黒衣の将軍と竜神の花嫁

平瀬ほづみ

第一章 帝国の使者

第1話 アイリーン

 今日はなんだか空が静かだ。


 初夏の昼下がり。アイリーンは竜神の湖のほとりから空を見上げ、そんなことを思った。この二年ほど、アイリーンが住む竜の国のはるか上空を大きな音を立てていくつもの黒い塊――外の世界を知る人によると「飛行機」と呼ばれるもの――が横切るようになっていた。その数はどんどん増えて、最近は一日に何度も見るようになった。

 たいていは西側から飛んでくるが、たまには東側からも。


 飛行機は人が作った乗り物で、鉄でできているそうだ。アイリーンの知る鉄はせいぜい農機具や建具、剣などに使われている程度で、しかも水に入れたら沈んでしまう。そんな重たい鉄の塊が空に浮く? にわかには信じがたい。

 その飛行機が、今日は空を飛んでいない。


「このところ毎日飛んでいたのに」

「いいことじゃないか。あれは偵察機だ、あいつが飛ぶと戦争が始まる」


 アイリーンの呟きに、近くで日向ぼっこをしている老人が答える。

 この老人の名前はゲルト。白くなった髪の毛にあごひげ、丸まった背中、しゃがれた声。そして普段は閉じられている瞼。足腰も弱くなっており、杖がなくては歩けない。年齢は知らないが、若くないことは確かだ。

 ゲルトは村の外れのこの場所で、よく日向ぼっこをしている。


「外の世界は怖いところだ。殺し合い、奪い合いのことしか考えていない」


 ゲルトが発する不穏な単語に、アイリーンはぴくりと反応した。


「この前は、ヴァスハディア帝国の帝都にはものすごく高い建物があって、たくさんのお店があって、異国のものがいっぱい並んで、豊かな国だって褒めてたのに」

「豊かな国はそれだけいろんなものを誰かから奪っている。豊かさは貧困と妬みを生む。わしだって昔は大きな屋敷に暮らしていたさ。だがどうだ……妬まれて目を潰された。仕事もなくなり、富も名声も金も、家族も失った。あっけないもんだ」


 ゲルトの目がほとんど見えないことは、アイリーンも知っている。


「……よくわかんないけど、持っているか持っていないかが基準なら、あっけなく逆転されてもおかしくはなさそう。外の世界は面倒臭いな」


 アイリーンがつまらなさそうに呟くと、ゲルトがくぐもった声で笑った。




 アイリーンの住む竜の国は、大陸を東西に分断する大きな山脈のど真ん中にあった。

 山脈の東側にはいくつもの周辺国を平らげて大きくなった「ヴァスハディア帝国」、西側には広大な砂漠と高原に暮らす人々が作った「グラード王国」がある。そして「竜の国」は山岳地帯にあり、竜族と呼ばれる少数民族が暮らす小さな国だ。建国当初から辺鄙な場所にある小国であり、竜族の人々が外界との交流を嫌うこともあって、周辺諸国からの干渉はほとんどないまま現在に至る。ようは世界の動きから取り残された国だった。


 外との交流をほとんど持たないため、竜族の人々は国の外のことをどこか違う世界のようにとらえている節がある。しかし、外との交流を行っていないといっても、ないわけではない。現にゲルトはヴァスハディア帝国からやってきた。追い返される人も多い中、どうしてゲルトが受け入れられたのか、アイリーンにはその理由はわからない。


「ねえじいさん、なんで飛行機がたくさん飛ぶと戦争が始まるのさ? あれは戦争の道具なの?」

「元は移動のための道具さ。でもわしは軍用に開発をさせられとったがな。あれから二十年はたっとる……わしがやっていたころよりもずっと、高性能になっているだろう」


 ゲルトが言う。


「へえー。じいさん、実はすごい人だったんだ?」

「すごい人なもんか。だったらこんなところに捨てられたりはしないだろうよ」

「捨て……その言い方は気分悪いぞ。竜の国はジジ捨て山じゃないよ」


 ゲルトの言い草にアイリーンはむっと眉を寄せた。まあ、見えていないけれど。


「世捨て人ばっかりが暮らしておろうが」


 ゲルトがぐふぐふと笑う。


「まあね」


 そこは否定せず、アイリーンはもう一度空を見上げた。


 夏であっても急峻な山脈から吹き降ろす風は冷たい。その風に、アイリーンの短く切った藍色の髪の毛が揺れる。くせのない髪の毛はさらさらで、抜けるように白い肌に映える。


 卵型の輪郭をした顔にぱっちりとした藍色の瞳、スッと通った鼻梁に引き結んだ唇。チュニックからすらりと伸びた足をブーツに包んだアイリーンは、線が細いこともあり、どう見ても十代半ばの少年にしか見えない。それもかなり凛々しい少年だ。だが、こう見えもアイリーンはれっきとした十九歳のうら若き乙女だった。




 竜の国は閉鎖的なところだ。外との交流を徹底的に避けている。許可がなければ、竜族は国の外に出てはいけないし、外の人間も国の中に入れない。竜族は、外の世界の人間にはない特徴を持っている。外界との交流の遮断は、竜族を守るためのもの。だがアイリーンは外の世界に強烈な憧れがあった。だから外の世界から来たゲルトとよく話をする。ゲルトの話からきれいなばかりじゃないことはわかっているが、それでも憧れは消えない。

