初めての国交交渉
王宮での歓待においてはルーチェが
しかし安穏としていられたのは2、3日だけ。王宮へ到着してからちょうど一週間目となる今日、レオンハルトたちには午前中に外務部の人員から面会の予約が取り付けられていた。使節団の首脳部に当たるレオンハルト、ルーチェ、ジークは差し迫る会談の時間をこの王宮への滞在の間仮に使節団の執務室として与えられた広い部屋で待っている。
執務室の内装は快適に過ごせるようにと調えられているが、当然というかなんというかシルマンテの街でサーマイヤーフによって
「それにしてもとうとう外交実務の本番か…実際のところ何すればいいんだろうね?」
「私にとっても国家間の取り決めというのは初めての政務だから、ちょっと想像がつかなくて困っているよ。取り敢えずはお互いの国民の身分保証の文書を取り交わすことからかな、と考えているけど」
「身分保障?って?」
約束の時間までの間隙を持て余したルーチェがレオンハルトが今日何をするつもりなのかを尋ね、それに対してレオンハルトがここ数日の間にジークと話し合って出た結論を返す。本来ならルーチェも交えて検討したかった、が彼女には交渉の中でアイク島側の重要な手札である重力水についての情報を隠すという役割があるので無闇に負担をかけたくなかったのだ。もともと頭の回転が早いとは言っても交渉術に長けている訳では無いので、レオンハルトとしては専門分野に関する話題だけを
「この大陸に上陸してすぐ、閣下の算段を
「へ?…急に言われても何のことかわからないよ」
「奴隷という制度についての話題だ」
「え~っと…人がお金でやり取りされるって話だっけ?」
具体的な言葉を出すとルーチェも一か月ほど前の事を思い出したようだ。些細な事だがその時
「アイク島からこちらへ訪れた船と船員を、王国が国内に不法侵入した犯罪者と決めつけて彼らの自由を奪われるようなことが有っては、その後の国交は対等では無くて常に私たちが頭を下げる形になってしまうだろう?アイク島はこの大陸に活路を見出しているが、王国側は私たちの祖国を無視するという選択肢が有るんだ」
「ああ、なるほど…サーマイヤーフ様がレイシン河方面地域から異動することになったら、不当な扱いが無いとも言い切れない訳ね」
「そうだ。それを避けるために互いの国が対等の関係だと記された公文書を残そうと思ってね。
「でもアイク島とアイユーヴ王国との間ではそれが通用するだろうけど、他の国とはどうするの?」
「残念ながら私たちの力は現段階では及ばないな。特にロッテントロット都市連合と友好関係を築くのは大変かもしれない。シンドゥム王国は文化的な共通点が多いからむしろ簡単かもしれないな」
「そうやって少しずつ大陸に浸透していくって訳ね…ところで、そろそろ約束の時間だと思うのだけど…」
話題が一段落したと考えたルーチェが今集まっている本当の目的に水を向けると、見計らったように執務室の扉が叩かれる。レオンハルトがジークに目配せすると彼は扉を開けるために立ち上がった。
「どうぞ」
レオンハルトがジークの動きに合わせて入室を促すとジークが扉を開ける。入ってきたのは三人で、いずれも中間色の落ち着いた色合いの仕立ての良さそうな衣類に身を包んでいる。真ん中の男だけが胸に赤いリボンを付けていて、彼が今回の交渉の主役であると想像させる。人数がこちらと同じなのは対等の立場に立つというアイユーヴ王国の意思表示か否か。
「失礼いたします、レオンハルト・カシウス様。今回の両国間の関係を定める
「挨拶ありがとうございます、ヨーナンス殿。レイツェン殿、リットート殿もご足労感謝します」
深く一礼して名乗った中央の男が左右の同僚を紹介するの応じて、レオンハルトは軍人式に敬礼を返して来訪をねぎらった。それぞれが王意を直接受ける立場なのか、それともいずれかの派閥に属するのかは定かではないが、この時点で警戒する素振りを見せるのは不正解とレオンハルトは判断している。ルーチェとジークもレオンハルトの挨拶に続いてこちらは彼らと同じように深くお辞儀をして答礼する。
第一印象などあてにならないとは考えつつも、レオンハルトは三人のにこやかな様子に内心安堵しながら来訪者に椅子をすすめた。
「では両邦のより良い関係の為の対話を始めましょう。私達としましては…」
レオンハルトの楽観は裏切られることなくアイユーヴ王国側も国民の身分の安堵について積極的に認める方向性だった。それがアイク島の底力を期待しての事なのかは貿易についての税率の定め方などの交渉を経なければわからないが、今回は一つ約束事を決めた時点で話し合いは終了となった。
今は城の女官に紅茶を淹れさせて六人で雑談に興じている。アイク島では実務の後に騎士同士で歓談の場を設けるのが通例だったので呼び鈴を鳴らしてから、これは大陸の流儀に沿っているかと危ぶんだが官僚側もさして疑問を感じた様子もなく誘いに応じた。案外エモル帝国の時代には既に確立された習慣なのかもしれない。
誘っておきながら淹れたての熱い紅茶に
「それにしても、失礼ながらルーチェ様は本当に優れた技術者でいらっしゃるのですね」
「は、はい⁉…わた、し…です、か?」
「アイユーヴ王国では女性が社交や家政以外のことに従事するというのは珍しく、使節団の技術者の代表者が女性であるというのは今更打ち明けても詮無い事ですが、何かのブラフではないかと疑っておりました」
「それ…は、とうぜ、ん…と、思い、ます…アイク島で、も…」
「アイク島でも女性が表の仕事に出るというのは珍しい例ですよ、ところでブラフという言葉は
突然話題の中心に引き出されてあたふたしているルーチェへの助け舟のついでにレオンハルトはラッセルの耳慣れない言葉について質問する。
「これは重ね重ね失礼いたしました。ブラフとは交渉などにおいて相手を
「無理もない事です。故郷でも彼女は家族を含めて
「私も今回の船旅に同道して知恵を貸し合うまで、女でありながら家庭に入ろうとしない奇妙な娘だという噂を信じて軽んじておりました。今となっては識見の狭さに恥じ入る思いです」
レオンハルトがアイク島でのルーチェの立場を打ち明けるとジークが
「周りからは快く思われてはいなかったのですね。それでも人生を貫くとは余程の覚悟と資質を持ち合わせていらっしゃったのだと感服いたします。それにしてもレオンハルト様がその本質を見抜くには何かきっかけでも?」
向こうはアンデラが話題を引き継ぐ。それにしてもこの話題は要注意だ。レオンハルトとルーチェの昔話に終始したいが、その中で重力水の話題に
ディルの天才性を証明する出来事に官僚たちが踏み込む前に、ルーチェがいつもの
更に文化を共有するシンドゥム王国との比較にレオンハルトが話題を変え、アイク島使節団はレテンド大陸の事情に深い興味を示していることを誇示し、また結果として交渉の相手側の背景に有るものを知るという満足のいく会談として最初の試練を潜り抜ける事に成功した。
レテンド大陸興亡記 嶺月 @reigetsu_nobel
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