センセイは優しい人
センセイは優しい人だ。
「本当にいいのかい?」
センセイのしなやかな手がわたしの頬をさわった。
「はい」
わたしは首を縦に振ってうなずいた。
「もしかしたら、私は君にひどいことをしてしまうかも知れない。
それでもいいと言うのかい?」
「…構いません」
センセイにひどいことをされるなら、本望だ。
「止めるなら、今のうちだよ」
センセイの顔が近づいてきた。
センセイが近づけば近づくほど、センセイの躰から漂っている甘い香りが強くなる。
わたしは…そっと、目を閉じた。
*
さかのぼること、3時間前。
「波田センセイのところに行ってきます」
編集長にそう声をかけた後、わたしは出版社を後にした。
センセイは出版社がある駅から2駅先のところにある住宅街に住んでいる。
築20年だと言う住宅の玄関のチャイムを押すと、
「はーい」
かわいらしいソプラノの声が聞こえた。
そうか、今は夏休みか。
そう思ったのと同時に、玄関のドアが開いた。
「津川さん、ご無沙汰しています」
わたしにあいさつをしてきたのは、センセイの姪っ子の野坂いちご(ノサカイチゴ)ちゃんだ。
彼女は高校1年生で、両親が県外へ赴任しているため、センセイのところで暮らしているんだそうだ。
「こんにちは、センセイは今日はいるかな?」
そう聞いたわたしに、
「いますよ」
いちごちゃんが答えた。
「じゃあ、お邪魔してもいいかな?」
「はい、どうぞ」
わたしは家の中に入った。
入ったとたん、果物の甘い香りが躰を包み込んだ。
「今、ジャムを作っていたところだったんです」
いちごちゃんが言った。
「ああ、そうだったの」
「小梅ちゃんと2人で食べるには多いので、もしよろしかったら…」
そう言ったいちごちゃんに、
「わかった、楽しみにしているわ」
わたしは首を縦に振ってうなずいた。
「ありがとうございます、後でお茶をお持ちしますね♪」
ポニーテールにした髪を揺らしながら、いちごちゃんはキッチンへと向かった。
わたしは階段をのぼり、「KOUME」と言うかわいらしいプレートがかかってある部屋の前についた。
センセイ曰く、中学校の美術の時間にいちごちゃんが作ったものなのだそうだ。
コンコンとドアをたたくと、
「どうぞ」
中からセンセイの声が聞こえた。
ガチャッとドアを開けると、花のような甘い香りが漂った。
「ああ、原稿だね」
わたしの姿を見たセンセイは、分厚い茶封筒を差し出した。
「ありがとうございます」
センセイの手から茶封筒を受け取ったわたしはお礼を言った。
茶封筒から原稿を取り出そうとしたら、
「元気がないね」
センセイが言った。
「えっ?」
顔をあげてセンセイを見たわたしに、センセイは悲しそうにキレイに整えられた眉を下げた。
「恋人のことかい?」
センセイの桜色の唇が動いたと思ったら、音を発した。
目をそらすようにうつむいたわたしに、
「そうだろうと思っていたよ…」
センセイが言った。
コンコンと、ドアをたたく音が聞こえた。
「入っていいよ」
そう言って声をかけたセンセイに、
「お邪魔しまーす♪」
ドアが開いたのと同時に、お盆を持ったいちごちゃんが入ってきた。
お盆のうえにはグラスに入った麦茶があった。
「悪いね、いちご」
声をかけたセンセイに、
「小梅ちゃん、どこに置けばいい?」
いちごちゃんは聞いた。
「机のうえに置いておけばいいから」
そう答えたセンセイに、
「はーい」
いちごちゃんはお盆をセンセイのテーブルのうえに置いた。
「では、お邪魔しましたー♪」
わたしたちに会釈をした後、いちごちゃんは部屋を後にした。
バタンとドアが閉まると、
「いい加減、その恋人と別れたらどうなんだい?」
センセイが言った。
「別れたいとは思っているんです。
でも別れを切り出そうとすると、逃げられちゃって…」
そう言ったわたしに、センセイはやれやれと息を吐いた。
「逃げられる、ねえ…」
センセイは呟くように言った後、わたしに向かって手を伸ばした。
センセイの華奢な手がわたしの頬に触れる。
センセイの美しい顔がわたしに近づいてくる。
センセイの躰から漂っている甘い香りが強くなる。
「――センセイ…?」
呟くようにセンセイの名前を呼んだら、
「いっそのこと、二股をすると言うのはどうだい?」
センセイが言った。
「えっ…?」
そう言ったセンセイに、わたしは驚いて聞き返した。
「君は“彼氏”はいるけど、“彼女”はいないんだろ?
