第25話 暗殺者


 聡史たちが海岸で遊んでいる頃…


 伊豆のとある温泉街には観光客に紛れて東十条家の手の者が20名ほど入り込んでいる。彼らは元々陰陽師界の他の流派に潜り込んで弱みを握ったり、人間関係に無用な波風を立てて不和の原因を作り出したりと、他の家系が一枚岩になるのを阻止して東十条家に常に優位な状況を構築するための工作員として動いてきた。


 何も知らずに海水浴に来ている聡史たちだけではなくて、学院生18名全員を離れた場所から監視しながら、交互に連絡を取りつつ新たな動きがないか様子を窺っている。


 すでに聡史たちが宿泊する旅館なども突き止めており、宿泊客に扮装した人員が建物全体の造りや各部屋の間取りなどを全て調べ上げているという用意周到さ。


 古来より陰陽師というのは占いや穢れを祓う表の仕事の他に、依頼された人間に呪いを掛けたり時にはより直接的に毒を盛って殺害するなど裏の仕事を手掛けてきただけあって、このような下調べなどお手の物らしい。


 殊に東十条家はこの裏の仕事を積極的に請け負ってきた長い歴史があるので、このような監視や情報を探る人員だけでなくて実際に暗殺を実行する要員も数多く抱えている。すでにその中から選抜された腕利きのプロの陰陽師五人が別々の宿に待機しており、後は手を下すだけという段階まですべての用意を整えている。


 海水浴客と温泉を楽しむ人々で賑わう伊豆の街はこれから起きる波乱含みの展開を前にして、まだ今の段階では普段通りに静かなひっそりとした佇まいを保っている。




  



 ◇◇◇◇◇






 日が西に傾く頃、この日一日海水浴を堪能した学院生たちは海の家の更衣室で着替えを済ませて、まだまだ昼間の暑さの余韻が残る街中へと向かっていく。強い日差しで真っ黒に日焼けした男子生徒のひとりがまだまだ元気な様子で道案内を買って出て本日の宿へ。


 聡史たちが今宵一晩の軒を借りるのは、その生徒の親戚が営んでいる旅館となっている。海岸から見ると土産物店が並ぶ街中を抜けた山間に面した土地にあって、緩やかな上り坂が続く道を登っていくと次第に建物が見えてくる。


 

「元原、外に立派な旅館じゃないか」


「そうだろう。創業五〇年の歴史があって、つい最近建物を改築したばかりなんだ」


 頼朝が話しかけたのは明日香ちゃんがビーチボールで吹っ飛ばして鼻血を出した男子。その案内で宿の玄関に向かうと、宿の女将さんが居住まいを正して一行を出迎えてくれる。



「まあまあ、皆さん。ようこそお越しくださいました。私が健太の伯母です。どうぞごゆっくりくつろいでくださいね」


「「「「「お世話になります!」」」」


 人の好さそうな女将さんに案内されて部屋に向かうと、彼らのために並びで四部屋が用意されている。桜たちが一室、ブルーホライゾンの女子たちが一室、聡史を含めた男子が二つに分かれてそれぞれの部屋に荷物を置く。


 用意されたお茶を飲んでゆっくりしていると、ノックもなしに部屋のドアが開く。



「お兄様、晩ご飯まで時間がありますから、その辺を散歩しましょう」


「お兄さん、早くいきましょうよ~。スマホで調べたら、わさびソフトクリームを売っているお店があるんですよ~!」


 聡史を呼びに来たのは桜と明日香ちゃん。散歩はただの口実で、わさびソフトクリームが食べたいだけ。明日香ちゃんのレーダーは常に美味しいデザートを探している。特にご当地でしか味わえないというスマホのガイドを見てしまったら、どうにも居ても立ってもいられない様子。


