ふたりでひとり
森本 晃次
第1話 風俗での思い
この物語はフィクションであり、登場する人物、団体、場面、設定等はすべて作者の創作であります。似たような事件や事例もあるかも知れませんが、あくまでフィクションであります。それに対して書かれた意見は作者の個人的な意見であり、一般的な意見と一致しないかも知れないことを記します。また専門知識等はネットにて情報を検索いたしております。ご了承願います。
「人間というのは、ショックなことがあると、一体どうなってしまうのであろうか?」
そんなことを考えることを、
「そんなネガティブな発想、やめた方がいい」
という人が多いかも知れない。
だが、ショックなことがまわりで何も起こらずに平穏に暮らしていける人などというのは、本当に存在するのかと思うほど、世の中は想像以上にめまぐるしく動いているというものだ。
ショックというのは、自分にとってショックなことであって、まわり全体がいくらショックだと思っていても自分がショックだとは思えなければ、ショックなこととは言わず、逆に他の人が誰もショックだとは言わなくとも自分がショックであれば、それはショックなことだといえるだろう。
「そんなの当たり前のことだ」
といわれるかも知れないが、まわり全体がショックな中で、自分もその一人だという発想と、まわりに誰もショックを受ける人がいなくても、自分だけがショックだという意識を持つこととでは、根本的に違うのではないだろうか。
それは自分本人がどのように感じるかということであり、特にまわりにショックな人がおらず自分だけがショックを感じることは、一人だけ取り残された気がすることから、ショックの度合いは計り知れないものだ。だが、逆に考えれば、
「自分以外はショックを受けていないのだから、まわりの人に助言を受けることはできる」
というかも知れない。
しかし、それは不幸を感じているかどうかで思うことで、ショックを受ける受けないに関してはこの限りではないだろう。
ショックを受けることがあっても、それが不幸だという感覚に直結するものではないからだ。
だが、ショックなことというのは、瞬発性のあるもので、人間に何かの影響を与えるには一番最適なものではないだろうか。怖いものを見たり、悪夢を見たりすると、ショックで身体が硬直してしまったり、汗が身体全体に滲んできたりして、体調にも異常をきたすこともあるだろう。
それは、真っ暗な中で誰かに声を掛けられたり、身体を推されたりするような瞬間的なショックもあれば、精神的に傷つけられるようなことを言われたりと、いわゆる「言葉の暴力」も存在する。
ここに一人の小説家がいる。名前を山下隆正という。彼はどこかからフラッと現れた人で、本来なら出版社も、そんな素性も知らない人に原稿を依頼などしないのだろうが、現在最高と呼ばれる大御所作家である川上紹運という人の紹介だということで、出版社の人も信頼していた。
実際に隆正の小説を見ると、最初はそれほどでもなかったが、どこか惹かれるところがある。それは川上紹運の紹介という折り紙がついているからかも知れないが、それだけではない何かが彼の小説にはあった。
ただ、その中で一人彼の小説に対して、
「何か懐かしいものを感じる」
と思っている人がいた。
隆正の小説は、他の人に類を見ないような独特のもので、懐かしい思いなどありえないと思っていたが、次第に彼の小説を読んでいくうちに、どんどん何かを忘れていくような魔法があるような気がしてきたのは、気のせいであろうか。
彼の名前は中西恵三といい、M出版社の編集部員である。年齢は三十歳になった頃で、最近までは、出版社主催の新人賞関係の部署にいて、選考も兼ねていた。編集長というまでたくさんの作品を読んでいるわけではないが、新人賞関係の仕事をしているおかげで、プロとアマチュアの作品を交互にたくさん読む機会に恵まれ、他の編集者とは違う目線で見ることのできる数少ない編集者として貴重な存在であった。
そんな恵三だったので、
「懐かしさを感じる」
というのは、まんざらウソではないような気もしてくる。
ただ、少しずつ何かを忘れていくというのは、今までにもなかったわけではないが、小説を読んでいて感じたことはない。
――逆にそれが懐かしさを誘ったのではないか?
