船内を巡るルーチェ
ルーチェは言葉では反発したものの、レオンハルトの言葉に従って部屋で上着を着こんでから、寒風吹きすさぶ甲板に出た。アイク島では冬の風と言えば北から寒気を伴って南の温かな海へと流れていくものだった。しかし大陸の北端に位置するこの辺りでは大地と海との表面温度の差から、南からも強い風が吹いてぶつかり合うため、複雑な風が常に渦巻くのだという。
空気は冷たい物の方が重いそうで、南の山脈を越えた乾いた熱風の下に湿気を含んだ北風が潜り込んで地表を冷やすのが、緯度の割にアイユーヴ王国の冬が寒くなる理由だそうだ。もちろん海上でも空気の振る舞いは変わらない。備えていたとはいえ、ルーチェは思わずブルブルと震えた。
「お嬢、どうしやした?」
甲板に出てきた技術監督官を見て、早速
まさかサーマイヤーフに言い負かされて逃げてきたとも言えず、微妙な笑顔を浮かべてシムレー号の元からの水夫の中で一番の年長者、カイトがどこにいるかを尋ねる。
「カイトさんなら中央のマストでさぁ。王国の水夫さん方に引っ付いてずっと勉強中です」
「う~ん、あたしが行くと邪魔になっちゃうかな…そこまで大事な用事が有る訳じゃないし…」
大事などころか用事など何も無い。だが王国の水夫が操る三角帆には興味がある。しかし不十分ながらも帆の扱いを心得ているカイトや他の水夫と違って、ルーチェは本当に何もわからない。
「勘と経験と腕力の世界なんで、お嬢には向いてないかもしれやせんねぇ」
「だからこそ実際に目で見て、理論化したいんだけどね…」
その時甲板を高波が襲い、
「やっぱりお嬢には向いてやせんぜ。船室に戻ってくだせぇ」
「悔しいけどそうみたいね。ジークさんのところで医学の勉強に付き合わせてもらってくる。もしレオンハルトが探しに来たらそう言っといて」
「わかりやした」
伝言を残してルーチェは今度は医務室へと移動することにした。専門のジークには及ばないものの、医学薬学の方面ならアイク島にいたころから少し知識もあるので、レテンド大陸の医学を勉強中のジークとなら有意義な時間を過ごせるだろう。
「ジークさん、いる?」
「おやルーチェさん、船酔いですか?」
「…もしジークさんが勉強中なら少し一緒にやろうと思って。なんだか今日はやけにみんなから子ども扱いされる日だわ」
医務室に入った途端のジークの質問に思わずぼやくルーチェ。アイク島で騎士ならば17歳で成人とみなされ、平民などは結婚適齢期は12歳前後だが、実際に一人前とみなされるのは結婚ではなく最初の子供が
「それは失礼しました。今は冬に流行しやすい病気を集中的に学んでいるところです」
「冬に?風邪じゃなくて?」
「寒さが原因で体力が衰えるということは要因としてあるようですが、冬になると一見風邪のようでも、ひどく症状の重い別の病が流行するということはあるようです」
「そういえば大陸では病の原因は身体の外から来る、と考えるんだっけ。寒いと何かが活発になるってこと?」
「寒さというより、乾燥が原因のようだ、と推察されているようです」
「乾燥が体を害するなんて考えたことも無かったわ。アイク島で病気って言ったら第一は食中毒だったもんね」
「はは、確かに。アイユーヴ王国に来てから本当に有り難いのが、香辛料が豊富で味が毎日違う事ですね。それに香辛料にはそれぞれに身体に特殊な作用をするものも有って、薬としても使われるようです」
幾つかの香草を除けば塩以外に味付けの方法の無かったアイク島からすると、アイユーヴ王国の味覚の
鍛冶に没頭してその辺りの事は母に頼りきりだったルーチェには、
「とにかく今は冬に
ルーチェは患者用の椅子に陣取り、ジークが読み上げる医学書の内容を聞いて、予防法や他の病気との見分け方などを細かく確認していく。その様子は何かを学ぶことそのものへの慣れや、医学に関する基本的な知識を修めている事を感じさせた。
夕食ができたから食堂に来るようにと水夫の一人が呼びに来るまで、二人の勉強会は続いた。
シルマンテの街から海側へ出る港町ヨイレントを出航してから一週間、シムレー号は無事に王都アンソイルの海側の玄関口ビーニーグルの沖合に辿り着いた。例によってシムレー号の巨体を納めるスペースが無いので、ここからは王都からの迎えの船に移乗して入港する事になる。
ハッタリを効かせるためにはシムレー号でギリギリまで寄せた方が良いのではないかとレオンハルトは思ったが、そもそも王都の高官たちは直接出迎えては来ないらしい。本気で歓迎する気が有るのか
初めてシューラリス号を見た時と同じ大型の鳥を模した旗に加え、その鳥の背景に四色に色分けされた盾を持つ王国の紋章が
「それにしても、アイク島の王都もそうだったのですが、アイユーヴ王国も海に面した場所に都を築いていませんね」
「シンドゥムも大抵はそうだぜ。だが遠方から来る冒険商人は驚くらしいな。俺たちの前身のエモルって帝国はかなり閉鎖的な民族柄だったらしい」
「その辺りがいくら蛮族を嫌ったとは言え、無計画に海へ
「だろうなぁ…普通に考えりゃあ、何も大海原に新天地を求めるより、大陸の沿岸沿いを進んで文明国の港を探すほうが安全だった訳だしな。まぁ…」
そこでサーマイヤーフが言い
「いやまぁ、ヴィセングルとの仲違いも原因はこっちの閉鎖性って奴らしい。あまりこの話は船を移ったらするなよ」
「忠告感謝いたします。だそうだよ、ルーチェ」
「なんで名指しするのよ!」
「こんな事を気にするのはこの船には私と君しか居ないからね」
澄ました顔のレオンハルトに何と言い返してやろうかとルーチェが考えているうちに、迎えの船がシムレー号に横付けされ、儀礼用と明らかに判る金銀などで装飾された板が渡され、その中央に真っ赤に染められた布が敷かれる。
本来なら勢いよく巻かれた布を一気に広げるのだろうが、シムレー号の
レオンハルトももう国家の威儀という概念自体は理解しているが、彼らがもし落下したら誰が責任を取るのだろうと呆れながら見守り、次にどうするのかとサーマイヤーフに目線で尋ねる。
するとシムレー号に同乗したサーマイヤーフ
恐らく軍人のみが敬礼をするのだと判断し、レオンハルトも深く頭を下げ、ジークがそれに続いた。無難にやり過ごせたと思ったが、サーマイヤーフは落第点を宣言した。
「他は兎も角、お前とカイトのおっさんは敬礼しろ。んでもって先に渡るのはカイトの方だ。ほんとに勉強したんだろうな?」
「そのつもりでしたが…」
「まぁ良い。
「重ね重ね、申し訳ありません」
「気にすんな。お前らが不興を買ってもらっちゃ俺が困るんだ。
叱った分
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