第33話 運命 2
うるさいほどの、これは、雨の音?
水のにおいがする。だからたぶん、雨の音。
大きな雨音に目が覚めたアイリーンの目に飛び込んできたのは、ランプの小さな明かりに照らされた、知らない天井。
あたりはずいぶん暗い。夜みたい。
ここはどこだろう。
どうやら建物の中、床に直接寝かされているようだ。頭の下には誰かの衣類が、体には漆黒の大きな布がかけてある。
体を起こしてみると夏の夜にしては妙に肌寒かったので、アイリーンは体にかけてあった黒い大きな布を羽織って立ち上がった。長い髪の毛が頬に落ちてくるので、背中に向かって払う。
なんだろう。胸のあたりが妙に頼りない感じがする。
あ、そういえばさっき、皇帝に左の脇腹を撃たれなかったか?
そのことに気づいて撃たれたあたりを触ってみたが、痛みはなかった。
――撃たれたと思ったけど、気のせいだった……とか?
にしては、ずいぶん生々しい記憶が残っているが。
よくわからないまま、ぺたぺたと歩いて近くのドアから建物の外を覗いてみる。
黒い軍服姿の広い背中が、腕組みをしたまま外を眺めていた。背中の真ん中あたりが破れている。その隣にいる人物には既視感があった。確か、ジェラルドの側近のおじさんだ。ということは。
「……ジェラルド?」
アイリーンの小さな声に、軍服姿の男性が振り返る。
「……けがは? けがしてなかった?」
アイリーンの問いかけには答えず、ジェラルドがつかつかと歩いてくるといきなり抱きしめる。
「気が付いたんだな! よかった……!」
そのままぐりぐりとアイリーンの頬に自身の頬を押し付けてきたので、アイリーンとしてはちんぷんかんぷんだ。ジェラルドの体の向こう側で、側近のおじさんとばっちり目が合ってしまったのもいたたまれない。
「ね、ちょっと、落ち着いて!」
ジェラルドを離そうと手を突っ張ったら、余計に力を込められて抱きしめられ、ぐにゃりと胸が潰れた。長い髪の毛がジェラルドの大きな手に巻き込まれ、引っ張られて痛い。そこでようやくアイリーンは自分の体の違和感に気が付いた。
「……ねえ、なんか、変……」
髪の毛を長くしていたのはずいぶん前のことだ。それに、ぐにゃり? 胸のあたりがなんだかおかしい。心なしか息苦しい感じがするし、ぐにゃぐにゃするし。
アイリーンの抗議を受けて、ジェラルドが腕を緩める。アイリーンは一歩、二歩と下がって、羽織っていた布を取り去り、自分の体を見下ろした。俯いた拍子に、長い髪の毛が肩から滑り落ちる。
着ているのはマリエの古着だ。染み込んだ血が茶色く変色して、元の色がわからなくなっている。その変色したシャツ越しに胸のふくらみが見えて、アイリーンは悲鳴を上げた。胸、胸がある!? しかもシャツのサイズが合っておらず、形がはっきりとわかってしまうくらいには自己主張が強い大きさである。これでは何も着ていないのと変わらないではないか。
アイリーンは慌てて黒い布を羽織り直した。そこでようやく、この布がジェラルドのマントであることに気づく。
「竜族は竜族のつがいを得ないと大人になれないんだろう? どういうことなんだ。アイリーンにつがいが現れたということか? 俺たちのけがが治っていることと、この大雨と、アイリーンの体の変化と、何か関係があるのか?」
「大雨?」
そういえば、建物の外は土砂降りだ。この雨音で目が覚めたのだった。
「グラード王国の空襲が始まった時、こちらにジェラルド殿下がいたため、僭越ながら助けようとした矢先に突然、白い光の柱が宮殿に現れたのです」
不意に、それまでやりとりを見つめていた側近が口を開く。アイリーンがエルヴィラの代わりに帝国に嫁ぐと言った時、こんな子どもを連れていけるかと食って掛かってきたおじさんだ。
アイリーンの印象はあまりよくなかったが、側近のおじさんのアイリーンへの印象は変わったのか、あの時と違って口調が丁寧だ。
「光が天に昇ると同時に雨雲が現れ、このようにものすごい雨が降り始めました。おかげで帝都の火災はほぼ鎮火するでしょう。ご覧ください、あれを」
おじさんが空を指さす。
アイリーンが目を向けると、分厚い雨雲の中を白い光が時々駆け巡るのが見えた。
「……雷……」
「地形的に、このあたりにはこのような雨雲が発生することはまれなんですよ。竜神のしわざでしょう」
「……竜神……」
「我が帝国に嫁いできた竜の国の姫が、帝国を、帝都を救ってくださったのですよ」
「……確かに、僕の中で光が生まれた。そのあとのことは覚えてないけど」
アイリーンは気を失う直前のことを思い返してみた。光はアイリーンの内側から生まれ、迸っていった。
あの光が空へと駆け上がり、雷雲を呼んだのだろうか。
「夢の中で、竜神と、竜神の花嫁に会ったよ。二人は僕たち竜族の始まりの人たちだった。竜神と人間の娘から生まれた子どもたち、その子孫が竜族なんだ」
アイリーンはさきほど夢の中で見た出来事をジェラルドに話した。
竜神と人間の娘との出会い。竜神の花嫁と呼ばれる娘のこと。竜神の加護を失わないために、歴代の竜神の花嫁は湖に沈められてきたこと。アイリーンは、エルヴィラによって見逃されていたこと。始まりの二人は、空の国へ行ってしまったこと。竜神の花嫁の魂を持つアイリーンだが、なぜか花嫁本人にこっちの世界に帰されたこと……。
そしてジェラルドを選んだがために、竜神の力はすべて失われてしまったこと。
「なるほど」
一通り話を聞き、ジェラルドが頷く。
