都合のいい記憶

森本 晃次

第1話 湖畔脇のホテル

この物語はフィクションであり、登場する人物、団体、場面、設定等はすべて作者の創作であります。似たような事件や事例もあるかも知れませんが、あくまでフィクションであります。それに対して書かれた意見は作者の個人的な意見であり、一般的な意見と一致しないかも知れないことを記します。また専門知識等はネットにて情報を検索いたしております。ご了承願います。


 現在、この日本という島国で、一体何人の人間が失踪、いわゆる行方不明者としてカウントされているのだろう?

 日本の人口は一億二千万人ほどだというが、その中で失踪したとされる人は、何と八万人にも上っているという。しかもそれは失踪届が出された人だけに限ってのことであろうから、実際にはもっといるかも知れない。これは増加もしていなければ、減少もしていない。ほぼ横ばい状態だという。

 ということは、これが頭打ちで、限界に近い人数がそのまま減ることもなく続いているということである。

 何とも恐ろしい数ではないか。

 もちろん、その中には単なる家出もあれば、認知症の患者が徘徊するという例もある。そのほとんどがすぐに発見され、犯罪はおろか、行方不明者としてずっと残っているわけではないのだが、それでも若干名、原因不明として行方不明者に名を連ねる人は存在している。

 中には犯罪がらみの人もいるだろうが、それだけではないかも知れない。姿を隠さなければいけなくなる理由など、普通に生活をしていればあまり考えることではないので、その人の身になってみなければ、想像がつくわけもないだろう。

 そうやって考えると、毎年、数百から数千人が消息不明になってしまうのだから、世の中というのは、本当に怖いものだと思い知らされる。

「日本は治安がいいはずなのに」

 と言われるであろうが、なまじそうとも言い切れないのかも知れない。場所によっては、大人一人でも昼間であっても迷い込むのは危険だと言われている場所もあると言われているくらいである。そんな場所は大都市の裏路地に入れば、どこにでも存在しているのが現実であろう。

 そこには犯罪の巣窟と言われるようなところがあり、クスリだったり、銃だったり、賭博などの違法性のあるものが、公然と売買されているところだったりするのだろう。

「明と暗は紙一重」

 という人もいるが、こんな路地には入り込みたくはないものだ。

 何が起こるか分からない場所への侵入は、下手をすれば死を意味していたりもする。そんな場所に近寄らなければいいだけなのだが、迷い込んでしまう人はいるのだろう。その人たちがいずれ行方不明者として警察に届けられ、最終的に生きているのか、どうなったのか分からないまま、ファイルの中にしかその存在はない状態になってしまう。

 某怪しげな国家を思い起こさせる行方不明者、考えれば考えるほどロクな考えしか浮かんでこない。そうなると国家というものがどれほどあてにならないのか、身に染みて分かるというものだ。

 国家があてにならないのであれば、警察は?

 それこそ、あてにする方が間違っている。

「警察というところは、何か事が起こらなければ行動しない」

 というのが原則で、行方不明者にしても、ストーカー問題、いじめ問題にしても、結局は誰かが殺されたりするという実害がなければ動かない。

 せっかく、危機を予告してやっているのに、何かが起こらないと行動しないのは、実に本末転倒な話だ。

「何かがあってはもう遅い」

 という言葉を警察の誰もが知らないのだろうか。

 そもそも、警察なんぞを当てにする方が間違っていると言われるのがオチではないだろうか。

「では、一体何を信じればいいのか?」

 結論から言えば、

「自分の身は自分で守るしかない」

 ということであり、最後にモノを言うのは、

「君子危うきに近寄らず」

 という言葉であろう。

 それでも仕方なく立ち入らなければいけなくなってしまった場合、

「運命なんだ」

 として諦めるしかないのであろうか。

 世の中には誰にも知られていないことがたくさんある。そのことをこのお話が叙実に描き出していくわけだが、実際に行方不明になる人がどれほど多いのかということを、プロローグとして書いておくことは決して大げさな話ではないということを意味していた。

 さらに世の中には、秘境と呼ばれるところも結構たくさんあり、

「秘境の温泉」

 などと言って、世間ずれしていないようなのどかな場所もあったりするのだが、人間というのはとかくそういうところを好むもののようで、それだけ世間の世知辛さを絶えず感じているかということの証拠でもあろう。

 都会と呼ばれているところから、電車で一時間も行かないところではすでにまわりが田園風景だったり、砂浜が広がっているような海岸の風景だったりする場所も容易に探すことができる。しかし、近くに大手メーカーの工場などがあると、せっかくの光景も台無しになってしまったりする。秘境を探す時は、そのあたりも気にしておかなければいけないだろう。

 鄙びたという表現はよく使われる。元々、

「閑散とした田舎くさいのどかな風景」

 という意味であるが、まさしく閑散とした田舎臭いのどかな場所というと、

「何十年も前と変わっていない」

 という表現に当たるのではないだろうか。

 ただ、昔になればなるほど、田舎というのは閉鎖臭いところで、よそ者を受け入れないであったり、怖い伝説が残っている場所というイメージで、

「今の時代にそぐわない陰気で恐怖を煽る場所だ」

 とも言えるのではないだろうか。

 昔はそんな田舎の人が都会に憧れを持ち、中学を卒業すると、皆都会に出て行ってしまい、

「田舎というところは、老人と女子供しかいない」

 と言われるようになったものだ。

 そういう意味では、田舎がそんなにいいなどというのは、都会人が抱いている妄想であり、現実はそんなことはないということで、田舎の人が都会に憧れるのと反対に、田舎にも大いなる罠があるのかも知れない。

 本当なら、

「住めば都」

 という言葉が示すように、その人がそこに存在しているには意味があるという意識を持つことで、余計なよその土地に対する願望などを持たない方がいいと言っているようなものではないか。

 今の田舎というのは、外目には昔の家であっても、家の中は結構近代化されていて、オール電化などという家もあるのではないだろうか。昔からの家といえば、囲炉裏があって、それを囲むように、冬などは皆蓑のようなものを着て生活しているというイメージがあるが、それはきっとテレビアニメなどでやっていた、昔話の影響が大きいのかも知れない。いかにも絵本に書かれているような簡易なマンガが画面を動いているのだが、それも昔風であり、いかにも田舎臭さを表現しているのも、アニメならではと言えるのではないだろうか。

 本当の田舎の風景を知っている人は、もうほとんどいないかも知れない。ただ、高齢化社会になっているので、田舎に住んだことはなくとも、田舎に遊びに行き、その時のイメージが鮮明に残っている人は、思っているよりも多いカモ知れない。

「どっちなんだ?」

 と聞かれても、どちらともいえない。

 あくまでもイメージとして頭に残っている人、そして瞼の裏に焼き付いてしまっている人、そして、実際に住んでいた人、それぞれを分けるとその比率には結構なばらつきがあるような気がする。

 田舎と言っても、山間部と海岸線ではまったく違っているだろう。農業などで生計を立てている村、漁業で生計を立てている村、それぞれが存在する。しかも村というと閉鎖的であり、隣の村でもよそ者扱いされたりするくらいだ。

「まるで警察の管轄に対しての、縄張り争いのようだ」

 と言っていた人がいたが、まさにその通りなのかも知れない。

 田舎に対してのイメージを、

「のどかな」

 という言葉だけで表現するのは危険な気がする。

 なぜなら、田舎に住んでいる人は都会の人間を毛嫌いしているくせに、その表情は穏やかなものだからである。

 都会に住んでいて田舎に行くのと、田舎に住んでいる人が都会に出るのとではどれほどのリスクがあるというのだろう。そのどちらも比較にならないほどのリスクを伴うだろうが、それはやはりそこに住んでいる人の偏見であったり、人数による多数派というものではないだろうか。

 昔であれば、通信環境やマスメディアなど、都会と田舎では雲泥の差だったこともあり、お互いに知らぬことが多い中での偏見などは往々にしてあったことだろう。

 ただ、大人数による多数派意識は田舎の方が大きかったと推測される。特に村八分などという言葉が示す通り、田舎の集落の中だけで法律のようなものが存在し、それを犯したものには大きな罰が与えられ、下手をすれば、次世代にまで影響しかねないこともあったりする。