 まったくしょうがないなぁ… という表情で聡史が立ち上がると、なぜか部屋にいる男子全員が立ち上がる。


 もちろん彼らの目的は同じクラスで毎日顔を合わせる桜や明日香ちゃんではない。その表情が「絶対に違う!」と雄弁に語っている。当然ながら男子一同はAクラスの高嶺の花である美鈴とカレン両名にほんの少しでもお近づきになりたい… その一心でコブシに力を込めて立ち上がっている。



「あら、なんだか大勢引き連れてきたのね。じゃあみんなで行きましょうか」


「せっかくですから、皆さんでにぎやかにお散歩しましょう」


 宿の玄関で待っている美鈴とカレンのありがたい対応を聞いて男子一同は感涙に咽んでいる。少なくとも近くにいて構わないというお許しが出たのを全員が目から汗を流して喜びあう。


 男子一同の脳内メモリーには昼間のカレンの見事な水着姿の姿態が鮮やかに蘇っている。目の前にいる悩殺天使のお姿を少しでも近くから見ていたい… もはや煩悩の塊になり果てている。揃って女子とは縁遠い男たちにとっては、近くで見ているだけでも幸せらしい。しかし彼らの胸の内を慮ると、なんだかちょっと悲しくなってくる。


 だがまだこの時点で男子一同な何も知らない。美鈴とカレンは心の中で一大決心をして夕方の散歩に臨んでいるという事実に。そしてその決心こそが男子一同の純真なハートを粉々に砕くとは…





 桜と明日香ちゃんが先頭に立って歩いているので、もちろんお目当ての店に真っ先に向かっていく。ゾロゾロ18名の学院生が夕方の温泉街を仲良く散歩している姿は、あたかも修学旅行にやってきた学生のよう。


 束の間の休暇を楽しむ女子たちは時折土産物店の店先に並ぶ品を手に取ったりしながら、それぞれがのんびりとした時間を楽しんでいる。


 一方男子たちは美鈴とカレンをボケっと眺めている手合いと、同じクラスの女子とそれとなく話題を見つけて会話を続けているグループに完全に分かれている。手が届かない高級美術品を鑑賞して楽しむのもアリだし、頑張れば手が届くかもしれない可能性にチャレンジするのもそれはそれでアリな状況。



 こんな様々な思惑が入り乱れながらも、一行はお目当ての店に到。と同時に桜と明日香ちゃんはさっそく注文を開始。



「わさびソフトを3ついただけますか」


「私は1つでいいですよ~」


 桜は3つ一度に受け取ったソフトクリームを手早くアイテムボックスに仕舞い込んでいる。そのうちの1つだけ手にしてさっそく食べ始めると…



「こ、これは意外と鼻にツーンときますわ」


「わさびの辛さと香りが、結構利いていますよ~」


 鮮やかなグリーンでパっと見は抹茶ソフトと見間違えてしまうが、中身は伊豆名産の本わさびをスリ下ろした成分がガッツリ入っている。ソフトクリームの甘さとわさびのツーンと鼻を刺激する香りが相まって、伊豆周辺ではかなりの人気商品となっている。


 桜たちに続いて、聡史、美鈴、カレンの三人も物は試しとばかりにひとつずつ購入してみると、急に美鈴が思い切った行動に出る。



「はい、聡史君! アーンして」


「俺は子供じゃないぞ」


「まあいいから。はい、アーン」


 本日の美鈴はいつになく積極的に聡史に迫っている。会えなかった期間心の中にためていた〔聡史に出会ったらやってみたかったことその3〕をこの場で躊躇いなく実行に及んでいる。



「美鈴さん、なんだか面白そうですね。はい聡史さん、アーンしてください」


 なぜか普段は控えめなカレンまでが悪ノリして参戦の意思を見せる。美鈴のこめかみが一瞬ピクリと動くが、表情だけはまだ笑顔を保っている。聡史は両側から次々にわさびソフトを差し出されて忙しく両方に首を振っている。自分で購入した分はいまだに手がつかないまま。