とも感じたが、すぐに打ち消した。
その考えには信憑性を感じながらもどうして打ち消す必要があったのか、中西は不思議に思うのだった。
隆正を推した川上紹運という小説家は、神出鬼没なことでも有名だった。一応家はあるのだが、自分の家で執筆をすることはほとんどなく、
「さすらいの小説家」
として、出版社はおろか、一般の小説家ファンも周知のことだった。
最初は出版社に対して、
「私は、いろいろなところを放浪しながら小説を書いている」
ということを公言し、原稿はその滞在場所からメールで送ってくるようになった。
別に締め切りに遅れることはなかったので、それでいいと出版社の方でお許しが出て、彼だけ特例となったのだ。
実際に締め切りに遅れたことは一度もなく、デビューしてから三年になるが、一度も家から原稿が送られたことはないようだった。
ただ、彼は秘密主義というわけでもない。テレビや週刊誌の取材には、キチンと予定を立ててくれたら自分から出向いて取材には応じている。遅刻したこともなく、そのあたりは几帳面な性格のようだ。
一度、彼が取材後、どのような行動を取るか、ある記者が彼の後をつけたことがあったが、すぐに彼にバレてしまって、
「今後、このようなことがあれば、一切の取材には応じないので、そのつもりでいていてください」
と注意した。
相手の取材も強引であり、せっかく優等生である作家のご機嫌を損ねては、特ダネを取れたとしても、その損失は大きいという判断で、川上紹運の「おっかけ」は行わないことにした。
このことがあってから、出版関係の暗幕の了解として、
「川上紹運の行動を追ってはいけない」
ということが定着したのだった。
今の時代での最高の小説家とも称される川上紹運は、そういう意味でも伝説的な小説家として君臨するようになっていたのである。
川上紹運という小説家は、年齢は公表されていないが、見るからに老人であり、書く小説はSFであったり恐怖ものが多い。そのため、
「すでに七十歳を超えているのではないか?」
と言われているが、実際には、まだ五十歳にもなっていないというが本当であろうか。
髪の毛はすべてが白髪で、腰あたりまである。白装束で杖でも持っているとすれば、まるで仙人のように見えることも、彼が今の時代で最高の小説家と言われるゆえんの一つではないだろうか。
小説家と言われる人種が、
「変わり者が多い」
と言われていたのも、以前の小説家には、川上紹運のような小説家が多かったというのが由来しているからではないだろうか。
特に、
「明治の文豪」
と呼ばれるような人たちにはそのようないでたちが多く、それも時代の流れとともに変わって行っているもののはずなのに、小説家というイメージだけが孤立したまま、時代に乗っかってきたのかも知れない。
それを思うと、小説家という仕事が、
「モノを作るパイオニア」
というイメージで尊敬の念に値すると思っている反面、その外見から発する異様な雰囲気に惑わされてはいないかという疑念もあり、
「一般の人とは隔絶された世界を形成している一種の変人」
というイメージを持っている人がいても、不思議ではない。
確かに他の人と違った雰囲気を持っている人が多いのは否定できないが、だからといっていきなり変人という扱いになるのは、いかがなものか。
そんな小説家に興味を持つ人が世間にはごまんといるだろう。出版社が特ダネ目当てに「おっかけ」を行うというのも、無理のないことなのかも知れない。
川上紹運が隆正を見出したのは一体、いつ、どこでだったのだろう?
