つながらない町

そらまめ

つながらない町

 まだ夏の盛りでもないのに、突き刺さってくるような陽射しに目を細める。全身を包むような蒸し暑い風に乗って、潮の香りが鼻を抜けた。

 初めての町の、見慣れない景色でも変わらない、夏の釣り場の気配。




発信元:One Night Sniper

返信先:たまごどーふ0141

釣りに行くなら、K県のD港はいいところですよ。昔、住んでた時にはしょっちゅう釣りに出ていました。沖堤防に行けば、大物も結構釣れますよ!




 最近、遠出ができていないけど、久しぶりに釣りに行きたい……そうSNSに投稿した時、相互フォロワーの一人が勧めてくれて、僕はこの町にやってきた。

 あらかじめ予約していた、沖堤防に渡る船の乗り場を探そう。ロープで繋がれた船が並ぶ、海岸沿いの道を歩く。

 道沿いに並んだ船宿の看板を見ながら進むが、潮風でさび付き、所々が剥がれ落ちて文字を読み取れないものが多かった。スマホを見ると、出航までの時間が近づいている。


「げっ、どうしよう……」


 肩に食い込む釣り具の重さを感じながら立ち止まった時、目の前の雑貨兼釣具屋から、腰の曲がったおばあさんが顔を出した。ホウキを持っているあたり、店の前の掃除をするところだったようだ。