「チクショォォォォ! 聡史め!」


「なんだか殺意が湧いてくるな」


「誰かダンジョン用の武器を持っている奴はいないのかぁぁぁ!」


 そんな声が聞こえてくるが美鈴とカレンは全く聞こえないフリで、完全に聡史を集団から隔離してやりたい放題。男子たちから歯軋りの音がバキバキ聞こえてくる気がする。聡史が食べ終わる頃には彼らの歯はボロボロのガタガタになっているだろう。



 こうして男子一同から殺意漲るヘイトを買いまくった聡史は、結局わさびソフトを丸2つ食べる羽目になる。意外と刺激が強いわさび味を次から次に口の中に押し込まれて今の聡史は若干涙目。これはあくまでもわさびの刺激が想像以上に利いていたせいであって、美鈴とカレンの行為自体は照れ臭いながらも嬉しく感じている。ちなみに自分で購入したわさびソフトは現在桜に取り上げられてアイテムボックスに収納されている。



「それじゃあ行きましょうか」


 今度は美鈴が聡史の右腕に自分の腕を絡ませてくる。これは〔聡史と出会ったらやりたかったことその2〕に該当する。二人が腕を組んで歩きだそうとすると、そこに待ったをかける人物が現れる。



「美鈴さん、なんだか面白そうですから私もやってみますね」


 なんと、カレンまでが美鈴とは反対側の聡史の腕に自分の腕を絡ませてくる。再び美鈴のこめかみが一瞬ピクリと動き、今度は顔面に張り付けたようなマネキン的な冷ややかな笑顔を浮かべている。美鈴自身カレンの横槍でどうやら雲行きが怪しくなってきたのを感じ取ったよう。



「チクショォォォォ! 見せつけやがってぇぇl!」


「おい! どこかに刃物は売っていないかぁぁ!」


「両手が塞がっているから、背後から首を絞めるのはどうだろう?」


 後続の男子からは、ますます殺意に満ちた声が上がる。もちろんその声は聡史の耳に届いているが、美鈴とカレンの攻勢に対応が後手に回って彼らの気持ちに配慮するどころではない。


 この危なげな状況に、さらに桜が燃料を投下する。



「美鈴ちゃん、もっと密着したほうが、きっとお兄様もお喜びますわ」


 愉快そうに煽ってくる桜からのナイスアシスト! これは絶好のチャンスとばかりに美鈴は若干遠慮がちに組んでいた腕に力を込めて聡史の体をグッと引き寄せる。その行動は、まるでカレンから聡史を引き剥がすかのよう。どうやらカレンの挑戦を受けて立つ決意表明らしい。


 対してカレンもちょっと間が空いた聡史との隙間を埋めようと、敢然と体を寄せてくる。両側から美女二人に密着された聡史は頭の中が真っ白でどうしていいやら… 左右に首を振って、二人の表情を挙動不審気味に見ているしかない。



 さらに明日香ちゃんも背後からレポータースタンドを浮かび上がらせては、聡史をグイグイ追い詰めていく。



「お兄さん、視聴者の皆さんが知りたがっていますよ~。美鈴さんとカレンさんのどちらが好きなんですか?」


 桜の燃料投下どころではない、容赦ない水爆級の爆弾をペロリとこの場に放り込んでくれている。この娘は全く空気を読まない。ただ好奇心のままに仕出かすだけ。


 ブルーホライズンの五人もこの成り行きに好奇に満ちた目を向けている。そして男子たちは…



「返事によっては刺し違えても殺す!」


「ワラ人形と五寸釘はどこかに売っていないかぁぁ!」


「ど、どっちか選ばれなかったほうにアタックするのだどうだろう?」



 微妙な沈黙が流れる中で、聡史がようやく口を開く。



「コラコラ、二人ともふざけすぎだぞ。そんなにくっついたら歩きにくいだろう」


 何かに期待する目を向けていた美鈴とカレンはこの聡史の反応にガックリと項垂れている。せっかくここまで頑張ったのに、何一つ聡史には届いていなかったという空しい思いが込み上げてくる。



