第28話 帝都からの脱出

 アイリーンが部屋に戻るとしばらくして、マリエが大きな包みと救急箱を持って現れた。


「あたしが手当てします」

「だ……だめだよ、僕の血は」

「血に触れなければいいんでしょう? 大丈夫ですよ。まずはこれを傷口に当ててください」


 包みを置き、救急箱を開けてマリエが大きな葉をいくつか手渡す。アイリーンが傷口に葉を押し当てると、その上からマリエがぐるぐると包帯を巻き始めた。


「手際がいいね」

「ありがとうございます。ここに来る前は北の国境地域にいましたから。北から氷狼族という人たちが何度も来て、村も町もめちゃくちゃにしていくんです。女だとわかるとさらわれるから、アイリーン様みたいに髪の毛を短くして男の子のかっこうをしていました。けがの手当てなんて日常茶飯事ですよ。ジェラルド様が北部軍司令部の司令官としてリーウベルフに赴任してこられて、あたしたちは助かったんです」

「……ジェラルドが?」

「ジェラルド様が来る前は、ちょっと威嚇するだけ。それで彼らは引き返すから。でもすぐに戻ってくる。辺境の村がどうなろうと、中央のお偉い様にはどうでもいいんだろうねって、大人たちは話していました。でもジェラルド様は違ったの。みんな追い払って、追い払うだけじゃなくて、砦を作って、見張りも増やして、こちらに来れないようにしてくれた。あたしはもう家族がいなくて、行く当てもなくて困っていたところをジェラルド様が使用人として引き取ってくださったの」

「そうだったんだ」

「包帯はこれでいいですね。次は」


 そう言うと、マリエは持ってきた包みを広げた。中からは服が一式。


「何……?」

「一般的な平民の少年の服装です。昔、あたしが着ていたものだけど。急いで着替えてください」

「え、どうして?」

「コンスタンツェ様の指示です。じき、この屋敷は兵士に取り囲まれてアイリーン様の引き渡しを求められるはずだと。突っぱねたらおそらく強行突破されて、捜されるからと。連れて行かれたら、もう助け出すことはできないらしく。宮殿の兵士に踏み込まれる前に、ここを抜け出すんです。ジェラルド様がいらっしゃればこんなことをしなくても済んだと思うのですが、実は、ジェラルド様は陛下から急な呼び出しで宮殿にいらしていて」

「うん」

「先ほどのご令嬢、レティシア様のお父様は、この国の宰相閣下です。皇帝陛下の右腕と言われている方なので、レティシア様を傷つけたアイリーン様を許すはずがないと。おそらくはジェラルド様もなんらかの理由で宮殿に留められるだろうと、コンスタンツェ様が」

「……っ」


 マリエの言葉に思わず息を飲む。アイリーンが予想していた、最悪の展開になっているようだ。


「連れて行かれたら、どんな目に遭わされるかわかりません。コンスタンツェ様はジェラルド様ほどお力が強くないんです。宮殿の要求を突っぱねることはできないの。だから逃げてください。屋敷の裏手に市場に行く荷馬車を用意してあります。使用人の一人として紛れ込んで、竜の国まで逃げて」

「待って……竜の国は、すごく遠いんだよ……!?」

「わかっています。でもここにいちゃだめです。コンスタンツェ様から、ここで働いたぶんの賃金も預かっていますので、お持ちください」


 マリエが包みの中から大ぶりの巾着を差し出した。受け取ってみると、ずっしりと重い。


「……コンスタンツェ様はどうして僕を逃がすの? そんなことをしたらコンスタンツェ様も咎められることになるんじゃない? 僕を差し出せば済む話なのに」


 アイリーンの問いかけに、マリエが微笑んだ。


「同じことを料理長も聞き返していましたよ。コンスタンツェ様が言うには、ジェラルド様の妻にはレティシア様よりアイリーン様のほうがふさわしいから、だそうです」


 アイリーンは驚きのあまり目を真ん丸にしてしまった。


「さっき何があったのか、あたしはよく知らないんですけど、アイリーン様がギャラリーに行ってすぐ、レティシア様が大急ぎで帰っていったでしょ? アイリーン様がレティシア様をやりこめたんじゃないですか? あの方、気性が荒いし特権意識も強いですから。プライドを傷つけられて、おおかたアイリーン様に手を上げた、ってところでしょうか」


 マリエがくすりと笑って肩をすくめた。


「それならなおのこと、僕を突き出せば済む話なのに」

「だからこそ、アイリーン様には逃げてほしいんですよ」


 アイリーンはマリエから服を受け取ると、ジェラルドが用意してくれていた帝国風の生地で作られたチュニックとズボンを脱ぎ、長袖のシャツと肩紐つきのズボンに着替える。

 サイズは問題なかった。着てみて気づいたがずいぶんとくたびれ、ほころびがある。それでも大切に取っていたということは、これはマリエの思い出の品ではないだろうか?