その話を紹運は誰にも語ろうとしない。ただ、彼の類まれな作品は、彼の中から醸し出されるものであり、何かを考えてはいるのだろうが、最後には感性で作品を書きあげる。
紹運はそんな隆正に自分のデビュー当時を思い出したのかも知れない。しばらくの間隆正は紹運の元にいたが、紹運がさすらい癖があるため、そのうちに、隆正が独立するようになったのだという。
隆正も自宅はあるのだが、執筆に自宅を使うことはあまりなかった。紹運ほど神出鬼没ではないが、秘境と言えるような山奥の温泉だったり、入り江になった他の土地と隔絶されたかのような小さな漁村に身を寄せて書くことが多くなった。
紹運先生の書く小説は、歴史ものであったり、都市伝説のようなオカルト系の小説が多かった。隆正も都市伝説のような話を書いたり、怪奇小説などを書くことが多い。紹運先生に短編が多いのと比較すれば、隆正の小説は長編が多かった。
一つの小説を書きあげるのに、二人ともその場所を移動しようとは思わない。描き始めたらその場所で最後まで書くというのが二人に共通した作品を完成させる方法であった。
紹運先生には昔からのファンがついていた。子供が読んでも分からないような作品は玄人好みとして、評論家のウケはよかった。だが、一部の評論家からは、
「陳腐で低俗な作品」
という酷評もあった。
だが、それはどんな小説家にもあるもので、しかも王道のジャンルでなければ、批判したがる評論家は一人や二人はいるものだ。特に玄人好みの大人の小説にはつきものだと言ってもいいだろう。
逆に隆正の小説は大衆ウケする作品と言っていいだろう。ジャブナイル作品もあれば、大人向けの作品もある。しかも彼の書くスピードはかなりのもので、一冊の本になるくらいの長編を書きあげるのに、一か月と少しでできるのだ。
「そんなに簡単に書けるものなんですか?」
と中西は舌を巻いたが、
「集中すればできるんだよ」
と、笑いながら答えていたが。そこには嫌味も何もなく、編集者の人も、
――この人ならできるんだろうな――
と、妙に納得できるところがあったのだ。
「集中するのって難しくないですか?」
というと、
「そんなことはないですよ。書き始めれば自分の世界を作ることができる。その世界にドップリ使ってしまえばいいだけですからね」
「先生のような怪奇小説などにドップリ浸かるというのは想像もできませんね。恋愛小説だったり、青春小説のように自分が経験したかも知れないことや、願望であれば、いくらでも入り込めそうな気がするんですけどね」
と中西が聞くと、
「そうかも知れないけど、私は違うんだ。自分の経験したことのない世界だから、いくらでも自由に発想できる。ただ、昔に見たであろうテレビやマンガなどの影響がないとは言えないので、そこは少し気になるところですね」
「そうですよね」
「でも、それはそれでいいじゃないですか。想像力というのは果てしないものだと私は思っているので、入り込んでしまうと何か結果を出すまではその世界に入れるんだって思っていることが小説を書ける秘訣なんじゃないかって私は思っています」
という隆正の言葉を聞いて、
「なるほど、そうかも知れないですね。過去の経験だけではなく、見たり聞いたりしたものを題材にするという発想ですね」
「ええ、でもそれはあくまでも題材というだけで、メインにしてはいけない。そこが難しいところであり、書いていて物書き冥利に尽きるというものなのかも知れないですね」
「紹運先生も以前似たようなことを言っていたような気がしましたが、少し違う考えもあるようですよ」
「というと?」
「小説を書く時集中するというのは同じなんですが、紹運先生は自分の経験から書くことはないと言われていました」
「それはどういうことですか?」
「自分は、小説に書けるような内容のことを経験などしたことはないそうなんです。逆に言うと、自分が小説に書きたいことは、自分が経験したことのないような内容なんだそうです」
「紹運先生はどんな経験を今までしてきたんでしょうね?」
「ええ、私も興味がありますね。今の先生の行動パターンからは、十分数々の経験をしていると思うんですがね。でも先生は面白いことを言ってましたよ」
「どういう面白いことですか?」
「自分がどんどん新しい経験をしていけば、経験度は上がるでしょう。だから書ける範囲はどんどん狭くなってくる。そんな中から新たな作品を生み出すのが醍醐味だというんです。私はそれを聞いて逆に先生は違うことを考えていらっしゃるのではないかとも思ったんです」
「それは?」
「確かに範囲が狭まる中で書くのは醍醐味かも知れないけど、先生はひょっとすると経験値というものは果てしないもので、それを小説を書くことで自分なりに証明しようと思っているのではないかと思うんです」