「本当にお兄様ったら… 今回は反論の余地はありませんわ。採点のしようがないので0点… いや、マイナス100点ですの」


 兄に対して失格の烙印を押す桜の呟きだけがこの場に残るのであった。






 

  ◇◇◇◇◇







 聡史たちが夕方の散歩から戻ってくると、旅館の夕食の時刻となる。大広間には宿泊客ごとに食事の席が設けられており、学院生たちは用意された席に座る。人数が多いので広間の3分の1を彼らが占領している。


 ちなみに桜は一番端の席に着いている。旅館での食事は別料金を払って3人分を用意してもらっているのが原因。3人前のお膳が置かれている席でズラリと並ぶ料理を眺める桜の表情はいつになくご満悦。よくこれだけ入るものだと皆から呆れにも似た視線が送られている。



「「「「「カンパ~イ!」」」」」


 未成年のグループなのでジュースを満たしたグラスで食事前のカンパイをして、海の幸が満載の食事に皆が手を付けていく。



「おお! 刺身が美味いぜ」


「海が近いって最高だな」


「割引料金で泊めてもらっているのに、こんなにいっぱいお料理を出してもらうなんて、なんだか逆に申し訳なくなるわね」


「でも、お箸が止まらないのよねぇ」


「昼間あれだけいっぱいステーキを食べたのに不思議よねぇ… いくらでも入っちゃうわ」


「太りそうで怖いのよ」


「太ったらその分鍛えればいいのよ」


 男子に負けずにブルーホライズンの女子たちもビックリするような食欲を見せている。女子とはいっても学院生は体が資本なので、日頃からしっかりと食べる食習慣が身についている。


 だが世の中にはさらに上がある。



「桜ちゃんは、食べ物がどこに消えていくのか本当に不思議ですよ~」


「昼間あれだけお腹に詰め込んでも、夜になるとまた普通に食べるのよね~」


「食費がすごいことになりそうですね~」


 明日香ちゃん、美鈴、カレンの3人が、見慣れた光景とはいえ呆れ顔で桜を見ている。「旅の恥は掻き捨て」というが、恥を超越した何かとんでもない光景を大広間に振り撒く桜であった。






   ◇◇◇◇◇







 食事が終わって時刻は宵の口、そろそろ風呂に入ろうという話題が誰からともなく出てくる。海の家でシャワーを浴びたとはいっても、潮風でベタ付く体をきれいさっぱりと洗い流したくなってくる。もちろんせっかくの温泉なのだから、ゆったりと体を浸したい。



「それじゃあ、風呂に行くぞ。元原、この旅館は温泉なんだろう?」


「もちろん源泉から直接引いている疲労回復効果バッチリの温泉だぜ。露天風呂もあるからな」


「露天風呂か、いいなぁ。ゆっくり入って体の疲れを取ろうか」


 男子一同が動き出す流れに従って、聡史も風呂の用意を整えて大浴場へと向かう。脱衣所で服を脱いだ時に、自分も結構日焼けしていたんだと改めて気が付いている。


 体を洗い流してから屋外の露天風呂へと向かうと、岩で囲まれた広い湯船には数人の男子が浸かっている。だがこれだけの広さがある露天風呂にも拘らず、彼らはなぜか木と竹を組み合わせた仕切りの周辺に固まっている。そして全員が無言で聞き耳を立てているよう。


 聡史は彼らから離れた場所で湯に浸る。すると常人よりも聴覚に優れている聡史の耳には仕切りの向こう側にある女湯での会話が耳に入ってくる。



「いやだぁ~! 日焼け止め塗っておいたのに、結構焼けちゃった~」


「絵美は日向にいる時間が長かったんじゃないの?」


「日焼け止めを信用しすぎたかな?」


「私も日焼けしちゃって、お湯に浸かると肌がピリピリしてくるぅぅ」


「毎日外で訓練して焼けるのと、海で焼けるのは違うのよねぇ」


 どうやら現在露天風呂に入っているのはブルーホライズンの五人組のよう。彼女たちは砂浜の強烈な日差しを浴びて日焼けしたのを気にしている様子。


 無邪気に話をしている女子たちとは対照的に、仕切りの近くに集まっている男子一同は彼女たちの会話を一言も逃すまいと精神を集中している。それはもうダンジョンでゴブリンを探す時などとは比べ物にならないくらいの一糸乱れぬ見事な集中ぶり。そこまで出来るのなら普段からもっと集中してもらいたい!