 そんな閉鎖的な田舎というのは、都会から見ると実に滑稽に見えたりするだろう。

「田舎臭い」

 などという表現は、都会から見た雁字搦めで、閉鎖的な環境に対しての偏見であったのではないかと思える。

 確かに都会には狭い範囲でたくさんの人が密集していて、人口密度からすればまったく違うのだろうが、都会に比べて田舎という土地の広さを考えれば、段違いである。全体の人口から、田舎と言われるところの人口がどれくらいで、都会と呼ばれるところがどれくらいなのか、分からない。統計としてはあるのかも知れないが、そもそもどこからを都会と呼び、どこからが田舎というものなのかの線引きも難しい。きっと、

「都会、あるいは田舎という目線の違いからそれぞれを区分けするとすれば、まったく違った絵が出来上がるのではないか」

 と思えるのだった。

 田舎から見れば、相当な範囲を田舎だと感じるだろうし、都会の人が見れば、少々でも都会と見るかも知れない。だがそれぞれ毛嫌いしているという観点から、都会から見た時の田舎というのは、果てしなく広いというような錯覚を抱いているような気がしている。そうなると、都会の方は、面積的にも人口的にも、不利に思えてくるに違いない。田舎が有利だと思うのは、これも田舎に対しての偏見であろうか。

 ただ、時代はどんどん進んでくる。戦後間もない頃までは田舎が幅を利かせる時代もあっただろうが、高度成長時代になれば、田舎にたくさんの工場や住宅が作られるようになり、どの田舎を手中に収めるかというのが、都会での競争の肝になっていたりする。まるで、現代風

「国盗り物語」

 と言ってもいいのではないかと思えてきた。

 そのおかげで、都会の文化が田舎にも入ってくることになるのだろうが、都会の利権がまともに田舎の人間の気持ちを左右することになる。田舎を開拓しようと考える開拓派と、田舎を守ろうとする保守派がまともにぶつかって、まるで幕末の、開国派と攘夷派を地で行っているようなものではないだろうか。

 都会にすっかりかぶれてしまう田舎もあれば、田舎のままどこともかかわることもなく田舎として残るところも、まだその頃にはあったかも知れないが、自裁が進むと、市町村合併などというものが、村を襲ってくる。

 都会ではそれまで、好景気、不景気が交互にやってきて、そんな中で日本はいろいろな策を弄することで立ち直ってきた。

 だが、その立ち直りの中には多少なりとも何かを犠牲にしての復活であったということは間違いない。

 この当時の市町村合併という時代も、その流れに押されてのことだった。

 それぞれの市町村でいろいろな思惑があり、合併する側、合併される側とそれぞれの利益が交差して、どんどんこの国から町や村というものが消えていく。次第に都会と言われる同じ市内の中で、昔のど田舎と言われていた場所が存在している場所があったりするのも仕方のないことである。

 県庁所在地である大都市の市内に位置している場所で、まだ鉄道で電化されておらず、ディーゼルで動く気動車が存在しているところもあるくらいだ。こうなってくると、

「どこからが都会で、とこからが田舎なのか?」

 という定義は当てはまらなくなってくる。

 人それぞれの感覚や感性で田舎と都会を感じ分けるしかなくなってしまい、田舎も都会もそれぞれに勢力が分からなくなってしまっている。今の時代に果たして、

「田舎臭い」

 と言われて、腹を立てるところがあるだろうか。

 むしろ、

「田舎のようなのどかな風景」

 と言われているようで、それが観光産業として生きているのであれば、それはそれでいいのであろう。

 実際に田舎では、

「村おこし」

 であったり、

「町おこし」

 などという言葉が流行り、田舎に人を集めようという趣向が壊された時代もあった。

 さらには、農家の嫁不足解消などのために、マスコミとタイアップして、テレビでのお見合いなどという企画も催されたことがあったが、しょせん田舎は田舎で、なかなか都会のようにはいかなかった。

 だが、そんな田舎の中には、別に人を集めるようなことをしていないところもあった。密かに佇んでいるという表現がピッタリの場所もある。その場所は、

「知る人ぞ知る」

 と呼ばれるようなところであったが、逆に言えば、

「知っている人にしか知られていない」

 というところであった。

 世の中というのは、意外と知られていない場所が結構存在するものだ。ガイドブックのどこにも載っていない。さらには、人を集める努力もしない。そんなところである。

 そんなところは自給自足を行ったり、その土地で獲れた作物を街に持って行って売れば、それなりのお金になるという場所である。

 これからご紹介する場所は損な場所であった。まわりから別に隔絶されているわけではないが、しいていえば、広い森に囲まれていることもあって、まるで樹海のようになったその場所に無理に立ち入ろうとする人もいない。そんなところである。

 最寄りの駅というと、ローカル線の終着駅よりバスに乗れば一時間以上走ったところの山岳部の中腹にあるところだった。山岳部の中腹と言っても、平野になったところであり、確かに人が寄ってくるような場所ではなかった。

 ただ、近くには何もなく、遠くに見える高い山だけが目印になるような、実際には、隣の街まで行く途中の幹線道路が、この一帯の一部を掠めるように走っている。

 つまり、この幹線道路を走っているだけで、自動的にこの一帯に入り込んでいるのと同じであった。

 そのことは一部の人しか知らないが、こんなところにもバス停があった。ほとんど誰も乗り降りしないが、バス停があるのは間違いないことなので、時々乗り降りする人も実際にはいる。

 その人はこの森の奥に住んでいる人だが、定期的に街まで通っている。それは病気だというれっきとした理由があるのだが、病気と言っても入院するほどではない。ただ定期的に薬を飲まなければいけないような病なので、クスリを貰うために街まで赴くのだった。

「このあたりは民家もないからな」

 とその人は言っていたが、生活をするには困らない。この森の奥には一軒のホテルがあり、そこの人がこの人の面倒を見てくれている。食事など頼んでおけば作って運んでくれる。

 さすがにただというわけではないが、ただ同然の値段でやってくれる。街にある公共の介護施設よりもよほど割安だった。

 しかも、同じ場所で住んでいるという思いがどちらにもあるからか、病人の方が遠慮すれば、ホテル側が恐縮する。ホテル側が遠慮すれば、病人が恐縮するという具合で、これも、

「田舎ならではのいい風習だ」

 と言えるのではないだろうか。

 実際にこのホテルの従業員の半分くらいは。都会からの人である。都会で仕事に疲れ、一休みをしたいと思い、このホテルのウワサを聞きつけて骨休めに来てみると、こんなに居心地のいいことはない。もちろん、仕事をするとなるとまったく違ってくるのは先刻承知のことであるが、

「それでも都会の喧騒としたあの空気の悪さとは雲泥の差だ」

 ということで、ここで働きたいと言って、そのまま居座る人も少なくはなかった。

 それでも、数年すれば、都会が恋しいのか戻っていく人もいる。命の洗濯ができたという心境であるか、ホテル側も、

「去る者は追わず」

 の姿勢で、快く送り出してくれる。

 このホテルはそういう意味では完全に、

「救世主のようなホテル」

 と言っていいのではないだろうか。

 最寄りの駅というのは、この近くに古くから湧き出ている温泉を主として作られた駅である。温泉の歴史は古く、何でも鎌倉時代にはあったというのだから、由緒正しきとでもいうべきであろうか。そこにはひっそりと温泉旅館が一軒あり、秘境の温泉をそのまま示しているような感じであった。

 また、温泉は山に囲まれたところにあり、近くには鎮守の森があり、温泉の守り神として祀られているのだった。旅館が一軒しかないというのも、まわりが山に囲まれたごく狭い範囲の温泉だということが理由のようだった。

 湯治客が多いのか少ないのかは、似たような温泉があまりないので、比較にならない。それでも宿泊客が一人もいないなどということはなく、いつも二三組はいるようだった。その人たちも療養や湯治が目的なので、長い間の滞在となる。つまりは、まるで家族のような場所だと言ってもいいだろう。

