通っていることだったと思う。

――そして、俺が世間に発覚する。

そうなった途端、俺の傍にいた温もりは一つ残らず消えた。

手に掴んだ、と思ったアカネさんのことだって、髪の毛一本すら掴めずに。

手を伸ばせば届きそうな距離にアカネさんがいるのに、彼女は俺の手に入らないんだろうか、本当に?そう思った瞬間静物から目を離してアカネさんを盗み見たら、アカネさんが困ったように微笑んで此方を見ていて、思わず俺は声を掛けようとした。

「せんぱ……」

「ヒロ、私が部活抜けても美術部続けてくれる?」

「え?」

え?今なんて?

余りにその柔和な雰囲気と、俺に語り掛けた言葉がちぐはぐすぎて頭に入るまでに時間がかかった。俺が固まっているのに構わずアカネさんは言葉を続ける。

「私、先生に言われてさ。そろそろ引退考えろよって突っ込まれちゃって。」

「は、はあ?」

言ってる意味がわからない。だってまだ三年生になったばかりじゃないか。

「三年になったから進路考えろって。私が抜けたら部員キミひとりになっちゃうんだけどさ」

なんだそれ。そんなの勝手な理由付けじゃん先生たちの。

「そんな……顔しないでよ。キミには……可愛い彼女だっているでしょ、他にも、さ」

「他にも、何?」

俺は立ち上がってアカネさんに詰め寄った。アカネさんが慌てて立ち上がって少し後ずさった。木椅子がガタンと音を立てて倒れるのを聞いて更に勢いよくアカネさんの細い右手を掴む。

いつ来るかわからないことの為に俺は生きている。

いつ来るかわからない世界の不安の為に俺の世界は周りが作り上げた幻だ。

俺はこの弱弱しい右手を守ることを一度は心で決めたこともあった。

でも世界が、こんなにも俺にとってくだらないものだって知らなかったんだ。

「アカネ先輩、アカネさん……」

あなたですら俺の一欠けらにすらなってくれないの。

大きな丸い眼が俺を映している。間近にある俺の存在に頬を赤くしているのかアカネさんが慌てているのが解る。

その言葉は口付けようとした俺の唇をアカネさんが左手で塞いだことによって阻まれる。

アカネさんは俺から目を

「ヒロ……」

その瞬間だった。俺の絶望を知らせるかのようにあちらこちらからサイレンが鳴り響きはじめた――と思った。

喧しい音は、喚き散らすように街中へと広がっていく。同時に皆が持っているスマホがけたたましく鳴り始めた。

「――怪異警報!――怪異警報!――各自!定メラレタ避難所ニ至急避難セヨ!」

同刻、政府が動き出したのはきっとこの警報を鳴らすよりも速かったんだろう。激しいバタバタという風切り音と共に軍用ヘリだろうか、大きなヘリが学校の校庭に着陸しようとしている。

俺は泣いていたけど、アカネさんを捕まえていた手を離して目元を乱暴に拭った。

「……アカネさん、隠れていてね」

「ひ、ヒロ……私、……」

「貴方がいなくなったらいよいよ俺はこの世界を守る意味を見失うから。」

その時は世界を敵に回すよ、と言い残して振り返らず進んだ。

向かい側の廊下を規則的で素早い足音の群れが此方に向かってくる。厳重に装備したのだろう銃火器をこちらに向けることなく俺を見るなりその場で立ち止まり敬礼を俺に向かってするのを横目で見ながら軍人の間を抜けていく。

学ランの前を開けて、歩き続ける。

呼吸をするたび赤い稲光が自分から散る。残っていたクラスメートや、軍属であるというのに軍人たちが驚いて息を飲んで俺を避けるように、人の波が割れていく。その中に避難のために戻ってきたのか、アイカさんの姿もあったような気がしたけどどうでもいい。あの好奇や不安や畏怖が入り混じった瞳を見るのはもうたくさんだ。

「初戦ですが鏑木様!場所は……!」

「解ります、後は俺に任せてください」

「で、ですが現場まで鏑木様を運ぶようにと上の命令で……」

「いらない。」

俺は一瞥して校庭に出た瞬間に稲光に乗る。その瞬間民衆がざわついたのを遠くに聞きながら、雷光を操り目的の怪異の前の空中にまで空を切り一瞬で到達する。

破裂音をさせながら俺は赤い雷光を手から発した。

俺はそれを見て苦々しく赤い光を眺めた。この力があるから俺は今こういう目に遭っている。

明確に何が嫌であるということを言葉にするのは難しい。ただ俺は、普通の人生すら歩めなくしたこの力が嫌なのだと今更悟った。

ゆっくりと瞼を押し上げて大怪異を改めて眺めた。目の前の大怪異は蛇腹からたくさんの足を生やし気味の悪い鎌首の先に人間のような顔がついている。

腹を視たら蠢く人のような形が無数に見えて、もう人を喰ったかと鼻で嗤う。呪詛をまき散らしながら大怪異が此方に黒い髪の糸と無数の手を飛ばしてくるのを恐怖することなく右手を横に凪ぐだけで薙ぎ払った。正確に言えば赤い雷光で殴りつけた、が正しいだろう。ばちばちと赤い火花が散って、大怪異が吹き飛んだ箇所を不思議そうに眺めている。

「……馬鹿だな、俺に勝てるわけないじゃん」

俺は髪を後ろに撫でつけた。

そしてこちらの様子を伺っている大怪異に一呼吸置いてから、す、と拳を振りかぶった。

もうこの辺りに大まかに人はいないと気配でわかる。

だから凡そ俺が建物を壊さないために手加減する必要はないだろうと判断する。

「……奔れ、雷獣。」

ぎりぎりまで振りかぶり、バチバチバチと大気が唸ったと同時にけたたましい破裂音をさせながら拳の20倍はあろうかという赤い稲光が拳に巻き付いていく。そのままそれを大怪異に向けて振り下ろした。

ズガアン!という激しい衝突音と何かが潰れる音が同時にして、瞬時に雷の火で焦げる匂いすらする。

直ぐに、俺は大怪異を壊滅させたことを知り、初陣は済んだのだと知った。


――こうして、俺は世に知らしめた。

俺は世界に必要であり、必要とされるべき存在であり、世界に見放された存在であるということを。


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