「なるほど、それなら紹運先生らしいと言ってもいいですよね。紹運先生というのは私などが及びもしない発想を抱いていることがある。それを思うと今のお話も承服できるところが十分にありますね」
「私も出版社に入っていろいろな小説家の先生を見てきているので、目は肥えていると思うんです。ですが、紹運先生というのは、かなり破天荒な方だという思いがします。川上紹運おそるべしというところでしょうか?」
と言って中西は笑った。
「私も早く紹運先生のような小説家になれればいいと思っているんですけどね」
「大丈夫ですよ。山下先生は紹運先生のお墨付きを頂いている人じゃないですか。もっとご自分に自信を持てばいいんです」
「自分に自信ですか? それは怖い気がするんですよ。自信過剰になりすぎるということで怖いと言っているのではなく、自分の中にある何かを裏切っていくような気がするんです。ただの感覚でしかないんですが」
実はこの感覚を一度小説に起こしてみたことがあった。
これが主題というわけではなく、ラストの方で小説の根幹の種明かしをしているところで、一つのエッセンスとして描いたことだった。隆正は自分の書いた小説をすぐに忘れてしまう。それは自分の中で悪いことだとは思っていない。なぜなら、書き上げた作品をリセットしないと次作を書けないと思っているかrだ。そういう意味で隆正というのは書き上げるのも早いが、次作に取り書かkるスピードも結構速い。それだけに完成作品はかなりの数に上る。
それを本人は、
「質より量で書きまくる」
と笑いながら言っていたが、自他ともにまんざらでもないようだった。
逆に紹運先生は行動と同様、出来上がる作品にもムラがあった。
確かに紹運先生は締め切りに間に合わないことは一度もなく、編集者からも信頼を受けていたが、隆正のように、一つの作品を書きあげてから次作に取り掛かるまではそんなに早くない。どちらかという作品への取り掛かりに関しては気まぐれなところが多く、その気がなければ、簡単に断ったりもする。
このあたりは編集部も少しだけ頭の痛いところであったが、それ以外はまったく問題ないので総合的に見ても、紹運先生は出版社にとってもなくてはならない存在だったのだ。
隆正が自分に自信が持てない理由。それを知っているのは、紹運先生と一部の編集部の人だけだった。
紹運先生が神出鬼没だというのであれば、隆正はその存在自体が不明だと言ってもいい。確定的に知っているのは紹運先生と出版社の一部の人間だけだが、中西の人もウスウス気付いていることだった。だがそれを本人にぶつけて、知られたくないということを突き付けることで臍を曲げられても困るのだ。まったくメリットのないことができるほど、中西はチャレンジャーではなかった。
隆正には過去の記憶がなかった。一種の記憶喪失なのだ。だから中西が、
「自分の経験から書けば」
と言った時、
「集中して書いている」
と、答えになっていない返答をしなければいけなかったりした。
もちろん、それが期待した返答ではなかったが、隆正の本心であることは分かっていたので、無理に否定することもなかった。話を合わせたというよりも、
――もっと先生からいろいろな考えを引き出したい――
という思いが強かった。
聞かれたくないような核心を突く話を振れば、きっと彼がごまかすわけではなく、自分の本心を明かしてくれると思ったからだ。
少し卑怯にも感じられたが、これも中西としてのテクニックであり、それが作品に生かされるのであれば、それも悪いことではないと思った。
「私は山下先生の作品を最初に読んで、何か懐かしいものを感じたんですが、それはどうしてなのかと思うんですが、どうしてなんでしょうね?」
と中西は笑いながら言った。
「私にも分かりませんが、懐かしさというのは、私の小説が自分では経験から書いているわけではないと思っているのに、意外と他の人には何か経験があるということなのか、それとも私の作品が、他の人の作品に類似したものがあるということなのか、どちらにしても私にはありがたいとは思えないことですね」
「でも私の懐かしさというのは、今先生がおっしゃった理由とは違う気がするんです。決して先生にも悪いことではないような感じのですね」
そう言いながら、中西は隆正の著わした小説を思い出していた。
中西が一番気になった小説というのは、
『極限の生還』
という話だった。
内容としては、ある人が自殺を図り、死んでしまうのだが、その人が生き返るという話だったと思う。そのような内容の話であれば、オカルトや怪奇がさらに深まるのだが、中西には却ってその小説に怪奇性を感じさせないように思えたのだ。