 病気に怪我に、さらには老化防止にと、いろいろな効用はあるようで、県内の病院も推奨しているので、そのあたりは安心だった。療養する場合、一定の年齢に達していれば、国から宿泊費の補助が出て、年齢に達していなくても病院が推奨した患者には、県から宿泊費などの補助が出ているようだった。

 この温泉宿の奥には、すぐ山が迫ってきているということは前述の通りであるが、道というには少し難易度の高い山道があり、そこの土質はいつもドロドロだった。

 しかも、まるで万年の霧が張っているかのように、視界がハッキリとせず、足元が危ういことから、なかなかここまで入ってくる人は少ないが、途中までくると、

「ゴー」

 という音が聞こえてきて、そのうちに耳に慣れてくるのか、その音が気にならなくなるという不思議な現象があった。

 やはり、かなり山間に入ってきているので、平地と違って空気が薄いのか、轟音も次第に慣れてくるもののようだ。

 その轟音の正体は途中からほとんどの人には分かってくるようだが、奥に行くと、そこには大きな滝があるのだった。湿気に満ちているのも、轟音も、さらには霧に包まれたような幻想的な光の悪戯も、この滝がすべての原因だった。

 滝の近くには、先ほどの祠とはまた別の祠があり、定期的に誰かがお供え物を持ってきているようだ。実は今の時代ではないが、数十年くらい前まではこの滝は自殺の名所とも言われていたようで、秘境と言われる温泉にこの世の名残を惜しんでから、楽になろうという考えの元、自殺志願者が訪れたという。

 さすがに一時期は問題になり、この場所が立ち入り禁止になり、今でもその時の名残で立ち入り禁止の立札が残っていたりするものなので、立ち入る人がほとんどいないというのも無理もないことだった。

 それでも昔からこの宿を切り盛りしているもう引退してしまったが先代の奥様が、

「誰にも供養されないのはかわいそうだ」

 と言って、時々穀物をお供えしているようだ。

 今では自殺志願者がたくさんいて社会問題になった頃のことを知っている人もいなくなり、供養するのは先代の奥様だけになってしまった。

 そんな田舎の温泉宿を常宿にしている人の一人で、小説家の先生がいる。その人の名前はペンネームであるが、

「古舘晋作」

 という。

 彼は温泉宿で、時代錯誤になるかも知れないが、昭和の恋愛情話のようなお話を書いていた。

 本当は明治時代の文豪が書いたような作品を書きたいと思ったのだが、そこまでしなくとも昭和でも十分書くことができると思ったようで、この温泉を常宿にして、この温泉をイメージして、秘境の温泉での情事を書き続けていた。

 彼の小説はそれなりに売れていた。今の時代の小説というと、どうしてもライトノベルであったり。ケイタイ小説などと言った軽い話がもてはやされるが、古き良き時代を思わせる昭和情緒を描く彼の作品は、一部の熱狂的な読者に支えられているという。

「やっぱり明治時代までさかのぼらなくてもいいんだよ」

 と言っているが、昭和の時代にも大いなるロマンがあり、それは今の時代からは想像もできないような背景に、心躍らせて読む小説をワクワクしながら、感じているのではないだろうか。

 だが、この宿を常宿にして小説を書いている古舘であったが、彼はウワサには聞いてはいたが、この近くにあるもう一つの秘境に立ち入ろうとはしなかった。それはやはり純日本風の温泉宿とは程遠い、別の意味での秘境に対してなぜか興味を示さないのは、

「俺の作品がブレてしまう」

 と考えているからなのかも知れない。

 それほど、もう一つの秘境は、純日本風の佇まいとは正反対なのだろう。

 その滝の勢いというのは、結構なもので、音が聞こえにくいなどというのはまだしも、近くまでいくと、その風で吸い寄せられそうになり、チューリップハッとなどを被っていたりすれば、いきなり吹いてきた突風により、あっという間に濁流に流されることになるだろう。

 人間が覗き込んだりしていると、風の勢いで巻き込まれるのではないかと思うほどで、じっと流れ落ちる水を見ていると、普通であれば目が回って、気絶しかねないだろう。そのまま滝つぼに飲まれてしまうのではないかという恐怖が、初めて見る人には必ず襲ってくるはずだった。

 一応は人が乗り越えることのないように、安全のための策は施してあるのだが。それでも恐怖に駆られるのは誰でも同じで、まだ崖っぷちまでかなりあるところでも水しぶきが襲ってくるくらいなので、かなりの勢いなのは分かるだろう。

「これなら、自殺者が訪れるのも分かるというものだ」

 と、誰もが感じ、滝の奥にある祠がその供養のために建てられたというのを聞くと、皆その祠に自然と手を合わせるのだった。

 だが、恐ろしいのはその場所だけで、ちょっと離れたところから森に入ると、そこには生い茂った木々の間から、光が差してきて、プリズムの光のように、七色に感じられる日もある。それはきっとその横の滝の勢いが影響しているのかも知れない。かすかにだが、打ち付ける水の音が、聞こえてくるのだった。

 そんな温泉宿を掠めるように通っている国道を抜けると、その向こうにT字路になった三差路がある。そこを左に曲がって少し行くと、左河合入る道があるのだが、今では標識が出ているが、以前は標識もなかったので、誤っていきすぎてしまうことも結構あったという。

 そもそもこんなところで曲がる人はそんなにもいないので、標識を作るという時も賛否両論あった。しかし、観光地としてのホテルは、このあたりでは利益を出していて、街の産業からもいろいろ仕入れてくれるお得意様でもあった。

 ホテル自身も繁盛しているようで、行政としては、これをつぶす手はないということで、このホテルに対しての待遇は、他の観光地と比較しても決して引けを取るものだはなかった。

 ここのホテルの近くには高級別荘が結構あり、別荘に訪問してくる客が泊まることが多い、つまりは富豪のお客さまなのだ。温泉旅館の裏にそんな豪邸のような別荘やホテルがあるなど、知っている人は少ない。なぜなら一般の市民には、まったく立ちとることのない場所だからだ。

 表の温泉旅館は、秘境として一部の人間には有名で、実際に訪問客も多い、当時や静養には持って来いで、何も隠すことはない。

 だが、裏のエリアは高級住宅に属するもので、政治家の偉い先生や、大学教授などがひそかにやってくるところである。一般的に有名な避暑地などとはわけが違う。

 そのため、田舎によくありがちの暴走族やヤンキー連中の騒音から隔絶された場所でなければいけない。普通の人が立ち入らない場所というだけで安心していてはいけない場所だった。

 そのことが標識をつけるかどうかで揉めた理由でもあった。

「せっかくの静かなところに標識なんかつけたら、それこそ暴走族の巣窟になってしまうんじゃないか?」

 という意見もあれば、

「あれだけ拾い場所なので、いろいろ悪事に使われる可能性がないとは言えない」

 という意見もあって、標識を付けないという方の意見が多かった。

 しかし、

「だったら、地名だけにすればいいじゃないか」

 ということになった。

 どうせ道は荒れ果てているので、あんな場所にわざわざ入り込むことはないだろうという意見だったのだ。

 しかも、昔の名残か、白い骨組みだけの気の扉がつぃていた。真ん中のスカスカの部分はバッテンになっていて、まるで戦時中の窓ガラスに貼られた白いテープのようだった。

 それを見て、ここが昔別荘地だったが、今は使われていないと普通なら判断するだろうという意見があった。

 確かにその通りだった。とりあえず、地名だけを書いた標識を出しておいて、他はそのままにすることに決まった。

 それがよかったのか、騒音が奥に響くことはなく、実際にその奥に入り込むなどという殊勝な人は現れなかった。本当に用事のある人しか立ち入ることのないその場所は、外界とは隔絶された場所に思えた。

 この標識には、

「小暮村」

 と書かれていた。

 市町村をよく知っている人なら、このあたりに村などないことは分かるのだろうが、昔からの小暮村という地名がこの場所ではまだ生きているのだった。

 だが、この舗装もされていない、普通なら見逃してしまうような道なき道を通って行ったところには、村などというにはあまりにも豪華な場所があるなど、本当に一部の人しか知られていない。