「あの、すみません!」


「はいはい、なんでしょう?」


「その、”ひので丸”って船屋さんを探していて……」


 僕が少しどもりながら尋ねると、おばあさんは穏やかに話をきいてくれた……のだが反応は乏しく、ぼんやりと僕の顔を見上げているのだった。


「ええと、“ひので丸”……」


「はあ……」


「その、船で、沖堤防に行きたくて……」


 あまりに反応が無くて途方に暮れていると、後ろからはつらつとした声が響いた。


「おばあちゃん、こんにちは!」


 ぎょっとするほど大きな声。思わず跳ねるように、背筋が伸びる。僕を挟んで向かい合っていたおばあさんは、ようやくにこりとほほ笑んだ。


「あら、さよちゃん。今日もお疲れ様だねえ」


「いえいえ! はい、町内会のお知らせ」


 “さよちゃん”は相変わらずの大声で話を続けていた。クリアファイルに入ったプリントをおばあさんに手渡してから、こちらに振り返る。


「それよりあなた、驚かせてごめんなさい。ここのおばあさん、ちょっと耳が遠いから……」


「いえ、ええと、大丈夫です、その……」


 急に謝られて、僕は再びしどろもどろになってしまった。先ほどとは、違う意味で……目の前の“さよちゃん”が、あまりに美人だったからだ。


「うん?」


 僕より少し年上かな、という位だが白いワンピースがよく似合う。強い陽射しや潮風にも負けない、健康的な小麦色の肌がつやつやしていた。

 じろじろ見るのも失礼だと思い、僕は視線を泳がせた。


「ああいえ、大丈夫です。すみません……」


「そうですか? それより、何かお困りの事があったんじゃ……」


「え、ええ、その、沖堤防に渡りたくて。“ひので丸”って船屋さんに予約を取ったんですけど、見つからなくて……」


「そうだったの。それなら……」


 僕の話を聞いていたおねえさんは振り返ると、10メートルほど先に見える長方形の看板を指さした。所々を錆が浸食しているが、かろうじて“ひで丸”の字が読み取れる。


「あそこ、“ひで丸”になっちゃってるけど」


「ありがとうございます! すいません、予約してた時間に遅れちゃうんで」


「えっ、ちょっと待って!」


 急いで行こうとする僕を、おねえさんが慌てて呼び止めた。


「さっき“ひので丸”さんのところに寄ったけど、今日は予約が入らなくて暇だーってぼやいてたわ」


「えっ、どうしよう、何か手違いが……」


 僕が青くなっていると、“さよちゃん”は胸を張った。


「それなら、一緒に行ってお願いしてあげる。沖堤防に、釣りに行きたいんでしょう?」


「はい、ありがとうございます!」


「さよちゃん、一体どういうことなんだい?」


 船宿に向かおうとした時、それまでのやり取りが聞こえていなかったおばあさんが、おねえさんを呼び止めた。"さよちゃん"はおばあさんの耳に口を寄せ、大きな声で言った。


「この人ねえ、船に乗りたいんだって! 私、ちょっと手伝ってくるから!」




発信元:たまごどーふ0141

返信先:One Night Sniper

沖堤防! 良いですね~

ぼく、沖堤防で釣ったことないんですけど、海の真ん中にあるんですよね?

どうやって行けばいいですか…?


発信元:One Night Sniper

返信先:たまごどーふ0141

船を出してくれる船宿がいくつかありますので、予約してみるのはどうでしょう?

結構気軽に行けますよ。いろんな魚が釣れますし。イサキとか、グレとか……あと、イシダイとかの大物も釣れます!

私も若い頃、かなりでかいイシダイを釣り上げた時には興奮しました…!!


発信元:たまごどーふ0141

返信先:One Night Sniper

いいなあ…!

゚・:.。..。.:・'(゚▽゚)'・:.。. .。.:・。

是非、挑戦してみることにします!

それと、他にオススメのスポットがあれば、教えてもらえると嬉しいです…!


発信元:One Night Sniper

返信先:たまごどーふ0141

そうですねえ

私が住んでいたころによく行ってたんですけど…




 おねえさんの言った通り、“ひので丸”は予約を受けていなかったようだった。店の前で網の修繕をしていた船長のおじいさんは、僕が声をかけると面倒くさそうにしていたけど、おねえさんが間に入ってくれるとすぐに話がまとまって船を出してもらえることになった。

 僕は特別に仕立ててもらった船で、意気揚々と沖堤防に乗りつけた。そして……狙っていた大物は釣れず、ボウズ逃れにサビキ仕掛けで引っかけた小魚を数匹クーラーボックスに入れて、迎えに来た船に乗り込んだ。


「はっはっは、そんなこともあらあ。まあ、また今度、頑張んな!」


 オレンジ色に染まり始めた空の下、船を降りる、顔をくしゃくしゃにして笑う船長の声に見送られると、僕も思わず笑顔で会釈した。冴えない釣果にがっかりした以上に、初めての釣り場に挑戦する満足感があった。


「お兄さん、この後はどうする。泊まってくかい?」


「いえ、明日も仕事なんで、今日中に帰ろうかと」


「そうかい、ご苦労さんだな」


 船長はそう言いながら、船の点検に戻ろうとしていた。


「ちょっと、いいですか? 訊きたいことが……」


「ん、何だい? 言ってみな」


 思い切って呼びかけてみると、厳めしい顔をした船長は船を降り、気前よく応えてくれた。


「“みなと食堂”って、どこにあるかわかります? 人に勧められて調べてきたんですけど、全然わからなくて」


「”みなと食堂”? ほら、あれだよ」


 船長が指さした先、路地の奥に小さな提灯がぶら下がっているのが見えた。




「いらっしゃいませ。……あら!」


 駐車場に停めていた車に釣り具を戻し、僕は路地の角にある小さな店ののれんをくぐった。出迎えたのは、昼に出会った“さよちゃん”だった。


「あっ、どうも。ええと、ここは……」


「ええ、私のお店。……といっても私はただのオーナーというか……マネージャー? みたいなものかしら。そんなことより……奥にどうぞ! 好きな席に座ってもらって、大丈夫だから」


 そう言って、エプロン姿のおねえさんは店の奥に引っ込んでしまう。

 まだ、夕食時と言うには少し早い。そこまで広くはない店の中には、まばらに客の姿があった。僕は店の中を見回してから、隅のテーブル席に腰を下ろした。すぐにお冷が載せられたお盆を持って、“さよちゃん”がやってくる。