二股をかけられても文句は言えまい」
センセイはそう言った後、笑った。
妖しい色気が漂うその微笑みに、わたしの心臓がドキッ…と鳴った。
「センセイ…」
呟くようにセンセイの名前を呼んだわたしに、
「紅葉…」
センセイがわたしの名前を呼んだ。
黒いビー玉のようなセンセイの瞳が近づいてきたかと思ったら、
「――ッ…」
センセイの唇とわたしの唇が重なった。
後頭部にセンセイの手が添えられたかと思ったら、そっと大切なものを扱うようにセンセイがわたしを優しく押し倒した。
「――んっ…」
チュッと言うわざとらしい音を立てながら、センセイは何度もわたしの唇を奪った。
「――ッ…」
ようやくセンセイの唇から解放された時、わたしの呼吸は荒かった。
「キレイな肌だね」
そう言ったセンセイに視線を向けて見ると、
「――あっ…!?」
シャツの胸元がはだけていた。
どうやらセンセイにキスされている間に、センセイにボタンを外されてしまったらしい。
センセイは妖しく笑うと、
「――あっ…」
はだけた胸に唇をつけた。
チュッと音を立てながら唇をつけられるたび、わたしの唇から声がこぼれてしまう。
下にいるいちごちゃんに聞こえないように、わたしは手で隠すように口をおおった。
「どうして声を隠す必要があるんだい?」
センセイがわたしを見つめてきた。
「――いちごちゃんに、聞こえちゃうから…」
呟くように言ったわたしに、
「へえ、ここで私以外の名前を出すんだ。
君は悪い人だね」
センセイは妖しく微笑んだ後、
「――ッ…」
またわたしの胸に唇をつけた。
いちごちゃんは、センセイの姪っ子ちゃんじゃないですか…。
そう言い返したくても、センセイの唇が邪魔をした。
「――セン、セイ…」
呟くようにセンセイの名前を呼んで、センセイの黒い髪に手を伸ばした。
サワサワとセンセイの髪をなでると、そこから甘い香りが漂った。
センセイが顔をあげて、
「――んっ…」
センセイの唇がわたしの唇と重なった。
頭がぼんやりとする…。
その原因がセンセイの唇なのか、それとも甘い香りなのか…わたしにもよくわからなくなっていた。
「――はあっ…」
センセイの唇が離れた。
「その気になったかい?」
ツッ…とわたしの唇を親指でなぞると、センセイが聞いてきた。
センセイの指に感じてしまい、質問に答えることができない。
「まあ、無理にとは言わない」
そう言ったのと同時に、センセイの指が唇から離れた。
「君が答えを言うまで私は待ってる、返事はいつでも構わないから」
センセイがわたしの躰から離れた。
「えっ、あの…」
「もう時間だよ。
早く原稿を届けないと、怒られてしまうよ」
わたしは躰を起こした。
「それと身なりの方もちゃんと整えてから、出版社へと向かうんだよ」
そう言ったセンセイに、わたしはシャツのボタンを外されていたことを思い出した。
胸にはセンセイがつけた痕跡がたくさんあった。
わたしはシャツのボタンを閉めると、
「あ、ありがとうございました!」
センセイの部屋から出ようとした。
「ちょっと待って、原稿を忘れてる」
センセイの手から渡された茶封筒を思い出し、
「あっ…」
わたしはそれを受け取った。
「ありがとうございました…」
呟くようにお礼を言ったわたしに、
「気をつけて帰るんだよ」
センセイが言った。
甘い香りが漂っているセンセイの部屋を出ると、
「もうお帰りですか?」
いちごちゃんに出くわした。
彼女の手にはラッピングされた小さなビンがあった。
「うん、時間だから…」
わたしはちゃんと答えることができただろうか?
「よかった、間にあった!」
いちごちゃんは嬉しそうに笑うと、
「はい、約束のジャムです!