 ものすごく高い建物があって、たくさんのお店があって、異国のものがいっぱい並んでいる。どんなところなんだろう。


 ――別に、竜の国が嫌いなわけじゃないけど……。


 けれど、アイリーンは国の外に出ることができない。国の外に行けるのは、特別に選ばれた人だけだからだ。




 竜の国は、神話の時代にいたとされる竜神が人間の娘と結婚し、生まれた子どもたちが作ったとされる。だから地上の人々と同じ姿をしているものの、少々特殊な体質をしている。


 第一に、同じ竜族の中からつがいを見つける必要がある。性別そのものは生まれた時から持っているが、つがいを見つけてようやく、大人の体になれるのだ。外の世界の人間とはつがいになれない。


 第二に、竜族の血は外の人々にとっては猛毒である。


 この体質のため、竜族は外との交流を厳しく制限しているのだが、その一方で竜の国の女王は、外の世界にこっそりと竜族たちを紛れ込ませて情報収集を行っている。こういう役目を負う者が、特別に選ばれた人に当たる。ゲルトのような外の人間を中に入れて話を聞いたりもする。

 竜の国は外との交流を制限した閉鎖的な国ではあるが、外の世界のことを何も知らないわけではないのだ。

 アイリーンはゲルトに別れを告げると、髪の毛をなびかせながら神殿に向かって歩き始めた。




 神殿。そこは竜の国の中枢。

 竜の国の真ん中には大きな湖があり、そこに先祖である竜神は今も子孫を守りながら眠っているとされる。そして眠れる竜神の声を聞き取り人々に伝える者を「女王」と呼ぶ。


 辺鄙な場所だがそれなりに暮らしていけるのは、天候が恵まれており、湖と畑のおかげで食べるものには困らないことと、飢饉や疫病の流行とも無縁であったこと。そして何より、魔法がかかっているかのように、外の人々は竜族の案内なしにはこの国までたどり着けないことがある。案内なしに竜の国を目指せば確実に悪天候に見舞われて、遭難してしまうのだ。行きにくい上にもともと重要な存在でもないことから、竜の国は大国に無視され続けてきた。


 竜神の姿は誰も見たことはないが、こうして竜の国が問題なく存続できていることから、竜神の存在を疑う者はだれ一人としていない。この国の人々は竜神を崇めるし、竜神の代弁者である女王は絶対だ。


 竜の国の女王は宗教的なトップの意味合いが強く、国の政治は各集落の代表者による評議会が行っている。女王は基本的には政治に口出しはしないが、国の行く末に関わるような問題は竜神にお伺いを立てる必要があることから、最終的には女王の判断になることが多い。


 竜神の声を聞く女王は世襲制ではなく、竜の声が最もよく聞こえる未婚の娘から選ばれ、長くても四、五年で交代するのが慣例だ。竜神の声はいつまでも聞こえるものではなく、女王が就任して数年もたてば、新たに竜神の声が聞こえる娘が現れる。その娘が次の女王になるのだ。この繰り返し。


 しかし、現女王エルヴィラが十年前に女王になって以降、新たに竜神の声を聞きとれる娘が現れていない。その代わり、エルヴィラは歴代の女王の中でも抜群に能力が高く、竜神の声をよく聞いて国を導いてくれていた。そのため、国民からの信頼度は抜群だ。

 このエルヴィラこそ、アイリーンの年の離れた、たった一人の姉だった。




 農耕用の馬車が一台通れるだけの狭い道をしばらく行くと、向こうからまさに馬車が一台やってきた。馬を曳いているのは、アイリ―ンが今一番会いたくない人物の一人だ。

 同い年のドルフ。体が大きくて言葉も態度も粗野。


「よお男女」


 ニヤニヤと笑いながら声をかけてくる。


「よお、クマ男」

「誰がクマだよ」

「なんかいろいろもじゃもじゃしてきたじゃん」

「羨ましいのか?」


 クマ男、もとい、ドルフが太い腕を突き出してみせた。よく日に焼けた太い腕に、腕毛がもじゃもじゃしている。

 ちょっと前までアイリーン同様、白くてひょろっとしていたくせに。


「大人になるっていいな。力も強くなるし、日焼けにも負けない。おまえはいつまで真っ白でいるんだ?」

「僕が知るかよ、バーカ」


 べー、と口を出すとドルフはばかにしたように鼻で笑った。


「言葉遣いが汚いな。心配してやってんだろうが。ちゃんと女のかっこうをしておしとやかに振る舞ったら、今からだってつがいも見つかるかも……」

「おしとやかなんて無理! 余計なお世話だよーだ!」

「しれないのに……って、おい!」


 アイリーンはそう言い捨てると、ひらりと畑と道を区切る石塀に飛び乗り、そのまま軽やかに駆け抜けていった。

 ドルフは馬車を曳いていた。道は狭い。方向転換して追いかけてくることなんて無理だ。


 ――男女か。


 同い年のドルフもつい去年までつがいが見つからなかった。でもつがいとの出会いが遅れただけで、ドルフのつがいはちゃんとこの国に存在した。

 ドルフとはなかなかつがいが見つからない同士、ちょっと連帯感みたいなものがあったのだが、見事に置いてけぼりを食らってしまった。

 以来、妙に上から目線で語るドルフが苦手だ。


 ドルフの喚き声が完全に聞こえない場所までくると足をゆるめ、アイリーンは再び農道に飛び降りた。衝動で短く切った髪の毛が頬にかかる。



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