「はい、どうぞ。ご注文は、お決まりですか?」


「ええと、はい、“日替わりお魚定食”を一つ……」


「わかりました。……シェフ、日替わり一つ!」


 おねえさんが呼びかけると、店の奥から「あいよー」と女性の声が返ってくる。僕はテーブルの上に置かれたコップを手に取って、冷たい水をぐい、と傾けた。


「ふう……」


 おねえさんは店の奥に戻らず、一息ついた僕をじっと見ていた。


「それで、どうでした、釣り?」


「えっ、ええ、まあ、キンギョが3、4匹ってところで……」


「そっかあ、でも、初めての釣り場なら、仕方ないですねえ」


 穏やかに微笑みながら隣のテーブルを拭いている。オーナーと言っていたけど、振る舞いはホールの店員さんそのものだった。不思議な気安さに、思わず僕の口も軽くなっていたのだろう。


「あはは……実は、沖堤防の釣りを教えてくれた人が、でかいイシダイを釣ったって言ってたんで、ちょっと期待してたんですけどねえ」


「イシダイ……」


 おねえさんが見上げた先に、大きなイシダイの写真が飾られていた。若い魚では特徴的な白と黒の縞模様がすっかり消え、真っ黒の魚体。”クチグロ”と呼ばれるような成熟した、見事な個体だった。

 満面の笑みで獲物を手にしているのは、まだ十代そこそこかと思えるような少年だった。彼との対比でますますイシダイが大きく見える。


「すごい……」


「ねえ、凄いですよね。彼、この時はまだ高校生だったんですけど。未だにこれより大きなイシダイは、上がってないみたいなんですよ。……もしかして、お兄さんに沖堤防のことを教えた人って……?」


