第10話 旅立ちの日
そして約束の日、ジェラルドはあの太陽の光を反射してきらめく飛行艇でアイリーンを迎えにきた。
アイリーンの嫁入り道具である長持を帝国の兵士たちが運び入れる。飛行艇に乗ることを竜の国の人間が嫌がったためだ。竜神が住む湖に降りている飛行艇になど乗って神罰が下ってはたまらない、ということらしい。
「それでは行ってきます」
「気を付けて」
もしかしたら姉とは今生の別れになるかもしれない。そんな思いを胸に抱えつつ、アイリーンはいつも通りにエルヴィラと抱擁を交わして、迎えのために立っているジェラルドに向き直った。湿っぽいお別れは逆に寂しさを意識してしまうから、極力明るい声を出す。
湿っぽくしてしまったら、エルヴィラが罪悪感に苛まれてしまう。
そうなったらいけない。これはアイリーンが望んで行くことだと思わせなくては。
だからアイリーンは楽しそうにする。
それが一人残して逝くことになる姉への、アイリーンなりの気遣いだった。
季節は初夏から真夏へと変わっていたが、相変わらず黒い軍服にマントと、威圧感たっぷりの装いである。黒い髪の毛は後ろになでつけ、凛々しい面差しを惜しげもなくさらしており、本日も隙がない。
「……美しいな」
ジェラルドが言う。
「でしょ。一番いい生地で作ってもらったんだ」
アイリーンは祝い事のある時用の飾りをつけた、カラフルな民族衣装を撫でた。普段は下ろしている前髪も上げて飾りで止め、頭には長い飾り布をかぶる。むき出しにした額には守りのまじない文字が朱で描かれていた。
「らしくない」「馬子にも衣裳」あたりの皮肉を食らうかと思っていたから、褒められたのは純粋に嬉しい。
「そうではないのだが……まあいい。乗り込む時に少し揺れるぞ」
ジェラルドが手を差し出す。
「平気だよ」
アイリーンはそう言うとジェラルドの手を無視して、踏まないように長衣の裾をたくしあげ、さっさと飛行艇に乗り込んだ。
思ったよりも飛行艇の中は広かった。
小さな窓の外には、姉や議長、慣れ親しんだ人たちの心配そうな顔。アイリーンは笑顔で手を振った。
不安がないわけではない。でも自分ではどうすることもできない。
アイリーンの運命は「自分ではどうすることもできない」ことで支配されている。
できることは、笑うことだけ。「まあ、しかたないよね。そういうこともあるよね」と、笑うことだけだ。泣いたところで運命は変わらない。泣いて運命が変わるのなら、竜神の湖があふれるくらい泣いていると思う。
「離陸と着陸の時は危険だから、ベルトをするんだ」
隣に座ったジェラルドに促され、アイリーンは座席についているベルトを締めた。
やがてエンジンがうなりを上げ、ゆっくりと神殿から離れていく。
白亜の神殿を湖側から見るのは初めてなので、アイリーンは窓に張り付いた。
それにしてもすごい音だ。
やがて機体はスピードを上げ、ゆっくりと湖から浮かび上がる。
「うわあ……!」
アイリーンは窓の下に広がる景色に見入った。
空からの眺めなんて、生まれて初めてだ。湖にせり出すように作られている白亜の神殿も、透明ながら深くて底が見えない紺色の湖も、そしてきらめく緑に彩られた畑も、おもちゃのように並んだ家々も、すべて初めて見る。
「……きれい……」
「言っただろう、そなたの国は美しいと」
すぐ隣から低くて心地いい響きを持つ声が聞こえる。ジェラルドだ。
「うん、言ってた。その通りだね」
ジェラルドの賛美は事実だったのだ。アイリーンは嬉しくなり、くるりとジェラルドに向いて笑顔を浮かべた。
「この景色を見せてくれてありがとう、将軍。いい思い出になったよ」
そう言うとすぐさま窓の外に視線を戻す。
アイリーンの笑顔にジェラルドはもちろん、その向こう側に座っていた兵士たちも驚いた顔をしたのだが、あいにくアイリーンがその光景を目にすることはなかった。
信じられないスピードでぐんぐんと景色は小さくなり、やがて飛行艇は山脈越えの飛行ルートに入った。
ジェラルドが到着後の日程の説明をするが、アイリーンはすべて上の空だった。なんといっても窓の外が珍しくてしかたがない。
飛行機は驚くことに、雲の上にまで上がり、雲海を真下に眺めながら真っ青な空を飛んでいくのだ。時々、雲海から山脈のてっぺんが顔を出す。
不思議な気持ちだ。
山岳地帯にある竜の国から西のグラード王国に出るにしても、東のヴァスハディア帝国に出るにしても、半月ほどかかる。外界はとても遠い場所だった。なのにこれに乗ればものの数時間で半月の距離を飛べてしまう。
――かなわないわけだよ。
夏の日が傾き始めた頃、飛行艇は帝都の最寄りの基地に到着した。
そこからは鉄道で移動だ。飛行艇からの景色に驚いたアイリーンが車窓の眺めに食いつくのは当然で、隣のジェラルドがまたもや苦笑する。
飛行艇でも鉄道でも隣に座り相手をしてくれたジェラルドに対し、アイリーンは気安さを覚え始めていた。
一時間程度の楽しい鉄道の旅を終え、用意された車で連れていかれたのは皇帝の住まう宮殿ではなくジェラルドの屋敷だった。
「明日、皇帝陛下に謁見する。今日は疲れただろう、ここは私の屋敷だからくつろいでくれ」
ジェラルドに案内され、アイリーンは客間に通された。
つけてもらった使用人に促されるまま、装束を解き風呂に浸かり、豪華な夕食を出してもらった。
「これはジェラルド様からのお差し入れです」
ほとんど食べ終わったところに給仕係の使用人がやってきて、アイリーンの前にトンとグラスを置く。
そして濃い緑色のボトルからなみなみと注がれた液体は、しゅわしゅわと泡が出る淡いピンク色。ほんのり甘いにおいはアイリーンも知っている果実を思わせ、思わずじゅるりと口の中に唾液が満ちる。
「どうぞ、お召し上がりください」
「ありがとう!」
アイリーンは嬉々としてグラスを手に取ると、まずはひと口飲んでみた。
予想通り、甘酸っぱい味わいが口の中に広がる。加えてパチパチとした発泡の感触が楽しい。竜の国のはずれにある炭酸泉の水を飲んだ時のようだが、あちらは甘い味付けはされていないので、ジェラルドの差し入れの方がずっとおいしい。
それにどういう魔法を使ったのか、この飲み物はよく冷えていた。季節は夏、冷たいものは喉にも嬉しい。
味を覚えたらもう止まらなかった。ぐいー、と勢いよく全部を飲み干すと、「おかわりはいかがですか」と使用人が聞いてくるので素直にグラスを差し出してしまった。
それを何杯繰り返しただろうか。
次第に頭がぼうっとして、気持ちがふわふわしてくる。そして強烈な眠気。
なぜだろう。無性におかしくなり、アイリーンはケタケタと笑いだした。そんな様子を見かねた使用人が、アイリーンを寝室に連れていく。促されるままふわふわのベッドに飛び込めば、旅の疲れも相まって、すぐに夢の中だ。
夢も見ないほどぐっすりとした眠りだった。
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