 雨が降れば道は一気にドロドロとなり、車は泥だらけになってしまう。しかも雨が降っていない乾いた空気の中では、地面は今度は固くなりすぎて、走っているとガタガタと酔いを誘うくらいであった。

 だが、舗装されていない部分は入ってからの数十メートルくらいで、途中の木々が生い茂っているあたりからは、舗装が施されている。もちろん、それは道路を走っている連中からは確認できないように計算した位置から舗装されているのであった。

「まるで秘密基地のようだな」

 子供であれば、こんな場所を喜ぶのではないだろうか。

 大人でも冒険心が旺盛な人はいる。特に富豪と呼ばれる人たちは他の人たちと感性が違うのか、結構子供心を持った人も多いという。結構この仕掛けを楽しんでいる人も多いのではないだろうか。

 それでも最初に入ってくるところは耐えがたいようで、雨が降っても降らなくても、ここは誰もが苛立つ場所であった。

 だが、ここのホテルの送迎バスは改造されていて、四輪駆動で作られているので、少々のガタガタ道は大丈夫だ。雨の日も大丈夫なように、タイヤも特殊なものに変えられている。

 森からの一本道は、少し曲がりくねっていて、これも計算された仕掛けになっていた。そのおかげで森の厚みよりも実際に走る距離が遠く感じられ、奥深さを実感させられる。これも外界との遮断を希望する人たちにとってはありがたい演出で、彼らとしては、至れり尽くせりの感覚だった。

 奥までいくと、そこは森のトンネルを抜けた別世界が広がっていた。中央には大きな池が広がっていて、向こう岸がかろうじて見えるくらいだった。実際に奥の正面に大きな西洋のお城のようなホテルがあるのだが、湖を見た瞬間、

「あんなところにまるで模型のような建物がある」

 という印象しかない。

 それほど湖は大きくて、静かだった。

 ここまで来ると、雨でも降っていない限り、天気が悪くなるということはない。風もほとんどなく、湖面はまるで指紋のような細かい線が無数に流れていた。それが繊細であればあるほど無風であるということを示していた。

 この土地に別荘を持っている人たちは見慣れた光景であるが、それでもここまで来ると、一度は車から降りて、湖面を眺めようという人がほとんどのようだ。そのためか、ここに出てくるとすぐのところに駐車場があり、そこから眺める光景が絶景だったりする。これも計算されているところから、実に区画が行き届いているのだった。

 別荘は山の中腹に点在している。隣の別荘まで歩いていくのは無理なくらいに離れていて、森から出たところからは、森の木々が邪魔をして見ることができない。

 ここから見えるのは、目の前の西洋館のようなホテルであり、そこまでは車でも結構走らなければいけないほどの遠さがあった。

 かすかにしか見えないほど遠いのだが、実際にはさらに遠い。端っても走ってもホテルがその大きさを変えないというところであり、精神的に慣れてくると、いつの間にか到着しているという錯覚を感じさせる、そんな変わった場所でもあった。

 すべてが計算されているかのように思えるこの場所であったが、それも自然が育む天然の計算がなせる業だった。だからこそ、富豪の人たちがこの場所を別荘地に選んだのだし、かつての伯爵、子爵などの華族様がただの世襲による待遇だけでのし上がったわけではないということが分かるようだ。このあたりに別荘が最初にできたのは明治時代というから、当時の元勲と呼ばれる人たちが密かに開拓したのだろう。

 戦争でもこのあたりは被害に遭うことはなかった。しかも、自給自足にも適している場所だったので、家族制度が崩壊し、没落した華族が多い中で、隠居してこのあたりに疎開のような形で住んでいた人は、戦後の混乱も何とか乗り切り、没落を免れて、生き残ったごく少ない人たちだった。

 この場所が極秘にされたのも、その影響があった。このことが占領軍や政府に知れてしまうと、このあたりの行政は立ち行かなくなるだろう。行政、それからこのあたりの住民そして華族の連中と、ここを隠すことがすべての人間のためになったのである。

 その頃の名残がどうしても残っていることで、現代でもここを知る人は少ないのだ。昔からこのあたりに住んでいる人は知っているかも知れないが、時代の流れとともに、若い連中は、高校卒業とともに、都会に出ていく人がほとんどなので、年配の人しかここの存在を知らなかった。

 小暮村には、都会で暮らしていて、時期にだけこの別荘を使う人もいれば、ずっとここに永住して、ここに根を生やしている人もいる。そんな人たちには自治体からお金が出ていた。これは使途不明金ではなく、ちゃんと国にも申請しているもので、いかに成立させているのか分からないが、非合法では決してなかった。

 戦後の政治に対して彼らの影響力があったというウワサが一時期あったが、あくまでウワサとして根拠のないこととして語り継がれてきたが、それが本当のことだったのではないかと言える数少ない証拠の一つと言えよう。

 ここに永住している人たちがいるから、たまにしか来ない人たちの別荘が綺麗に保たれている。つまりここで彼らの生業は、

「この村の管理、運営」

 ということになるであろうか。

 中にはホテルの従業員もいたり、自給自足のための農業や牧畜などを生業にしている人もいる。

 この街の治安は、ほぼ安全の中に成り立っていると言ってもいいだろう。地図上は街の一部となっているため、行政区画としての「小暮村」というものは存在しない。それだけにこのエリアに交番などの警察組織を置くわけにはいかず、非公式で警察組織の下部組織と言ってもいい、昔で言えば、

「村の青年団」

 と呼ばれる人たちが非常勤で存在した。

 それは警察に限らず消防においても同じである。消防車などの特殊車両は、このエリアに別荘を持っている人たちがお金を出し合って、街が買い入れる消防車を回してもらっていたりした。

 ここは一種の出張所のような形で運営されている。交番や消防署などは、届け出が県に必要だったりするが、出張所ではそれぞれの市町村の権限で作ることができる。現在の法律ではそのようになっているので、それを利用して、村は村で独自に治安の防衛に従事していた。

 ある程度自由ではあるが、国家権力が入り込めない特殊な場所だけに、治安の維持には神経を使う。なるべく他の地域から人の流入を抑えているのもそのためだった。

 どちらかというと煩わしさが表に出ていて、治安を含めた運営の維持には神経を使うことで、

「この村を廃止しよう」

 という声が上がったのも事実だった。

 だが、前町長がどうしてもここの存在意義を唱えて譲らなかったことで、何度も空転を繰り返しながら、結局この場所の存続が決まった。町議会からもこの村の正式な運営が委託され、このエリアに永住している人に、町議会所属になるか、それともあくまでも富豪の会社から雇われた形にするかの選択自由は与えられたが、その選択は半々だった。

 企業に属している方が給料の面などが優遇される反面、町議会であれば、公務員ではなくとも、公務員に限りなく近い権限を与えられるので、安定という意味で、町議会を選ぶ人もいた。

 だが、公務員に限りなく近いということは、それだけ厳格で自由を縛られるという制約もあったりする。この選択も難しいものだった。

 ただやることはどちらでも一緒で、公務の人と、会社から雇われた会社員とが見分けがつかず、やっていることは同じだというややこしい体制になっていた。

 そのうちに、会社が直接雇用する形ではなく、その間に特殊法人を作って、そこに運営を委託するという案が示され、最近やっと、そのややこしさから脱却できたのである。

 そのおかげで、さらに秘密性が強化され、下手をすれば、町議会に所属している人でも、この村のことを知らないという人もいる事態に陥った。町議会からも、

「忘れられた存在」

 になりつつあるこの場所は、この場所に別荘を持つ人以外からも忘れられるという状況になってきた。

 それでも、別荘を売りに出すような人はおらず、ホテルを利用する人も後を絶えないので、十分にその存在価値はあった。

 忘れ去られるくらいで済んでいれば、それだけでもマシなのかも知れない。そういう言い出は世知辛い俗世からいよいよ切り離された、本当の意味でのリゾートとしてこの村の本来の役目が確立してきたということなのだろう。