「ええと、いや、どうかな……」


 さっきまでニコニコしていたおねえさんが、どこか切羽詰まったような視線で答えを待っている。答えに困ってしまい、僕は頭をかいた。


「詳しくはわからないです、SNSでやりとりがあって、昔、この町に住んでたって言ってただけで。名前も知らないので……」


「そうですか……」


 おねえさんはしょんぼりしている。テーブルを拭き終えた布巾を所在なさそうにもぞもと両手で揉みながらも、なんとなく立ち去りにくそうにしていた。


「でも、その、何か……」


「オーナー!」


 太く、張りのある声に呼びかけられておねえさんはびくりと背筋を伸ばす。後ろには恰幅の良い女性が、料理を持って仁王立ちになっていた。


「料理、できてますよ」


「ごめん、シェフちゃん……さ、お兄さん、召し上がれ!」


「もう! ……失礼しました。“日替わりお魚定食”です」


 調子のよいおねえさんに呆れながら、シェフの女性がテーブルの上に定食のプレートを置いた。煮魚、みそ汁、白ご飯、そして香の物と、緑茶がふんわりと湯気を立てている。


「今日のお魚は、鯖の煮つけです。脂がのって、美味しいですよ」


「ありがとうございます、いただきます」


「はい、ごゆっくり……と、それはいいんですけど、オーナー、どうしたんです? まさかこの子に……?」


「ち、違います!」


 シェフは僕に料理の説明をした後、楽しそうな顔でおねえさんに話しかける。おねえさんは真っ赤になりながら、慌てて両手を振った。


「あら、何が違うんですかぁ?」


「もう! そうじゃなくって……彼の事、知ってるみたいだったから……」


 ちらり、と先ほどの写真に視線を向ける。シェフも一緒に目を向けて「ほーう」と声を漏らした。


「あの、高校を出てから連絡がつかないっていう、オーナーの元カレ……」


「元じゃないし、付き合ってもない! なんとなく、いい感じだったってだけで……」


 ブツブツと言っているおねえさんを見て、シェフの女性はため息をついた。


「こんなに美人で遣り手で、高校の時は弓道部の部長もしていて、あたしたちの希望の星なのになぁ、何で恋愛についてだけは、こんなに残念なんだろう……」


「弓道は大学で挫折したんだから、そんなに言いふらさないでほしいんだけど」


「ははは、すごい人なんですね……」


「そうなんですよ!」


 僕も調子を合わせるように愛想笑いをしていると、シェフの矛先がこちらに向いた。


「私たちだって、オーナーが声をかけてくれなかったらとっくに町を出てましたもん! ホントに恩人で……だから、オーナーには幸せになってもらいたいんですよ。ねえ、お客さん! その人のこと、何か知りませんか?」


「はは、あははは、ええと……」


返答に困って愛想笑いを続けていると、オーナーがシェフの肩をがしりと掴んだ。


「はい、シェフちゃん、この話はおしまい。SNSでしか関わりのない人のことを色々質問されたら、お客さんも困ってしまうでしょう?」


「えーっ」


「それに、お客さんの知り合いの肩が、本当に彼だとは限らないでしょう? だから、これ以上はプライバシーの侵害になるわ。……この話はここで、おしまい。キッチンに戻りましょう」


「はーい……」


 残念そうなシェフの背中を押しながら、おねえさんが振り返った。


「お客さん、ごめんなさいね、お騒がせして。どうぞ、ごゆっくり……」


「あっ、あの……!」


 二人でキッチンに引っ込もうとするところを、呼び止めていた。


「はい、何でしょう?」


「あの、今度、訊いてみます、その人に、オーナーさんのこと……」


 何でそこまで踏み込んだ申し出をしようと思ったのかはわからない。けれども、言葉が僕の口を出て、次々とあふれ出していた。


「それで、もし、その人がオーナーさんの気にしている人と同じだったら、その……」


 だったら、どうしようというのだろう。もし、そんな奇跡が起こったとしても、それは目の前にいるおねえさんと、顔も見たこともない、声も聞いたことのないSNS上の友人との問題なのだから。

 訳もわからずしゃべり続け、僕の頬も赤くなっていたと思う。おねえさんは僕の顔をじっと見て話を聞いてから、やさしく微笑んだ。


「そうね、もし、そんなことがあったら……どうしましょうね。すぐには、何も浮かばないけど……うん。もし、そんなことがあったら、伝言をお願いしてもいいかな?」


「はい!」


 何度も首を縦に振る僕を見て、おねえさんはクスクスと笑った。


「ふふ、そうね……“便りがないのは残念だけど、あなたが元気でやっているなら、それでいいわ”……って、そう、伝えてもらえるかしら」




発信元:One Night Sniper

返信先:たまごどーふ0141

日帰り釣行、お疲れ様でした。獲物は…残念でしたが、また次回、ということで!

今夜はしっかり、お休みください~


発信元:たまごどーふ0141

返信先:One Night Sniper

Sniperさん、ありがとうございます!

まだまだ、慣れない仕掛けでしたし…それにやっぱり、初めての釣り場は難しいですね…

( ̄▽ ̄;)アハハ

でも、Sniperさんがオススメしてくれた“みなと食堂”にも行くことができて、楽しかったです! 料理もおいしかったし…

おしえていただき、ありがとうございました!

(人´▽`)




 僕の返信にSniperさんが“いいね!”をつけて、その夜のSNS上でのやりとりは終わった。

 「寝落ちしたのかな?」と思って、僕はそれ以上気にしないことにした。けれど……翌日の夜、Sniperさんからダイレクトメッセージが届いた。珍しいな、と思って開封すると、


「今度、一緒にD港に行ってもらえませんか。日程はたまごどーふさんの都合のいいように設定してもらって、構いませんので」


 とだけ、書かれていた。




 潮風もすっかり涼しくなり、海水浴客も消えた秋のK県、D港に僕は再びやってきた。僕の仕事の都合で、満足に休みが取れるようになるまで時間がかかった……ということもある。けれどなんとなく、ほいほい簡単に再訪してよいものではない、という気もしていたからだ。