 しばらくすると、露天風呂に入浴している人物が入れ替わったのか、別の声が聞こえてくる。



「桜ちゃんは全然日焼けしていないんですよ~。なんだかズルいです」


「明日香ちゃん、気合があれば日焼けなんかしないんですよ。紫外線なんか気合で撥ね返せばいいんです」


「そんなの出来るかぁぁぁぁ!」


 ついつい大声で突っ込んでしまった聡史に男湯の男子一同の視線が集まる。だが聡史は夜空に浮かぶ満天の星に向けて目をそらして知らぬ存せぬで押し通す。


 自分に集まる視線のせいで露天風呂には居づらくなったので、聡史は屋内の風呂に移動していく。


 その直後、仕切りの向こう側に美鈴とカレンが姿を現して男子たちの妄想を掻き立てた件は聡史はついぞ知る由もなかった。ここで詳しく書くと18歳未満禁止となってしまうので、涙を呑んで省略させていただく。


 ともかく彼女がいない童貞高1男子のありとあらゆる夢が詰まった限りない妄想であったとだけ、この場で述べておく。






 

 ◇◇◇◇◇







 風呂の後は各部屋に出入りして、たわいもない話をしたりトランプで遊んだりと健全な夜を過ごしていく。だが若いとはいえさすがに今朝早起きした学院生たちにとって、次第に睡魔に誘われてくる時刻となる。


 殊に快食快眠という生活習慣を送っている桜などは、すでに10時前には布団に包まって寝ているという行儀のよさ。桜につられるように、夜も11時を回ると一人二人と床についていく。日が変わる頃には、全員が深い眠りに導かれている。





 午前1時を回った頃、旅館の外に黒装束の集団が闇に紛れるようにどこからともなく集結する。彼らは無言で頷くと、敷地の周囲に巡らしてある塀を身軽に乗り越えて広い庭へと音もなく侵入していく。


 夜の闇を味方につけるがごとくに夜間照明もない庭を抜けると、建物が見渡せる一角へと入り込む。そのうちの二人が懐から紙を取り出して印を組むと、周囲から彼らの姿が見えにくくなる。だがよくよく目を凝らせばそこに黒い人影を発見できるかもしれない。彼らが用いてる隠形の術は、見えているのに何も見えないと思い込ませる精神干渉系統の術式。真っ暗な中で隠形の術を行使して姿を隠しているというのは、どう考えてもこれから裏暗い企みを実行するとしか言いようがない。



 周囲から身を隠したことを確認すると、今度は別の人物が懐から違う種の紙を取り出して、口の中で小さな呟きを繰り返しながら印を結ぶ。



「急急如律令、我命ズ、泰山夫君ノ力ヲ借リテコノ場ニ式神召喚セシメヨ」


 数種類の複雑な印を組み合わると、その人物は地面に置いてあった紙を手に取って夜空へ投げ上げる。青白い炎が一瞬上がりその中から出現したのは禍々しい色合いをした1センチばかりのクモ。より正確に述べるとクモ型の式神は、その人物の手の平の上にとまると命令を待つようにじっと動かない。


 これと同様に、隣の人物も同じクモを召喚する。準備ができたようでその二人が顔を見合わせて頷くとそのクモに向けて命令を発する。



「「「行け!」」


 2体のクモは命令を待っていたかのようにスルスルと動き出す。樹木を伝って旅館の建物の壁に張り付いて、開いている2階の窓から内部へと侵入を果たす。


 クモが建物内へと入り込んだ様子を見て、二人の人物は印を組んで目を閉じる。自らが放ったクモ型の式神に意識を同調させて、建物の天井を進みながら目的の部屋へと誘導している様子が窺える。