 この場所に立ち入る人、皆が安心してゆっくりできる場所がやっとできたと言えるのではないだろうか。

 そんな神秘的で閉鎖的な村を、秘密主義で覆い隠すことで、成り立っているというのは、どこか矛盾しているようだが、そんな村で何が起こっても他の世界は何も関係なく過ぎて行くのだった。

 その村に一人の男が現れたのは、今から一週間ほど前のことだった。

 その男はローカル線に揺られて、どこかの都会から来たようだが、どこから来たのかは身なりを見る限りでは分からなかった。彼は大きなアタッシュケースによれよれのワイシャツを着て、紳士というには程遠い感じで、それほど晴れ上がった日々でもないのにサングラスを掛け、それは日よけのためではなく、あくまでも人相が分からないようにするためではないかと思わせる分、まわりに対して気持ち悪さを漂わせていた。

 と言っても、実際に電車の中に人はほとんどおらず、特に途中の駅からは一気に人が減ってしまったことで、二両連結の列車に数人しか乗っていないという感じであった。

 昼間の時間なので、こんなものかとは思ったが、別にこの先、住宅街や会社の工場などがあるわけではないので、朝夕のいわゆるラッシュの時間だからと言って、人がたくさんいるとは思えなかった。

 彼が降りた駅は終着駅で、温泉宿目的の客しかいないと思われていたが、雰囲気として温泉宿に向かうようには見えなかった。それ以外の客は温泉湯治の客が多かったようで、表の送迎バスにゾロゾロと乗り込んでいった。彼らは常連客のようで、バスがどこに停車しているのも分かっているのか、何も考えることもなく、キョロキョロすることもなく、黙ってバスに乗り込んでいく。

 その見慣れない乗客は駅を降りてから温泉宿の送迎バスの方に向かうことはなかった。この人もキョロキョロと初めての場所に戸惑っているわけではなかったので、目的地が違うのは分かった。

 では、この駅で降りてアタッシュケースなどを持った洋装の男性が行くところと言えば、もう小暮村のホテル以外には考えられないだろう。

 確かに、この日珍しく、最近ではあまり見かけることのなかったホテルの送迎が駅にいるのを目ざとい人には気づかれていた。

 ホテルの宿泊客は少なくはないが、送迎が駅に来ることは珍しかった。ほとんどの人が車での来客だったので、送迎は駅で待機する必要がなかったのだ。

 男はホテル送迎のバスに乗り込んだ。もちろん、他に乗客はおらず、

「すみません。私は鎌倉光明(みつっき)というものです。お聞きになっておられるとは思いますが」

 と言って、送迎バスに乗り込んだ。

「はい、伺っております。鎌倉様ですね。長旅お疲れ様でした。どうぞ、おかばんはこちらに

 と言って、促してくれた場所にカバンを置いた。

 そもそも他に客もいないので、促されることもなく、適当に置けばよかったのだが、せっかく勧めてきれたのだから、その場所に置いた。どうやら鎌倉というこの不気味な男は律義な性格のようだ。

 バスは、自動扉を閉めて、そのまま出発した。温泉旅館への送迎バスもすでに発車したようで、最初の場所にはもうすでにいなかった。

 温泉宿に向かうバスも途中までは同じルートのはずである。なぜなら道としては少し遠回りになるが、実際には背中合わせの場所で、直線距離にすれば、すぐそばにあるのだ。車がほとんどいないので、信号にでも引っかかれば、追いつくことはさほど難しいことではなかろう。

 果たして、温泉宿行きのバスにおいついたホテル送迎バスだったが、向こうは三四人の客が乗っていて、結構会話が弾んでいるようだ。その中に一人、見たことのある人が乗っていた。それは編集者の人で、彼がなぜ車でこなかったのかは分からないが、おそらくであるが、

「車があまり好きではない作家が来ているのではないか」

 という疑問が鎌倉の中にあった。

 そしてその車が苦手な作家というとすぐに頭に浮かんだのが古舘晋作だった。

 古舘晋作は、幼少期に交通事故に遭い、さらに同じ時期に大きな事故を目撃して、そのシーンがトラウマとして残ったことで有名な人だった。

 彼の作風は皮肉なことにその頃から確立されたと言ってもいい。作風には一種独特なところがあり、車社会に対しての徹底した嫌悪が隠れていた。いつも嫌悪系の作品というわけではないが、

「作品を見ただけで、古舘晋作の作品だということはすぐに分かる」

 と言われるほど、彼の作品には特徴と、人にはマネのできない独特の文章作法があったのだ。

 どこか、昭和の匂いを感じさせ、古臭さを感じるその文章作法に、昔からの固定ファンが多いのも事実だった。

 一つ不思議なことがあったのだが、

「確か、あの編集者の人、さっきの電車に乗ってたっけ?」

 というものであった。

 途中までは確かに人も多かったが、ある駅を過ぎると人が極端に減って、二両編成に数人しか乗っていなかったはずだ。しかも、この駅は終着駅なので、一番先頭に乗った自分は改札口を超えてから、送迎バスを探している時、反対側に止まっている温泉旅館行きのバスに乗る人を目で追っていたはずなので、見逃すはずはないと思った。さらに、バスが進行中という見えにくい状況で確認できる相手を、バスに乗り込むところを見なかったというのも合点がいかない。

 別に視線を逸らしたわけでもない。ほんの二三秒くらいは視線を切ったかも知れないがそれだけで見逃したなど考えられない。

「まるでキツネにつままれたみたいだな」

 と感じた。

 その不気味な感覚は身震いをさせるものであったが、普段ならすぐに別のことを考えるであろう。しかし、その日見た光景は何か末恐ろしさすら感じ、嫌な予感を挑発しているようで気持ち悪さがしばらく残っていた。

 ただ、編集者が電車に乗っていなかったかも知れないということは、すぐに意識から外れて、記憶の方に移動したようだった。

 そういえば、こんな経験は今度が初めてではなかった。

 確かあれは、中学の修学旅行の時だったろうか。修学旅行シーズンだということもあり、観光地にはいろいろな学校からの修学旅行のバスが駐車場に止まっていた。偶然、自分の学校の近隣の中学校のバスが止まっていたことがあり、小学校時代の友達にバッタリ会ったという偶然が重なったことがあった。

「やあ、こんなところで会うなんて、腐れ縁じゃないか?」

 などと、お互いに皮肉を言って苦笑いをしたものだったが、時間的にすれ違いだったので、ゆっくり話ができるわけではなかった。

 これも偶然と言えば偶然だが、進学した学校が同じで、入学早々話になった時、

「あの修学旅行の時、偶然だったとはいえ、よく再会できたよな。しかも今度は高校で再会なんて、あの時に言ったように、本当に腐れ縁だ」

 と言って声を掛けたが、彼はキョトンとして、笑ってもいなかった。あの時に苦笑いを見た時も、

――何か変だ――

 と思ったが、あの時はあまり意識しなかった。

 しかし、今回の彼のキョトンとした表情は明らかにおかしなもので、

「どうしたんだい?」

 と聞くと、我に返ったかのように、

「それ、人違いじゃないか?」

 と訳の分からないことをいう。

「何言ってるんだよ。俺が腐れ縁だって言ったのを忘れたのかい? それとも失礼なことを言ってしまったので、怒ってるのかな?」

 というと、

「いやいや、そんなことで怒る俺じゃない。それくらいお前も分かっているだろう。俺が勘違いだと言っているのは、もっと根本的なところなんだ」

 話がどうも噛み合っていない。

「えっ? どういうことだ?」

「だって、俺中学の修学旅行では体調を崩して行っていないんだ」

 というではないか。

「じゃあ、あの時、清水寺で会ったのは?」

 と聞くと、

「うちの中学は、修学旅行で京都になんか行っていないぞ。山陽道の岡山、広島、山口のコースだったんだ」

 というではないか。

 京都と山陽道ではかなり離れている。これはどういうことなのか? まるで夢でも見ていたのかも知れない。言われてみれば、すでに記憶の奥に封印された彼を見たという思い出は、今思い出そうとしても、白いベールに包まれたようだった。実際に時間もそれなりに経っているので当然と言えば当然だが、本当にキツネにつままれたような話であった。