 相変わらず、堤防の先には釣り人達が並んで竿を出しているのが、車の中からでも見える。この港は、近隣でも有数の釣りの名所なのだ。

 車を降りる。僕は久しぶりの海の空気を吸い込み、深呼吸をした後、海沿いの道を歩き始めた。海辺の雑貨屋の前で、待っているということだったけれど……


「ええと、Sniperさん、ですか」


 数メートル歩いた先、夏前に“ひので丸”の場所を尋ねた雑貨兼釣り具屋の前で文庫本を読んでいた男性に、僕は声をかけた。濃い灰色のトレーナーに、黒いチノパン、革のスニーカー……。“特に、特徴のない恰好で申し訳ないですが”とダイレクトメッセージに本人が書いていた通りではある。けれども、間違いないだろう。

 男性はぴくり、とわずかに動いて顔をあげた後、ホッとしたように微笑んだ。


「ええ。たまごどーふさん、ですね?」


「はい、今日は、よろしくお願いします」


 お互い向き合って、ぎこちなくあいさつを交わす。これまで互いの顔も知らない、直接会ったこともない、いい年をした社会人が二人、差し向かいで顔を合わせればそんなもんだろう。


「こちらこそ、よろしくお願いします。……すみません、ちょっと言葉にしにくくて……本題に入る前に、少し付き合っていただけますか?」


「構いませんけど……一体、どこに?」


 一回り、とは言わないが僕より年上に見える、落ち着いたたたずまいの男性……Sniperさんは、困ったように微笑んで文庫本を閉じた。


「ええ、何とも不思議な話で、僕自身が信じられなくて……まず、実際に見ていただきたいんです」


「はあ、構いませんけど……」


「ありがとうございます。では、行きましょう」


 文庫本を肩掛けのカバンにしまい込むと、Sniperさんは僕を先導するように歩き始めた。

 海で遊ぶ旅行者が減っても、漁師たちの仕事量は相変わらずだ。係留されている漁船を見て回ったり、漁具の修繕をしていたり、港のそこかしこにぽつり、ぽつりといる漁師の姿を見ながら、僕たちは歩いていった。


「ここです」


「これって……」


 Sniperさんが足をとめたのは、いくつかある船宿の一つだ。恐らく老朽化した後で新調されたぴかぴかの看板には、整った活字体で“ひので丸”とはっきり書かれていた。


「“ひので丸”……でも、夏前に来た時には、こんなにきれいな看板じゃなかったのに……」


「そうだったんですね。僕がまず、違和感をもったのはここです。……すいませーん!」


 Sniperさんが呼びかけると、奥から「おーう」と太い声が返ってきた。


「いらっしゃい! 久しぶりだな、先輩!」


 出迎えたのは筋肉質の、若い男性だった。年頃は僕と同じくらいか、もう少し年上だろう。Sniperさんのことを“先輩”と呼び、いかつい顔に満面の笑みを浮かべているのは、どこか少年らしい。


「ああ、随分ぶりだなあ“船長”。もう10年は経つか……?」


「もっとだよ! まあ、ちょくちょくLineで連絡とり合ってたから、そこまで長い感じはしないけどさあ」


 二人でやり取りをしていると、Sniperさんも少年のように笑っていた。「最近はどうだ?」「実は、子どもが……」など、ひとしきり互いの世間話をした後、Sniperさんはハッとなって僕に振り向いた。