 しばらく天井を進むと、クモは尻から糸を伸ばしてスルスルと床に降りていく。片方のクモは桜が寝ている部屋に、もう一方のクモは聡史が寝ている部屋に向かって床を這っていく。


 目的の部屋は旅館内部に宿泊客を装って潜り込んでいる密偵から知らされている。術者によって正確に誘導されたクモは、ドア下の隙間から器用に身を縮こませて室内へと入り込んでいく。



 再び部屋の壁を伝って天井に張り付いたクモは、並んで寝ている数人の中からお目当ての人間を探す素振りを見せる。これは術者がクモの目を通して写真で見たターゲットの真下の位置に誘導するために、寝ている人間の顔を一人一人確認する作業に該当する。


 やがて一番窓際に目当ての人物が寝ていることが判明する。クモは音も立てずにその真上に位置にスルスルと移動。あとは牛でも瞬時に死に至る猛毒の牙でひと噛みすれば今日の仕事は終わり。


 だが次の刹那、クモの目を通して術者の背中にゾクリとする冷たい感覚が伝わる。どう表現すればよいのかその術者には例えようがないが、それは今まで自分が生きてきた中では感じたことがない感覚。つまり生きている人間が死の瞬間に感じるような破滅の予感とでも呼べばいいのだろうか?


 術者の目には、自らに死をもたらす金属製の物体が猛スピードで迫ってくる様子がはっきりと映っている。だが、今更どうにもできない。目には見えていても避けるだけの時間の猶予は残されていない。


 クシャッ


 クモの体は暗がりを正確に飛んできた金属球にあっという間に押し潰される。それとともに術者の視界は暗転して二度と現世に戻ってくることはなかった。


 陰陽術による呪いや攻撃に対しては防御法が存在する。払いや清めといったオーソドックスなものから、身を隠して呪いを運ぶ式神に発見されなくする方法、これは一例を挙げると〔耳なし芳一〕の物語にあるように結界の中に身を隠してやり過ごす方法といえる。


 さらに過激な方法として〔返し〕というものが存在する。これはより強力な術者を招いて呪いを術者の元に返すという方法。その結果として呪い自体は消えずに、大元の術者に災いとして戻っていく。


 部屋に侵入したクモが潰された時点で術者の呪は破れている。だが式神が運ぼうとした毒はまだ残っている。呪術で作り出された毒のみが術者の元に戻ってその命を絶つ結果となる。毒魔法が放った人間に戻ってきたようなものと考えればわかりやすいかもしれない。



 小さな明かりがついた部屋で布団からむくりと桜が起きだす。



「私の命を狙うなんて、どんなバカでしょうね? ちょっと興味がありますから顔でも見てみましょうか」


 小さな呟きを残して桜は部屋を出る。


 侵入してきたクモを発見したのは彼女の〔敵意察知〕。寝ている時であっても敵意が接近すると頭の中でアラームが響いて警告してくれる「セコムしてますか」のような便利スキル。


 そしてクモを仕留めたのは、お馴染みのパチンコ玉を指で弾く指弾の技。寝ている時でも即座に臨戦態勢に入れるなんて、この娘にはどこにもスキがない。


 桜が足を忍ばせて部屋を出ると、二つ隣の部屋からちょうど聡史が出てくるところに鉢合わせ。



「桜、お前も襲われたのか?」


「おや、お兄様の部屋にも入り込んできましたか」


「念のためグルっと外を見回るか」


「そうですわね。グッスリ寝るには静かな環境が一番ですから」


 聡史はジャージにTシャツ、桜はパジャマ姿であるが、お構いなしに2階の窓から飛び降りる。そのまま音も立てずに着地すると、阿吽の呼吸で左右に分かれて旅館の中庭に造られた日本庭園を駆け出していく。