 ――僕のせいでこんなことになってしまった……。


 さっきはついカッとなって言い返してしまったが、自分のせいでコンスタンツェが咎められるようなことになったら、さすがにつらい。

 マリエから渡された肩掛けのミニバッグに給金の袋と、先ほど使った包帯の残りを入れたら準備完了だ。傷口に押し当てた葉は消毒作用があるので、傷口が塞がるまではつけっぱなしにしておくらしい。


「待って、ジェラルドに手紙を」


 アイリーンはジェラルドの居間にある家具の引き出しをあちこち開き、紙とペンを見つけると、少し悩んで『ごめんなさい。今までありがとう』と短く書き記した。その下に自分の名前を書く。


「これをジェラルドが戻ってきたら渡してほしい」

「はい、必ず」


 アイリーンの依頼に、マリエがしっかりと頷く。

 アイリーンは荷物を持つと、もう一度部屋を見回した。

 ジェラルドの居間。そして今は扉が閉じているが、続きの間の寝室。

 恋なんて知らないまま死ぬんだと思っていた。

 本当に短い間だったが、幸せだった。

 でも、今朝がジェラルドと過ごした最後の時間になるかもしれないなんて、思いもしなかった。


 ジェラルドは気持ちを伝えてくれた。何度も。対して、アイリーンはジェラルドにきちんと気持ちを伝えていない。いろんな迷いがひしめいて伸ばし伸ばしにしていたら、こんな事態になってしまった。

 これに対してどういう言葉を残していくのが正解なのかわからない。

 だから彼への別れの言葉も一言だけにしておいた。


 ――僕もジェラルドのことが大好きだったよ。


 未練を断ち切るようにアイリーンは視線を戻すと、マリエと一緒に屋敷の中を移動し始めた。

 屋敷の外が騒がしい。すでに兵士たちが来たのだろうか。ドキドキしながら歩いていくと、玄関ホールでばったりとコンスタンツェに出会った。背後にバークが控えている。


「あなた、まだいたの」


 コンスタンツェが不愉快そうに顔をしかめる。


「とっとと出て行きなさい、この疫病神」

「……コンスタンツェ様、その言い草はあんまりでは」


 バークがたしなめる。


「本当のことでしょう。私は怒りに任せてあなたを追い出した。あなたの行方は知らないの。いいわね?」


 コンスタンツェの言葉に、それがアイリーンへの気遣いだとわかる。


「……このたびは、ご迷惑をおかけしました」


 アイリーンはコンスタンツェに頭を下げた。


「気にしないでちょうだい。あのご令嬢の本心が知れてよかったと、心から安堵しているところだから。ヴァイス公爵に後ろ盾になっていただければ息子も安泰だと思っていたけれど、あの様子ではそうはいかなさそうよね。――屋敷の裏に回りなさい、馬車を用意してあります。うまく逃げるのよ」