「ああ、申し訳ないです! 直接会うのが久しぶりだったので、つい、話が弾んでしまって……ええと、“初対面でしょうから”、ご紹介します。“ひので丸”の船長さんです」


「変な言い方するなあ、先輩! まあいいや、初めまして、“日の出丸”の船長です」


「あっ、はい、はじめまして……」


 僕と船長はぎこちなくあいさつを交わした。船長は困ったように笑っていたし、多分僕も間の抜けた表情だったのだろう。

 その後すぐに船長に別れを告げ、“ひので丸”を出た僕たちは無言で海沿いの道を歩いていった。


「ねえ、君……ああ、申し訳ない、たまごどーふさん」


 海に面した大きな神社の、鳥居の前でSniperさんが立ち止まる。振り返り、僕に謝りながら呼びかける声には、先ほどよりも幾分か気安く、打ち解けた響きがあった。


「はい……ええと、大丈夫ですよ、Sniperさん。あなたの方が、結構年上みたいだし」


「そうですか、それは、すみません……さて」


 ほっとした様子のSniperさんは、再び真剣な表情に戻っていた。


「たまごどーふ君……君を“ひので丸”に連れて行ったのは他でもない。君がつぶやいていた内容と、僕が知っている“ひので丸”が、随分違っていたからだ」


「ええ。……僕がいった時、“ひので丸”の船長さんは、いかつい顔のおじいさんでした。看板も、あんなにきれいじゃなかったし……この何か月かで代替わりした、ってわけじゃないんですよね?」


 僕の質問に、Sniperさんは首をすくめる。


「勿論。“ひので丸”はもう5、6年前から、今の船長に代替わりしているよ。君が見たのは、もしかして……ええと」


 そう言いながら、彼は肩にかけていたカバンの中身をあさった。取り出したのは古ぼけた、小さな判のアルバムだった。パラパラとページをめくった後、僕の前に開いて見せてくれた。


「こんな顔のおじいさんではないかな?」


 三段組に写真が収められたアルバムの中央に、収まった写真。手書きで書かれた“ひので丸”の看板と、その下に数人の少年たちが映っている。そしてその後ろには、厳つい顔をくしゃくしゃにして笑う老漁師が映っていた。その表情は、確かに見覚えがある。


「え、ええ! そうです、この人! もっと、年を取っていたと思いますが……」


「そうか、なるほど。やっぱりな……」


 Sniperさんはアルバムを閉じると、大事そうにカバンに戻した。


「あの写真に写っていた老人は、今の船長のおじいさんに当たる人だよ。先代の、“ひので丸”の船長だ」


「えっ、じゃあ、今は、もう……?」


 僕が青くなると、Sniperさんは小さく笑う。


「いや、大丈夫。先代の船長は生きてるよ。何でも引退後の楽しみだと言って、海外の漁業を見て回ってるんだとか。船長にも大体、ひと月おきに連絡が来るそうだ」


「よかった、幽霊とかじゃ、なかったんだ……」


「そう、幽霊なんかじゃない。ただ……」


 Sniperさんは相変わらず、神妙な顔をしている。


「君がD港に来た時には、先代さんは日本に居なかったはずなんだ」


 淡々と言う声を聞きながら僕は再び、背筋が冷たくなっていくのを感じていた。


「それって……じゃあ、僕が会った船長さんは……」


「うん。何か、ありえないことが起きているんだ。……他に何か、ここまで歩いてきた中で違和感はあったかい?」


「え、ええと、そうですね。あの時は釣りをすることに夢中で、あまりよく覚えていなかったんですけど……」


 患者の話を聞くカウンセラーのように、淡々と質問を続けるSniperさん。僕は混乱した頭を何とか整理させようと努めながら、数か月前の釣行を思い出していた。


「待ち合わせ場所の雑貨屋さん……確か、凄く耳の遠いおばあさんがいたような……今日、店の前を通り過ぎた時には、いませんでした、よね……?」


「そうだね。そうか……そういば、僕が小さい頃にも、確か耳の遠い女の人が店員をしていたような気もする。この町を出る頃にどうだったかは、憶えていないけどね。他には、何か?」