 もし、これがもっとインパクトのある記憶だったら、彼に対してもう少し食い下がっただろうが、彼の表情があまりにも無表情で、ウソを言っているようには思えなかった。

――無表情な人間が、これほどウソを言っていないと感じるなんて、思ったこともなかった――

 と感じた。

 ただ、小学校の頃、いつもグループの中心にいるようなやつだったはずなのに、高校に入学してくると、まるで別人のようだった。

「何を考えているのか分からない」

 と、彼を始めて知ったクラスメイトは、そう感じていた。

 それも無理のないことで、いつも表情を変えることがなく、一人でいることが多かったからだ。

 授業を受けていても、窓の外ばかり見ていた、天気がいい日でも雨の日でも、いつも空を見ている。彼と話をしたことがないという人がほとんどだっただろう。小学生時代に仲の良かった自分にさえ、余計なことは一切言わず、必要最小限の会話しかしたことがなかったくらいだ。

――中学三年間に一体彼に何があったんだ――

 と思わせた。

 中学時代というと、普通であれば思春期であり、小学生を知っていて、高校生になって再会したのであれば、子供からいきなり大人になった相手と再会した気分になることであろう。それは成長過程を知らないということであり、三年という期間ではあるが、もっと長い間知らなかったと思えるかも知れない。

 そういう意味では、彼もその友達から見れば、急に大人になったという印象を与えていることだろう。

 その時彼は思った。

――本人は自分が成長したと思っていないので、それを隠すために、人に自分を悟られまいとして、さらに必要以上に自分を意識させまいとする気持ちが強く働いて、無表情になったり、敢えて、隅の方にいようという無意識なのか、そんな気持ちが働いているのでhないだろうか――

 という思いである。

 そう思うと一応の納得が行く。青春時代には、そんな感覚を持つこともあるだろう。特に彼は自分のことを小学生の頃からよく把握しているように見えたからだ。そうでもなければ子供世界と言えども、グループの中心は張れないだろう。

 いや、子供時代だからこそなおさらではないか。これから成長するであろう人もいれば、もう大人になりかかったいる人もいるという雑多な人間関係の中でのことなのだから、それを束ねるというのは結構難しいものではないだろうか。

 いつの間にか、彼は頭の中が高校時代に戻った気がした。高校時代に戻って、そこから小学生の頃の子供を想像している。何と不可思議な感覚であろうか。これがどういう感覚なのか。

 そもそも、過去のことをよく思い出したり、過去に戻りたいという意識があったのかどうか疑問な感じがするが、もし、戻りたいという感覚がどういうものなのか、小説を書く上で前に調べたことがあった。

 そこには五つほど理由が管変えられると言われていたような気がする。まず一つは、

「辛い現実を受け入れられない」

 というものだ。

 これは、当てはまらない。もし辛い現実があるとすれば、締め切りに追われるというくらいであろうか。しかしそれも、達成した時の喜びがひとしおなので、そこまで逃避するほどのことではないと思えた。第二の、

「現代に対して不満を持っている」

 というのも違っている。第一の原因との違いは。この現代というのが、自分だけではなく、社会一般をさしているということである。第三には、

「うまく行った過去の自分を羨ましく思う」

 これも違う。

 彼は、自分の過去から成長を普通に右肩上がりの時系列で考えていた。そこに違和感がないことを思うと、自分で納得しているということだ。つまりは、過去よりも今の方がよくなっているということに疑問を感じていないのだ。だから、過去を羨ましく思ったり、子供の頃に戻りたいなどという意識は持ったこともなかった。そういう意味で、第四の、

「過去を後悔しており、やり直したいと思っている」

 というのも、本末転倒な発想だった。第五は、

「劇な身体の尊さに気付いた」

 というものだが、まだそこまで老化など感じたこともないので、これも違う気がした。

 では、理由はないように思える。それなのに、小説の構想を練る時は、なぜか子供の頃であったり、高校、大学時代の発想が大きく頭をもたげるのだ。

 今から思えば、高校生になった頃の意識に戻って、さらにその意識が小学生という子供時代を見ているというおかしな感覚になっていたことが何か原因の一角を示しているような気がして仕方がない。

 だが、今回そのことを思い出したのには何か意味があるような気がして仕方がなかった。作家として、普段からネタ帳なるものをいつもカバンにしたためている鎌倉だったが、この時の印象をネタ帳にしたためた。特に、自分が過去に戻った感覚の中で、さらに過去を思っている自分という発想のことである。

「これは、今後の執筆に何か使えそうだ」

 と考えたのだ。

 鎌倉光明という小説家は、それほど有名な作家ではない。元々は雑誌社の文化部で記事を書いていたが、元々小説家志望だったこともあって、心機一転会社を辞めて執筆を始めることにした。

 編集長が、自分の記事を褒めてくれて、

「お前文才があるじゃないか」

 という一言から、次第に自分の中でその言葉が現実味を帯びてきて、気が付けばいても経ってもいられなくなっていたということである。

 完全に視界が狭くなって、小説家になっている自分しか将来が見えなくなったことが原因であるが、今から思えば、

「早まった」

 と思わなかったと言えばウソになるだろう。

 だが、思い立って行動を起こした時、衝動に任せた方が結果がよかったというのが、彼の今までの人生で多かった気がする。

「考えたって一緒だ」

 という思いが常に彼の頭の中にはあった。

 何かを考えても、真剣に考えれば考えるほど、結局また同じところに戻ってくる。その考えには分岐点がなぜかない。何かに悩む場合、必ずいくつかの選択肢があり、選択するための分岐点があるはずなのに、

「選択しないといけない」

 と思えば思うほど、選択肢が見つからず、また同じところに戻ってきているのだ。

 そのうちに余計なことを考えないようになり、それが結論を導いてくれる。

 その時に感じるのが、

「俺は、真剣に考えることができない人間なのかも知れない」

 ということだった。

 親権に考えることができないという思いが嵩じて、

「真剣に考えてはいけない」

 という思いに至るという発想に至るのだった。

 実際に選択肢を探す考えが頭にある時、自分が真剣に考えているのか疑問に思うからだった。

「真剣に考えたって、しょせんまた同じところに戻ってくるんだから、考えるだけ無駄なことだ」

 と訴えている自分もいるが、だが、

「考えないと、後で後悔することになる」

 と訴える自分もいるのも事実で、そんな二人の間に入ってジレンマに陥ってる自分が何者なのかと考えてしまうこともあった。

 ただ、これも小説の発想としては使えるもので、この時に感じた「後悔」というものが、実は小説のネタをみすみす逃すことになるのを防ぐという意味での後悔ではないかと思うようになった。

 つまり真剣に考えているのは考えているが、その目的が違っていることで、考えの基本が違っていても、違っていないと思い込まないといけないという自分の中の錯誤がジレンマとして意識の中に残っているから、まるで真剣に考えていないように思えるのかも知れない。

 そのあたりが自分の考えを袋小路に追いこみ、堂々抉りを繰り返させる原因になっているのだろう。

 堂々巡りという考えはいつも頭の中にある。

 彼の小説は、普通のジャンルと違って、一つの枠に当て嵌められないところがあった。彼とすれば、

「深層心理を抉るような、知的な作品」

 を目指している。

 だからと言って、すべてが彼のオリジナルで、決してドキュメントのようなノンフィクションではない。それは彼自身が自分を許せないという思いに至らしめるものであり、彼が小説家になりたいち思ったゆえんでもあるだろう。

 そんなことを考えているうちに、送迎バスは森に差し掛かっていた。時間としては夕方近くになっていて、西日が眩しかったので、法学としては西を向いている方向に座っていたのだろう。木々をよく見ると風に靡いている感じがしない。夕方近くであることから、無意識に彼は夕凪を感じたのかも知れない。

 彼にはそんな繊細なところがあった。無意識に自然というものを身体が感じるというべきだろうか。そこが彼にとっての感性であり、小説家を目指したことを間違っていないと思わせる証にもなっていた。