 コンスタンツェはそう言うと視線を玄関の扉に向けた。

 マリエに促されて、アイリーンは屋敷の奥に向かう。

 厨房の前を通り過ぎる時に、料理長がアイリーンに対して微笑んでみせたので、泣きたくなった。

 屋敷裏へ回ると、庭師のおじさんが荷馬車に座って待っていた。


「ほら、これをかぶりな」


 ボン、と大きな帽子を頭に乗せたついでに、アイリーンの顔を大きな手がなでる。おじさんの手は土埃で汚れていた。そしてアイリーンを荷台ではなく御者台に乗せる。


「あんたはわしの孫だよ。いいね?」


 庭師が屋敷を出たところで、銃剣を構えた兵士が待ち構えていた。

 一通りの押し問答。荷台をザクザクと銃剣で改められる。顔を見せろと言われたので、アイリーンは帽子を上げて兵士を見つめた。


「細いな。本当に男か?」


 兵士の手が伸びてきて、いきなり胸を触る。あまりのことに固まっていたら、


「娘ではないな。よし、行け」


 そう言われ、銃でしゃくられた。

 おじさんが馬車を動かし、ゆっくりと屋敷を出ていく。

 振り返ると、軍の車列が屋敷周辺に集まっており、兵士たちが屋敷を取り囲んでいるのが見えた。


「声を出さなかったのは偉いな」


 おじさんがのどかな声で言う。


「それにその服も、薄汚れていてよかった。庭師の孫らしい。ま、わしに孫はおらんがな」

「……そうなの?」

「そうとも。北の蛮族の侵攻で連れていかれたよ。生きていたら、あんたぐらいかな」

「……おじさんも、ジェラルドに助けられた人?」

「そういうわけでもないが、そうとも言えるかな」


 煙に巻かれるような問答に困り、アイリーンは改めて帝都を見つめた。屋敷と宮殿の行き来ならしたことがあるが、こうして帝都を出歩くのは初めてだ。

 人が多い。着ている服の色彩は様々。よく見ればデザインが異なる。民族衣装のような装いの人もそれなりにいる。

 竜の国にはない石造りの大きな建物。街灯。石畳。建物の合間を流れる運河。露店。翻る天幕。旗。馬車に自動車……そして行き交う人々。ヴァスハディア帝国の帝都は、本当に大きな都市だ。

 ゲルトがこの都市のことを「ヴァスハディア帝国の帝都にはものすごく高い建物があって、たくさんのお店があって、見たこともない異国のものがいっぱい並んで、豊かな国」だと称していた。


 ――ゲルトじいさんの言ってた通りだ。


 竜の国しか知らなかったアイリーンは、ゲルトの話す異国の風景に憧れを募らせていたものだ。その竜の国を出てきたのはわずかひと月ほど前のこと。そんなに遠い昔ではないのに、なんだかものすごく遠い日の出来事のような気がする。


「竜の国への行き方を知っているかい?」


 アイリーンは首を振った。


「竜の国はヴァスハディア帝国の西側にある。一番近い都市はダイテルトだが、竜の国への道は険しくて案内がなければたどり着けない。お嬢ちゃんは、その案内人と連絡をつけることができるかい?」


 竜の国があるのは山脈の山岳地帯だ。竜の国と外の国との行き来がどれだけ大変か、アイリーンも聞き及んではいる。ちゃんとした装備に、ちゃんとした案内人がいなければ、竜神の加護があろうがなかろうが遭難してしまう。


「じゃあ、どうするかね……軍隊があんたを探しているみたいだからなぁ」

「でも行くところなんて……」


 アイリーンが困って目を泳がせた時だった。馬車の行く手を阻むように大きな馬車が止まっている。見れば御者が道に降りて誰かと空を見上げているではないか。ふと見ると、道にいる人々……目に入る範囲の人という人が動きを止めて、空を見上げ始めている。


「なんだろうね?」


 庭師とアイリーンも周囲に倣って馬車を降り、空を見上げた。

 そこに広がるのは、真っ青に晴れ渡る夏の午後の空。少しだけ日が傾き、もうじき夕方が訪れることを告げている。

 その青い空の果てに、いくつもの黒い粒が見える。同時に、周囲の人々が「あれは何?」と口々に憶測を呟いているのが聞こえてきた。

 アイリーンは目を凝らした。山岳育ちなので目はいい。


「……飛行機」


 アイリーンは空を見つめ続けた。

 飛行機だ。それも大群。

 飛行機は見たことがある。けれど多くても三機までだ。しかしアイリーンの目にはおびただしい数の飛行機が映っていた。

 飛行機はだんだんと近づいてくるようだ。

 都市部の人々の目にも飛来するのが飛行機の大群だとわかり始めたようで、あちこちで歓声が上がる。

 すごい。たくさんの飛行機。我が軍の編隊だろうか。素晴らしい。こんなものを見せてくれるなんて。

 あたりの声は帝国軍への賞賛だが、


「……あれは帝国軍の飛行機じゃあねえな……」


 庭師だけは目を凝らしながら、険しい顔つきになった。

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