「ううん……いえ、すみません、あまり詳しくは、思い出せなくて」


 僕が唸りながら答えると、Sniperさんは少し、申し訳なさそうに手を振った。


「ああ、ごめん、いいんだ、大丈夫! いくつか、手がかりも整理できてきたところだったからね。ただ、あまりに不思議な話だったから。僕が考えていた内容だけを君に話しても、にわかには信じてもらえないと、思ったんだ」


「そうですね、でも……」


 僕はまっすぐ、大真面目な表情のSniperさんを見た。


「僕も、自分自身の記憶が信じられないけど……一方で、間違いない、とも思ってます」


「うん。君は数か月前、D港にやって来た。でもそれは、”このD港”じゃない」


 僕は口の中にたまったつばを飲み込んだ。海からの風が抜け、境内に植えられた松たちがざわり、ざわりと一斉に枝を揺らす。


「もしかして、僕はあの時、“ひので丸”の船長さんが代がわりする前の、過去に……」


「いや、それはない。絶対に。もっと、もっと別の……」


 僕自身も荒唐無稽だと思う問いかけを、Sniperさんはもっと真剣な表情で否定した。そして少し、黙り込む。

 何か表現しがたい物を表す言葉を探すように、自分の内側に潜っていくような彼の表情を、僕も黙って見ていた。

 風が止む。他の観光客の姿もなく、静まり返っていた境内に海鳥の声が響いた。Sniperさんははっとして顔をあげ、僕と目を合わせた。


「ああ、済まない。ちょっと、考え込んでしまっていたね。……行ってみよう。僕自身、自分の目で確かめて、結着をつけなければならないことがあるのだから」


 彼が目指す場所は、すぐに僕にもわかった。


「わかりました」


「君は神社で、自分はあの時、何年か前にタイムスリップしたんじゃないか……そう言ったね」


「はい。自分で言ってみても、信じられないような話ですけど」


「まあ、そうだね。非科学的な話だ。でも、僕が否定したのは、そんな理由じゃない。タイムスリップだとしても、辻褄が合わないんだよ」


「辻褄?」


「うん。君に紹介した“みなと食堂”……今から、僕たちが行こうとしているところだが」


 僕たちは傾き始めた秋の陽射しを浴びながら、D港の路地を歩いていた。踏みしめる石畳に、古いつくりの街並みにはなんとも情緒があり、それだけで知らない時代にタイムスリップしたような錯覚を覚える。

 ところどころに、古い建物を利用したおしゃれな店がある。あの時に入った“みなと食堂”も、こんな雰囲気の店構えだった、ような気がする。


「君に紹介した後、僕も調べてみたんだが……“みなと食堂”は、10年以上前に閉店してるんだ。屋号を継いだ人もいなかったと、“ひので丸”の船長……今代のほうだ……も、言っていたよ」


「えっ……でも、それじゃあ例えば、その10年前にタイムスリップした、とか……?」


「それはない。それは、ないんだ……」


 Sniperさんは立ち止まった。路地の向こうをじっと見つめてから、ぽつり、と言った。


「“さよちゃん”」


「えっ? ええ、“さよちゃん”……そう、呼ばれている女の人って、その……やっぱり、Sniperさんのお知り合いなんですか?」


「ああ」


 僕の質問に、振り向かずにSniperさんは答える。


「さよちゃん……小夜は、確かに僕の知り合いだ。話を聞く限り、君の会った女性は、小夜で間違いない。でも……」


「でも……?」


 Sniperさんは、振り返って僕を見た。悲しみのような、困惑のような、なんとも言えない表情で。


「小夜は、高校を卒業する前に亡くなった。だからタイムスリップしたとしても、君の言うような年頃の小夜に会う事はないんだ」


「それじゃあ……」


「確証はない、けど……“みなと食堂”に、行ってみようか」


 僕はうなずいて、二人で再び、路地を歩きだした。歩きながらSniperさんは、訥々と話し続ける。


「この世界に重なるように、よく似た世界がいくつも重なり合っている……なんて話は、聞いたことはあるかもしれないな。よく似ているけど、少しずつ違う世界、少しずつ違う方向に分かれていく世界……いわゆる、“パラレルワールド”というやつだ。もしも、年取った船長がずっと現役でいたら。もしも、耳の遠い婆さんが雑貨屋を続けていたら。もしも、“みなと食堂”がつぶれずに残っていたら。もしも……小夜が事故に遭わずに、生き続けていたら」