「駅からどれくらいの時間が掛かったのだろう?」

 と思い時計を見ると、電車の到着時間から似十分ほどであった。

 駅を降りてバスに乗り込み発射するまでの時間を考えると、走行時間とすれば十五分も経っていないことになる。その間にいろいろ考えを巡らし、目の前の風景はまったく変わってしまったことを思えば、十五分というのは、想像以上に短いものであった。

 気が付けば目の前を走行していたバスはいなくなっていて、考え事をしている間に、目の前には見えていたにも関わらず、意識の外に置いたことで、温泉宿の方に曲がっていったということを失念していたのだろう。

 今までにも何度もあったことだけに、それほど気にはならなかったが、目の前で繰り広げたことをまったく失念していたという事実をいつになく感嘆として考える自分が不思議な感じがした。

 だが、実際には先にわき道に入り込むのはこのバスのはずなので、バスがいないということはそれだけ引き離されたということであり、途中の信号にでも引っかかったタイミングでも悪かったのだろうが、まったくそのことをその時に意識しなかった自分を後で考えると変な気分にさせた。

 バスは標識を曲がり、道なき道を入り込んだが、すぐにアスファルトのある道に差し掛かり、少しカーブしたかと思うと、一気に開けた湖畔に出たのだった。

「あれ?」

 鎌倉は標識から曲がって湖畔に辿り着くまでの短い間、違和感に襲われていることに気が付いた。

 その違和感というのは、

「初めてきたはずなのに」

 というものであった。

 初めてきたはずのこの場所で、今通ってきた道が自分の記憶の中に残っているのを感じた。まだ封印されているわけではないので、かなり浅いところにあった。つまりは、ごく最近に意識したことだということを示していたのだ。

 鎌倉は、ここにやってきたのは、新たな作品を考えようと思い、気分転換を兼ねてのことだった。彼は作品を完成させると、次作に取り掛かるまでに結構時間のかかる方だと思っていた。他の作家をよく知らないというのもあったが、作家によっては、一つを発表しても間髪入れずにまた別で連載したり、同時に複数の連載を抱えていたりする人もいるようだが、

「俺には決してマネのできることではない」

 と思っていた。

 一つのことに集中すると、他が見えなくなるというのもあるが、そもそも小説を書くということは、自分の想像力や妄想に対しての挑戦だと思っている。書いている間は完全に自分だけの時間で、妄想はとどまるところを知らない。つまりは、小説を書くということは、いかに妄想の中に自分を置くことができるかということに掛かっている。それがなければ自分が架空の話を書くことなどできるはずがないと思っている。この発想はきっと俳優などにも言えるのではないか。まったく自分と違った人になりきるのだから、妄想の中に身を置かなければできないことで、それに一番必要なものは、集中力だということではないかと思っている。

 だから、鎌倉は意識というものと記憶というものを別の観点から考えている。意識があって記憶に封印されるのである。記憶と意識、同じ時に考えることのできないものだという発想である。

 過去の記憶を思い出して、小説のネタにするには、記憶から一度意識という箱に移してから集中力を最高に高めて、意識するというプロセスが必要である。

 ここで意識という言葉が二つ出てきたが、この二つの意識は決して同じものではない。

「意識の中で意識する」

 というまるで禅問答のような言い方になってしまうが、それは意識に集中するという集中力を持った時に、おのずと分かってくることではないかと思う。口で言い表すことは難しいが、どうすればその感覚になれるかということくらいは、口で説明することもできるだろう。

「少し、バスを止めてくれませんか?」

 と運転手に言うと、

「どうしたんですか?」

「少しだけこの場所で降りてみたいんですが」

「ええ、構いませんよ」

 と、普段からこういう客もいるのか、それとも別に意識がないのか、彼は表情一つ変えずに湖畔にバスを止めて、鎌倉のいうとおりにした。

 鎌倉はその場でバスを降り、表に出た。少し歩いて湖畔から全体を見渡す。目の前には遠くにホテルが見えた。そのまわりを小高い山が連山となって、湖を取り囲んでいるように見える。その山肌はほとんど標高が変わらず、ほぼ水平線に平行に流れているように見えた。若干のでこぼこはあるが、そこに違和感は一切なかった。日が差しているにも関わらず緑が深く感じられ、空の色と湖の色が青であるにも関わらず、さらに深さを感じさせたことに矛盾を感じた。

 水平線はやはり風を感じさせるものはなく、それを見ていると、

「やはり、以前にもこの光景を見た気がする」

 と、自分の気のせいでないことを再度感じていた。

 ただ、一つ気になるのは、その時自分が一人ではなかったような気がして仕方のないことだった。

「誰か同行者があったのだろうか?」

 という思いだったが、一緒にいた人は、自分の右側にその気配を感じる。

 そう思うと、鎌倉は初めて違和感を抱いた。それは自分の性格上の矛盾というべきなのだろうが、よくその場面でその矛盾に気が付いたものだと感じたのもどこか変な気がしていた。

 というのも、鎌倉は昔から誰かと二人きりになる時というのは、まず右側にその人を伴わせるということはしない。性格的というか、性質的と言ってもいいだろう。無性に嫌なことは性格的に拒否するというより性質的に拒否をする。まるで本能に誘われたという感覚である。

 相手が女性であればなおさらのこと、いくら相手が自分の右に回ろうとしても、必死でそれを避けようとする。

「もし、相手がそれを嫌だと言えば?」

 と聞かれると、

「その人を避けるまでだ」

 と答えるだろう。

「どんなに好きな人でも?」

「この気持ちに変わりはない」

 それほど、本能からの行動は自分に正直である証拠であり、抗うことのできないものなのだろう。

 その時一緒にいたのが彼女なのかどうか分からないが、鎌倉は自分の右側に誰かがいたという感覚を容認できなかった。左側に誰も感じないのだから、二人きりだったことに間違いはない。それなのに、この感覚は何なのだろう? 今まで感じたことのない感覚を、虚空に求めたとでもいうのだろうか。

 そんなことはありえない。そう思うと鎌倉は別の発想を思い浮かべた。

「今俺が感じているこの感覚は果たして俺の感じていた感覚なのだろうか?」

 というものである。

 つまり、隣に感じたその人こそが自分であり、今感じている思いは自分以外の同行者の感覚ということになる。

 それは、自分の掌を目の前で重ねて、左右の掌の温度の違いを各々の手で感じているというような感覚に似ている。

 つまり、片方では自分の方が熱いので相手の冷たさを感じていて、もう片方では自分の方が冷たいので、相手の熱さを感じている。どちらも自分の手なのだから、脳に伝わった二つの相入れない感覚は混乱をきたすに決まっている。

 両方の正反対の感覚を掌だという同じではあるが、左右で違った感触にどのように対応すればいいのか頭では分かっている気がする。

「交互に感じればいいんだ」

 とは思うが、その時、

「頭で思っていることと、現実とでは違う」

 ということを、身をもって思い知らされた気がした。

 ちょうどそれと同じ感覚を、隣に自分という幻を感じながら、不思議な感覚に委ねなければいけない自分の正体を感じていた。

「自分がその相手になっているのだから、一緒に来た相手を認識することなどできるはずはない」

 という思いに駆られた。

 誰かと一緒に来たということを覚えているが、誰ときたのかを思い出せないという感覚はこういうことなのかも知れない。そこには罪悪感や自己嫌悪が含まれているかも知れないが、少なくとも自分を納得させることにはなるだろう。

 自分がなぜ右側に人を寄せ付けないのかというと、これは他の人が聞けばあまりにも愚かで、滑稽な話である。まるで都市伝説、いや、それ以下のことに、聞いた瞬間、失笑と言葉を失うかも知れない。もし聞いたのが自分であっても、一瞬自分のことを棚に上げて笑い出すかも知れない。

 それほど愚かで情けないことなのだが、まず前提として自分は右利きである。そして右利きであるがゆえに、女性と一緒にいて腕を組んでもらうとすれば彼女は必ず左側になる。利き腕である右手が自由になるからだ。さらにベッドの中ではどうであろう。腕枕をする際も左の腕を枕にするのではないだろうか。