その思いがどこから来るのかよく分からなかったが、
――そうか。何か懐かしく感じるから、そこに恐怖や怪奇の感情が沸き起こってこないんだ――
と感じた。
自殺を図った主人公は一度死の世界を覗くことになる。しかし、小説では、
「死の世界を覗いた」
とは書いてあるが、それがどんな世界なのか、具体的には書いていない。
しかし、そんな中で微妙に死の世界を想像させるような書き方があった。
「『想像』することではなく、『創造』することだ」
と、後の方に別の意味で書かれたセリフがあったが、その言葉が妙に頭の中に残った。
その言葉と死の世界と具体的に書いていないことがどのように結びつくというのか、かなり後になって気が付いた。
だが、そのことn気付く人は他にいるわけはないという自負もあったので、最初はこの気持ちを隆正にぶつけてみようかと思ったが、結局聞くのをやめたのだ。
中西も、実は小説家を目指していた。出版関係の仕事についている人は少なからず、自分でも小説家になりたいなどの野心を持っている人多いのではないか。彼もその中の一人で、大学では文芸サークルに所属し、学園祭で上映したオリジナル映画作品の脚本を書いたりもしていた。
「脚本と、小説ではまったく違う」
と言われるが、出版社に入って小説を数多く読むようになって、その言葉を痛感するようになった。
最初に脚本を手掛け、その後自分でも小説を書いてみようと思うようになったが、なかなか思い通りの作品ができなかった。
学生時代はそれをなぜなのか分からなかったが、脚本というのが、演者や監督、さらに演出家とのチームワークによって作り上げるもので、脚本が表に出すぎると、他の味を打ち消してしまうという意識の元に書いていた。
実際に脚本は、ト書きとセリフ、さらにその場面しか書くことができず、描写というのは演出家や縁者が生かすものだった。しかし、小説というのは、自分の書く文章ですべてを表さなければいけない。自由ではあるが難しいことだ。
そういえば、編集者の先輩からこんな話を聞いたことがある。
「どんな話でも自由でいいので、一本小説を書いてくれないか。ただし、映像化が可能なものにしてほしい」
と言われた。
彼は、編集部の中から小説家を目指していると公言していて、それを伝え聞いた当時の編集長から受けた話だった。
「自由でいいというのは簡単なようにきこえるが、実はこれほど難しいものはない。それもジャンルや作法が自由というだけで、映像化という大きな縛りがあったんだ。これだと言い訳は一切利かないし、制限されているのと同じではないか? そう思うと委縮してしまって作品は書けなかったんだ」
と言っていた。
この話を聞いて、彼はその時、
――前にも同じようなことを感じたことがあったな――
ということを思い出した。
そういう意味では小説家というのも、ほとんど自由である。どんな発想をすればいいか、元々の企画くらいは編集部で立てるのだが、具体的なことは作家の自由である。そう思えば、作家がどれほど大変な職業であるかということも分かるというものだ。
――諦めて正解だったのかな?
と中西は思ったが、そう思った時点で、正解だったということだろう。
まるで禅問答のようだが、世の中というのは、そんなものだと思うと、肩の荷が下りたような気もした。
小説家の先生をたくさん見てきたが、紹運先生と隆正は他の小説家とは一線を画しているような気がした。
紹運先生は小説もさることながら、その行動が意味深で、理解不可能な世界を形成しているように思えた。隆正の場合は紹運先生に見いだされたと言っても、紹運先生とはどこまで行っても交わることのない平行線のように感じられた。それは紹運先生が隆正のことで何かを隠しているということをウスウス感じていたからだった。
そこにどんな秘密があるのか中西は分からなかったが、分かってしまうことも怖い気がして、敢えて詮索しないことにしていたのだ。
――もし分かる時がくるのだとすれば、それを待てばいい――
という考えである。
それが隆正の書いた、
『極限の生還』
という小説に隠されているということを知る由もなかったが、忘れることができないというのも事実であり、頭のどこかに格納されていたのだが、それが意識なのか記憶なのか、中西本人にも分からなかった。
中西が書く小説はどちらかというと紹運先生よりも隆正に近かった。いや、近いというよりも、近づけたいという思いの方が強いのかも知れない。特に気になっているのは、怪奇小説でありながら、心理を突くような作品を考えていた。
人間の深層心理を抉るような作品であり、一見まったく的外れな発想に見えながらも、読む人の中に、
「そうそう、俺も同じことをよく考えるんだ」
という風に思わせたいと思っている。