 この全く予期しなかった状況に慌てたのは、東十条家が放った陰陽師の暗殺部隊。突然式神を操っていた術者が倒れて、何事が発生したかはわからないが暗殺は失敗したと判断して撤退しようとした矢先にこの事態。倒れた術者を抱え上げて旅館の裏の通用口に向かおうとしたところで早くも兄妹が動き出したというのは、まさに悪夢としか言いようがない。


 まだ動ける暗殺部隊3名は裏口目指して必死に走るが、兄妹の速度のほうが圧倒的に早い。庭園の半分も進まないうちに、前から聡史、後ろから桜に挟み込まれる。



「何処の誰か白状してもらおうか」


「やれ!」


 部隊のリーダーと思しき人物の指示で、黒装束の二人が聡史に向かって刃物を光らせながら襲い掛かってくる。



「無駄だぞ」


 ナイフが突き出される間合いを見切っている聡史は軌道の外側に身を翻すと手刀を首筋に叩き込む。さらにこちらに向き直ったもうひとりには、ナイフを突き出す暇を与えずに鳩尾に拳骨を1発お見舞いする。


 剣が本業の聡史だが、徒手格闘においても人間離れした動きが可能。たった2発で地面に沈んだ二人の暗殺者は白目を剥いている。本職相手にこの手際を発揮とは、あまりに理不尽が過ぎる。それだけならまだしも、さらなる理不尽の権化たる妹まで控えているとあらば、状況は暗殺者たちにとって詰みといえる。



「クソッ」


 残ったひとりもナイフを抜いて聡史に襲い掛かる。だが素早く身を翻した聡史に躱されて、逆に伸ばし切った腕を取られてしまう。聡史はナイフを握った手首を捻って後ろ手にすると、そのまま背後に回り込んでもう一方の腕を首に回していく。軽く頸動脈を圧迫すると、最後のひとりもあっという間に崩れ落ちる。



「お兄様、こいつらはどうしましょうか?」


「持ち物を探ってから表の道路に放り出しておこう。どうせ仲間がその辺にいるだろうから回収させればいい」


「ずいぶん穏便なんですね」


「せっかくの旅行中だからな。楽しい思い出に嫌な記憶を紛れ込ませたくないだろう」


「それもそうですわね。ではこのオトシマイは改めて別の機会にということですね」


「そうだな」


 こうして聡史と桜は倒れている男たちが所持していた呪符や連絡用のスマートホンなどを回収してから、彼らを次々に塀越しに外に放り出していく。敷地内に残しておくと旅館に迷惑がかかる。せっかく良くしてもらったのだから立つ鳥跡を濁さない方針のよう。



 二人して建物の外からジャンプして先ほど飛び出した窓から館内に戻ると、そのまま何食わぬ顔でそれぞれの部屋へと戻っていく。




 翌朝…



「ふわぁぁぁぁ! 昨日はゆっくり寝ましたよ~。桜ちゃんはグッスリ寝られましたか?」


「ええ、明日香ちゃん。とってもよく寝られましたわ。そうです、よかったら一緒に朝風呂に行きましょう!」


「いいですねぇ~。風呂上りはコーヒー牛乳で決まりですよ~」


「腰に手を当てて一気に飲み干すのが温泉コーヒーの正式な作法ですわ」


 二人仲良く大浴場へと向かっていく。



 こうして夜中の事件は誰も知らないままに幕が引かれていく。兄妹も口をつぐんで何も語らぬままなのは、逆に不気味さを漂わせる。



 一夜明けて、学院生たちは午前中に出港する遊覧船に乗って、甲板で写真などを撮ったりしながらはしゃいで過ごしたのちに、午後の電車で学院へと戻っていく。


 思いっ切り羽を伸ばした2日間の夏の思い出を各自が胸にして、明日からの厳しい訓練に身を投じていくのであった。


  

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