「それが、僕があの時に来た、D港……」


「かもしれないと、思ってしまったんだ。君の話を聞いてね」


 Sniperさんはそうやって話した後、路地の角に立ち止まった。


「……ほら、ここだ。君の記憶は?」


 辺りを見回す。歩いてきたルートは違うけど、確かに周りの景色には見覚えがあった。


「ああ、そう! そうです、ここ! ……じゃあ、この建物が」


「うん。……“みなと食堂”があったところだよ」


 目の前には、シャッターが下りた、古い建物があった。

 下りたままのシャッターを赤錆が浸食し、看板の文字はかすれて読めなくなっている。見る影もないけれども、この建物は、確かに……


「“みなと食堂”だ……!」


「そうか」


 短く返すSniperさんの声には、どこか安心したような響きがあった。

 傾き始めた陽の光を浴びながら、僕たちはしばらく黙っていた。


「……ありがとう、たまごどーふ君。ここまで付き合ってくれて」


「えっ? いえ、僕は、そんな……」


 答えに困ってしどろもどろになる僕の顔を見て、Sniperさんは小さく笑う。


「実は、この町に戻るのは高校を卒業してから初めてでね。小夜は……事故にあったんだ。彼女は弓道部でね。インターハイに向けて、遅くまで練習していた。その帰り道に、な」


 Sniperさんは話を続けるが、どこか遠くを見ているようだった。


「もしもあの晩、彼女が夜練に行かなかったら。事故に遭わずに済んだなら……そう、ずっと思っていた。多分、それで、この町に戻ることが、ずっと怖かったんだ」


「Sniperさん……」


 僕には、気の利いた言葉なんて見つからなかった。思わず呼びかけて、それでも言葉を続けられないでいると、Sniperさんは微笑んだ。


「でも、君の話を聞いて、“どこかで元気に生きている小夜”の姿を想像することができた。彼女の言葉を聞くこともできた。それは、この世界の僕に向けられたものではなかっただろうけど、それでも……。そして君に起きた“不可解な事件”を理由にして、この町に再びやって来る口実ができたしね。だから君には、感謝してるんだ」


「いえ、そんな……どういたしまして。……でも、ごめんなさい、写真を撮っておけばよかったんですけど、その時には電池が切れちゃっていて」


「それは仕方ないよ。もしスマホの電池が残ってたとして……彼女も、それ以上踏み込もうとしなかったんだろう? なら、どっちにせよ、ね」


 Sniperさんはそう言って僕を慰めると、シャッターの降りた店の周りを歩き始めた。


「“みなと食堂”自体、僕にとっては学生時代のいい思い出なんだ。せっかくだから、もう少しよく見ておくことにするよ」


「僕も、付き合いますよ……あっ!」


 慌ててSniperさんの後を追いかける。シャッターの切れ目……十字路に面した、角を曲がった時、僕は思わず足をとめていた。


「どうしたんだい?」


 先を歩いていたSniperさんが振り返り、僕の隣にやって来る。僕たちは並んで、古ぼけた壁を見つめていた。


「これは……。君の会った“さよちゃん”は、こんな風だったのかい?」


「ええ」


 壁には古い看板が一つだけ残っていた。清涼飲料水の宣伝に使われていた看板に描かれていたのは、白いワンピースの少女のイラスト。

 少女の朗らかな笑顔は、夕陽を浴びて黄金色に輝いていた。


(完)

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

つながらない町 そらまめ @NamakemonoOmame

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