隆正の小説は担当のように、深層心理を抉るような作品ではない。どこか的外れなところがあるが、読み込めば読み込むほど、同意できるところがたくさんある。つまりは、
「何度でも読み直してみたい小説」
を目指している。
一度読んだだけではその良さが分からない。だとすれば、ほとんどの人は、もう二度と読もうとしないだろう。しかし、再度読み直して理解したいと思えるような小説はどこかに見えない力が働いているのだ。
読みながら引き込まれてしまったり、あるいは、どこかに気になるところがあり、その部分が思い出せなかったりして、思い出せないことが苛立ちに繋がってしまって、再度読み直さなければいけないような気がしてくるような話を書いてみたいと思うのだ。
気になる部分が思い出せないのは、場面がコロコロ入れ替わってしまい、読解に追いついてこないというのも一つの理由かも知れないが、ある種の世界に引き込まれてしまったにもかかわらず、急に場面が変わってしまったことで、もう一度、引き込まれるべく集中するためのポテンシャルを高めなければならない。
担当は後者のような作品を書ければいいと思っていて、隆正の小説にはこの部分が存在していると思っているのだ。
だが、なかなかそんな都合のいい小説など簡単に書けるわけもない。もし書けるようになるとするなら、何かのきっかけと、タイミングがうまく重ならなければいけないだろう。しかも、それを自分が意識しなければ、そのままスルーしてしまうような気がするのだ。
小説を書けるようになった時のきっかけを小説家の先生に聞いてみると、
「ある瞬間、急に書けるようになったんですよ。何かが降りてきたという表現がありますが、まさにそんな感じなんですよ。しかも、それを自分で意識できるんですね。どうして書けるようになったのかということを理解はしているんです。ただ表現しようとすると、どう表現していいのか分からない。それはきっときっかけとタイミングがバッチリ嵌ったからなのではないかと思うんですよ」
という具体的に話をしてくれた先生もいた。
紹運先生にも聞いたことがあったが、紹運先生は何も語らず、ただ頷いているだけだった。隆正にも聞いたことがあったが。隆正は、
「何かが降りてきたというのは感じますが、僕にはそれが何だったのかって分からないんですよ。分からないから書けるようになったというのは、ちょっと都合のいい解釈ですかね?」
と言っていた。
その後似たような話になった時、今度は少し違う意見を言っていたのが印象的だったのだが、
「たぶん、自分の中で何かのショックを感じたような気がするんです。そのショックが何を自分に及ぼすのか分からなかったんですが、小説を書けるようになったのも確かその頃じゃなかったかって感じています」
と言っていた。
「そのショックとは具体的にどのようなものだったんですか?」
「ハッキリとは覚えていないんですよ。それが夢で見たものだったのか、起きている時に何かを見て受けたショックだったのか、記憶としてはショックを受けたという思いはあるんですが。それを一体どこでいつなのかと聞かれると定かではないんです」
中西は彼が過去の記憶を一部失われていることを知らない。
そう、隆正は記憶が半分欠落しているのだ。すべての記憶を失ってしまったのだとすれば、こんなに長い間、まわりを欺くなどできるはずもない。小説を書く上で、記憶を失っているというのは実際に執筆ができているのだから、別に関係のないことなのかも知れない。
だが、考えてみれば、
「記憶をすべて失う」
というのはどういうことなのであろうか?
自分の名前も分からない。どこから来たのかなども分からない。しかし、字を書くことや喋ることはできている。普通の人が記憶を失うというのは、そういう状態を言うのだろう。
だから、名前や住所などは記憶なのだろうが、モノを書いたり喋ったりすることは記憶というよりも意識であり、潜在している意識、つまり潜在意識になるのであろう。
潜在意識を失ってしまう人を見たことはない。記憶は封印することができるが、意識を封印するkとはできないということなのであろう。
紹運先生の少し前に発表された小説の中に、記憶と意識を考えさせられるような話があった。都市伝説とうまく絡ませた話だったが、その内容は今までに読んだことのないような画期的な話だった。
――僕にもあんな話が書けたらな――
と、紹運先生の小説の中で、一番そう強く感じたものだった。
隆正の小説の中にも意識と潜在意識について書いているものもあった。特に潜在意識という発想は夢と繋がっていた。
「夢というのは、潜在意識が見せるもの」
という話をどこかで聞き、その意見を信じている中西からすれば、隆正の論理は頷けるものだった。