甘夏のジャムですよ。
美味しくできましたので、食べてくださいね♪」
わたしに差し出してきた。
「ありがとう」
わたしはお礼を言うと、いちごちゃんの手からビンを受け取った。
ビンの中のジャムは透き通る黄色をしていた。
焼きたてのトーストに乗せたら美味しいだろうなと思いながら、わたしはジャムをカバンの中に入れた。
出版社にセンセイの原稿を渡して、家へと足を向かわせていた。
どうしよう、まだ胸のところが熱い…。
センセイにつけられた痕跡がそうさせているのかも知れない。
家には彼がいるって言うのに、わたしはどう言う顔をすればいいと言うのだろう…?
足を止めて、胸に手を当てた。
「――帰らなければいいんだ…」
小さく呟いた後、わたしは自嘲気味に笑った。
ロクに働かないで、ただ家に居座っているだけの男のところに帰らなければいい。
彼の顔を見るくらいなら、センセイのものになった方がよっぽどいい。
わたしは深呼吸をすると、きたばかりの道を逆戻りした。
センセイの家の前についてチャイムを鳴らそうとした時、ガチャッとドアが開いた。
白地に牡丹柄の浴衣姿のいちごちゃんが出てきた。
「津川さん」
わたしの存在にいちごちゃんが声をかけてきた。
「何か忘れ物があったのかい?」
いちごちゃんの後ろからセンセイが顔を出した。
「えっ…えーっと…」
戸惑っているわたしに、
「小梅ちゃん、行ってくるねー」
いちごちゃんがセンセイに声をかけた。
「ああ、楽しんでおいで」
センセイは言い返すと、いちごちゃんに向かって手を振った。
いちごちゃんは手を振り返すと、下駄をカランコロンと言わせながらその場を立ち去った。
「いちごちゃん、どこへ出かけたんですか?」
彼女の姿が見えなくなると、わたしはセンセイに話しかけた。
「友達と一緒に夏祭りへ出かけるんだそうだよ」
センセイが言った。
「そうですか…」
呟くように返事をしたわたしに、
「それで、何を忘れたって言うんだい?」
センセイが聞いてきた。
わたしはセンセイの顔を挟むように両手を置くと、
「――ッ…」
自分からセンセイと唇を重ねた。
「――待って、誰かに見られたら困る」
センセイはわたしから離れると、わたしを家の中に入れた。
ドアが閉まったのと同時に、今度はセンセイからわたしと唇を重ねてきた。
「――ッ…」
センセイの躰から漂っている甘い香りと柔らかい唇に、頭の中がぼんやりとし始めているのがわかった。
センセイの手が後頭部に添えられたのと同時に、わたしはセンセイの背中に両手を回した。
どれくらいの時間、わたしたちはお互いの唇を重ねていたのだろう?
「――はっ…」
離したとたん、唇から熱い吐息がこぼれ落ちた。
センセイの目は熱があるのかと聞きたくなるくらい、潤んでいた。
「――わたしを…」
潤んだ目を見つめながら、
「わたしを、センセイのものにしてください…」
センセイに言った。
センセイは驚いたと言うように目を見開いて、
「いいのかい?」
わたしに聞いた。
わたしは首を縦に振ってうなずいて、
「センセイに、抱かれたいです…」
そう言ったわたしの唇を、センセイが重ねてきた。
「――ッ…」
唇が離れた瞬間、
「本当にいいのかい?」
センセイが聞いてきた。
「はい」
わたしは首を縦に振ってうなずいた。
「後戻りをするなら、今のうちだよ?」
「…構いません」
甘い香りを感じながら、わたしは言った。
センセイの部屋のセンセイのベッドのうえに、わたしはセンセイと向かいあうように座っていた。
「本当にいいのかい?」
センセイのしなやかな手がわたしの頬をさわった。
「はい」
わたしは首を縦に振ってうなずいた。
「もしかしたら、私は君にひどいことをしてしまうかも知れない。
それでもいいと言うのかい?」
「…構いません」
センセイにひどいことをされるなら、本望だ。
「止めるなら、今のうちだよ」
センセイの顔が近づいてきた。
センセイが近づけば近づくほど、センセイの躰から漂っている甘い香りが強くなる。
わたしは…そっと、目を閉じた。
センセイの唇がわたしの唇に触れた瞬間、わたしは押し倒された。
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