 ただ、本当の理由はそれだけではなかった。鎌倉はいつの頃からか、たぶん十歳に満たない頃に遭遇した交通事故に由来していると思っている。友達と公園でボール遊びをしていて、それを受けそこない。ボールは横の道路に……。ボールに全神経が行っていたので、車は思わず道路に飛び出してしまったというわけだ。

「どうやら、頭も打っていますね。でもレントゲンやCTなどによる精密検査でも異常は見られませんでしたので大丈夫のようです。一か月ほど念のために通院はしてください」

 と親に話しているのを聞いた。

 どうやら頭から突っ込むという無謀なことをやってのけたようだ。

「死ななかっただけでも、本当ならよかったと思わなければいけないくらいだそうよ」

 と母親が父親に話しているのを聞いたくらいで、その場はその時、かなり騒然となったことであろう。

 そんな状況であったことなどまったく知らなかった。それでも医者の言った一か月後までに精神的な異常や、それを予想させる異変も起きなかった。両親はホッとしたことであろう。

 ただ一つ気になるのは、首が少しずつ曲がってきているということであった。自分から見ると右側に傾いている感じである。ただ、これが精神的なことに影響することはなかった。

 一応両親も気になって、整形外科に通って、コルセット治療を施してみたが、どうにも癖になってしまったようで、功を奏することはなかった。首が右に若干傾いているということで、その頃から、自分の右側に誰かがいるということを苦手とするようになった。別に首が曲がらず見えないわけではない。首が傾いていることで、普通に生活する分には何ら問題はなかった。

 しかし、スポーツをする際には大いに障害となり、左右で同じ動きをしない競技(つまりほとんどの競技に対してであるが)に関してはなかなかうまく行かない。したがってスポーツクラブへの入部は断念することになった。

 それでも今のところ、それが災いすることがなかったのは幸いであり、スポーツというものがどのようなものかというのを実感できなかったというだけのことである。

 それにしても癖というのは厄介なもので、無理してでも首を元に戻そうとすると、コルセットなどをしていても、次第に身体が拒否反応を示すようになり、そのため、次第に身体がこわってきてしまい、頭痛などの弊害を引き起こし、矯正どころではなくなってしまう。スポーツがうまく行かないというのも、無意識な拒否反応からの賜物であろうが、これもすべて癖になってしまったことが起因している。それが分かっていてどうしようもないのは精神的には痛々しいことであった。

 そういう事情があるので、先ほど記したような、

「愚かで情けない」

 というのは、いくら自分に対してであっても、少し気の毒ではないだろうか。

 せっかく記させてもらったが、この際なので撤回させてもらってよろしいか。読者諸君が許してくれるのであればであるが……。

 それはさておき、最初から違和感があったのだから、右側に誰かがいるとすればそれは自分でしかないと分かったのである。

 では左側はということになると、どうも女性だという意識が結構強い。そもそも鎌倉という男は、こういう綺麗な風景の場所は元から好きであった。絵を見るのも写真を見るのも好きで、よくそこに佇んでいる自分を想像し、悦に入っていたものだった。

 ただ、悦に入るのだから、隣は女性でなければいけない。実際に誰かと綺麗な景色を見たということがなかったわけではないので、その時は決まって女性だったのは言うまでもなく、それは妄想の世界と現実世界の狭間がほとんどない空間であった。だから、妄想であっても現実であっても、自分の左側は女性でしかないはずだった。

 では一体どんな女性なのか?

 残念なことに、今の時点で頭の中に浮かんでくる相手は皆無だったのだ。

 だが、それが女であるという各省のようなものは消えなかった。男だとすれば、納得のいかないことが多いからである。何に納得が行かないのかと言われると、言葉で説明するのは難しいが、心理的な矛盾という漠然とした表現を使うしかなかった。

 鎌倉は、そのまま少しだけ歩いてみた。歩くことによって、もう一人(この場合は自分なのだが)がどのように反応するのか見たかった。

 すると、もう一人の自分はそこから動こうとはしなかった。女(だと思う)だけが前に進んでいって、それを自分が後ろから眺めるという構図になっている。見つめられた女の後ろ姿が目を瞑ると瞼の裏に浮かんできそうで、その姿が思ったよりもがたいが大きな気がするのは、気のせいであろうか。

 運転手を待たせている手前、そうもゆっくりしていられない。鎌倉はそのまま踵を返してバスに乗り込んだ。もう一人の自分は、バスに乗り込んだ自分など関係ないと言った様子で、さっきと変わらず女の後ろ姿を眺めているように思えて仕方がなかった。

 バスはそのまま、湖畔沿いに走っていき、ホテル前に着いた。湖畔を走り出してからなかなか到着しないことを感じながら、気が付けばここまで来ていたというべきか。ちょうど湖が綺麗な円を描いていることで、ホテルを中心に、左右対称の大パノラマが広がっているかのように見えて、それが壮大さを演出していることが分かった。

 なかなか近づかないように見えたというのも、この大きな左右対称がもたらした錯覚なのではないだろうか。鎌倉はそれを承知しているつもりなので、自分を納得させる必要はないように思えた。

 ホテルに到着すると、ホテルマンが数人出迎えてくれた。

「いっらっしゃいませ。おカバンをお持ちいたします」

 と言って、彼の手からアタッシュケースを奪うと、思ったより重たいことに一瞬怪訝な表情を示した。それは重たさに怪訝に感じたわけではなく、大きさの割に重たいことに彼は違和感を覚えたのだ。

 鎌倉はフロントカウンターへ行き、フロント係に軽く会釈をした。

「鎌倉様ですね。お待ちしておりました。こちらにご記入ください」

 と言って、宿泊者カードを示した。

 これだけを聞くと、実に事務的に感じるが、フロント係は絶えず笑顔で、ホテルの教育が行き届いているというのはよく分かった。鎌倉は職業を何と書こうかと思ったが、せっかくなので、

「小説家」

 と書いた。

 それを見て、フロント係は一瞬こわった表情になったが、それを鎌倉は見逃さなかった。というよりも鎌倉はここにきてからホテルの人間の一挙手一同をじっと見守っていると言ってもいいだろう。

 彼は小説家だ。人間観察は今に始まったことではない。人を見ては観察を繰り返す。それが癖になってくると、小説を書く上での強力な武器になることは分かっている。彼にとって癖というのは忌まわしいものであったが、今ではその忌まわしい癖ともうまく付き合っているつもりだ、癖も慣れになってしまうと、意外と居心地がよかったりもする。そのことに気が付いたのは最近のことだった。

 部屋に案内されたが、部屋は自分が思っていたよりも広かった。一部屋だけではなく、隣にも部屋があり、そこが寝室になっていた。寝室と仕事部屋が別になっているようで、鎌倉は嬉しい気分になった。

 自宅では寝室がそのまま仕事部屋になっていて、それも実はこじんまりとして好きなのだが、どこかビジネスホテルのようで気に入らなかった。今回このホテルに赴いたのもそんなビジネスホテルのようなところが嫌だったからだ。

 このホテルは決して安いわけではない。一介の売れない小説家が泊まれるようなところではないが、このホテルが五十周年目を迎えるということで、かつてのお得意様に対してだけの特別価格で宿泊できるということだった。

 もっとも、あまりメディアへの露出が極端に少ないホテルなだけに、情報も馴染み客にしか提供されていない。鎌倉がこの情報を知り得たのは、出入りの出版社が、このホテルのお得意様になっていたからで、元々編集者社長のお気に入りだったということだ。売れない小説家ではあるが、社長とは懇意だったので、紹介していただいたという経緯によるものだった。

 快く紹介してくれた宿泊場所であるが、何か曰くがありそうな気がしているのは、何かの虫の知らせであろうか。

「確か、編集者のあの社長、何となくいつもと違ったような気がするな」

 と思ったのだが、まだその時は、よく分かっていなかったのだ。

 鎌倉は、自分でも気づかぬうちに、その渦中に入り込んでいた。その前兆がさっき湖畔で感じた、

「以前にも来たような気がする」

 という一連の感情だったのではないだろうか……。

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