「アイリーンは、加護はもう必要ないと竜神に告げたわけだな。そして竜神の力を俺に与えるように望んだ、と」
「うん。……僕、竜の国や竜族から竜神の加護を奪っちゃった。竜の国を守りたかったのに、僕が竜の国を滅ぼす元凶になってしまうなんて」
アイリーンは項垂れた。
「竜神の加護が失われると、竜族というのはすぐに死んでしまうのか? アイリーンは生きているが」
「わからない。血の力がすべて消えると言っていたから……ただの人間になっちゃっただけかもしれないけど……でも国はそうはいかないよ。竜神が守ってくれていたから、外敵に侵入されずに済んでいたんだもの」
「アイリーン様の話によると、竜神の力はすべてジェラルド殿下に注がれたということでしたな?」
それまで黙って話を聞いていた側近おじさんが、口を開く。
アイリーンは側近おじさんに目を向けた。
「ジェラルド殿下が竜神の不思議な力を受け継いだかどうかはわかりませんが、もともとあの国はジェラルド殿下が掌握するおつもりの場所でしたしな。竜神の代わりにジェラルド殿下が守ってくださいますよ。外敵から守ってくれるという意味では、竜神もジェラルド殿下も大差ないと思いますがね」
側近おじさんが鷹揚に笑い、「ではあとは若いもの同士で」とそばを離れていった。
気を遣われたらしい。
「まあ、そうだな。そういう意味では竜神も俺も大差ない。問題は、血の力のほうだ。血の力が失われたから……アイリーンは大人になれた、ということだろうか? 竜神の血のせいでアイリーンは体が幼かったわけだから……それが十九歳のアイリーンの、本来の姿、ということだろうか」
ジェラルドに見つめられ、アイリーンは今一度、自分の体を見下ろした。
胸元以外はそんなに変わった、という気はしないのだが、ないものがあるというインパクトはかなり大きい。
「……ということは、だ。アイリーンは、早死にの運命からも解放されたということでいいのか? いいんだよな? 竜族のままでも大人になれば早死にはしないんだったな? どっちにしても、アイリーンは二十歳で死んだりはしないんだな?」
「……そう、だね……そういうことになるね……」
ジェラルドの指摘に、アイリーンは目をぱちぱちさせた。
……ということは……、
「……僕……、もしかしてジェラルドの本物の妻になれるの……?」
「もしかしなくてもアイリーンは俺の本物の妻になる予定なのだが」
きょとんとするアイリーンに、ジェラルドが呆れた視線を寄越す。
「……いいの……?」
「俺は最初からアイリーンを妻にしたいと言っているんだがな」
「そうだけど……本当に、僕でいいの?」
「くどい!」
ジェラルドが睨みつけてくる。
「そなたが大切でなければ、いくら俺でもここまで体を張ったりはせん」
ジェラルドの言葉に、ああそうだ、この人は自分を守るために文字通り盾になってくれたんだった、と思い出す。
あの時、真っ先に「けがはないか」とアイリーンを気遣ってくれた。
相当の覚悟がなければ、盾になることもできないだろうし、自分のことよりも先にアイリーンを気にするなんてできない。
この人は言葉だけではなく、ちゃんと態度で示してくれる人だった。
ということは、だ。
つまり、そういうことなわけだ。
導き出した結論にアイリーンはにんまりと笑い、勢いよくジェラルドに飛びついた。
態度で示してくれる人には、態度で返すのが礼儀だろう。
「ジェラルド、大好き!」
アイリーンの突然の行動にジェラルドはよろめいたが、それでもしっかりとアイリーンを抱きしめてくれた。
「もう二度と俺の気持ちを疑うな。俺はアイリ……」
ジェラルドが言い終わらないうちに、アイリーンはぐい、とジェラルドの軍服を引っ張った。少し背伸びをして、彼の唇に自分の唇を重ねる。ジェラルドは少し驚いたようだが、すぐに深く口づけてくれた。
ジェラルドの唇は温かかった。さっきのどんどんと冷えていく唇を覚えているだけに、そのぬくもりにほっとする。
生きている。
よかった。本当によかった。
「ごめんね。ずっと出来損ないの僕を好きになってくれるわけないって、心のどこかで思ってた。きっと同情してるだけなんだろうなって。でももう疑わない」
唇を離して、アイリーンはジェラルドの胸に顔をうずめた。
「ジェラルドがいやだと言っても、僕はジェラルドのそばを離れない。ずっとくっついてるから覚悟してよ」
「同情とは勘違いも甚だしい。……そっちこそ、覚悟はできているんだろうな?」
「当たり前だよ! ジェラルドが白髪のおじいさんになるところまで見届けてやる」
アイリーンの言葉に、ジェラルドが声を上げて笑った。
「最高だな! お互い白髪になるまで長生きしようじゃないか」
改めてジェラルドが大きな腕で抱きしめてくれる。
涙が止まらない。
竜神の加護は失われてしまったのかもしれない。
でも、竜の国の人々のことはジェラルドが助けてくれる。竜神の力を受け取ったことには違いないジェラルドによって。
竜神の加護はもともと、親心の表れだった。
強すぎる力ゆえに子どもたちが依存しすぎて、それは愛情から子どもたちを縛る呪いのようになってしまったが。
もしかしたら、親心である竜神の加護はこれからもこんなふうに形を変えて、存在し続けるのかもしれない。
自分が竜神の花嫁でよかった。
竜の国で、つがいが見つからなくてよかった……。
すべて、ジェラルドに会うためだったのだ。
――これが、僕の運命。
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