中西だけでなくとも、読者のほとんどが感心しているものだと信じて疑わない。ただ、賛成という人ばかりではなく、少し違った考えを持ったうえで読んでいる人もいるだろうという前提の元に立っての思いであった。
「夢というのは、目が覚めるにしたがって忘れていくものだ」
と思っていたが、隆正の話を読んでいると、
「潜在意識という夢は、目が覚めるにしたがって記憶に変わることで、封印されてしまうのだ」
という結論めいた言葉があった。
その小説全体に対しての結論ではなかったが、この言葉が妙に印象的だった。
中西も意識と記憶に関しての小説を書いてみようと思ったことがあった。前提として、
「意識は潜在意識として、常に忘れることはない。記憶はある一定の条件を満たせば封印されるもので、一定を満たさなかったものは、忘れ去られるものだ」
というものであった。
それを彼は恋愛、あるいは青春小説の中に織り交ぜようと考えた。それは映像化を視野に入れたものだったのだが、自分の経験したことから派生させようという考えがあったのだ。
だが、意識や記憶に関連させるような経験を自分がしたという覚えはなかった。思い出せないだけなのかも知れないが、思い出せないということは、封印を解くことができないということであり、書いてはいけないことだと言えるのではないだろうか。
どうして書けないのかを考えてみたが、何かのインパクトがないことに気付いた。それは隆正がかつて言っていたような、
「何かショックを受けたような気がする」
というようなことでもなければいけないのではないかと思った。
そういえば、ショックなことなどというのは、最近感じたことがなかった。仕事もとりあえずは順風で、波風のようなものもなかった。
「やはり、何かショックなことでもなければ小説執筆とかできないんでしょうか?」
と、少し野暮だとは思ったが、そんな質問を隆正にぶつけたことがあった。
「そんなことはないと思いますが、何かある方がトリガーとしては有効なんじゃないかとは思いますね。ただその場合はトリガーが起爆剤になるということを本人が自覚している必要がありますけどね。やっぱり、火のないところに煙なんか立たないんですよ」
と言われた。
この意見はポジティブな発想だと理解すればいいんだろうか。引き金を引かなければ確かに弾は発射されない。発射されなければ爆発もしないというわけであろう。
ただ、一足飛びに起爆するわけではない。歯車のようなものが噛み合わなければいけないのだろう。ショックというのも一つのトリガーにはなりうるが、その時にどのような感情が伴うのか、中西は考えていた。
「私も以前はいろいろな出版社の新人賞に応募したりしていましたけど、ほとんどが一次審査で落選なんですよ。一次審査というと下読みのプロと呼ばれるような人が審査するのだから、作品云々よりも、文章としての体裁のような文法面だったり、文章の基礎になる部分を重視して、作品部分にはあまり言及しないのが現実なんですよね」
と聞くと、隆正は少しビクッとした反応を示したが、その反応が反射的な意味での本能から来る反応なのか、それとも自分も過去に投稿したことがあり、それを指摘されたようあ気がしてドキッとしたのかよく分からなかった。
編集担当ということで、自分が担当している先生と呼ばれる人の経歴くらいは調べていたが、隆正が過去に新人賞や文学賞に応募したという事実はなかった。あくまでも紹運先生の強い推薦ということでのデビューだったのだ。
だが、それは出版社としては正解だった。隆正の過去についてはまったくの白紙ではあったが、デビュー小説はそれなりに売れて、現在でも右肩上がりに売れ続けている。しかも、新作を発表するたびに、過去作品も比例して売れるというのだから、売れ行きはまるでネズミ算式に見えた。
「過去なんかどうでもいいんだ」
と、誰もが思えてくるような隆正の台頭は、出版不況と呼ばれる中でも、新風を巻き起こすに十分ではないだろうか。
紹運先生といい、隆正の台頭といい、M出版社はいい人材を抱えているのだと、中西は思うのだった。
中西はM出版社にも大学時代に新人賞応募したことがあったが、今から思えばどんな小説をいつ応募したのかも覚えていない。それだけ、
「下手な鉄砲」
を撃ったわけだが、覚えていない方が幸いだったのかも知れない。
中西はどうしても自分の経験からしか小説を書くことができない。かと言ってノンフィクションを書こうとは思わないのだ。あくまでも架空の話を自らが作り上げることが重要で、それは、
「新しいものを作る」
ということに造詣が深いからだと言えるだろう。
つまりは、
「『想像』はなく、『創造』なのだ」
と自ら実践しているようなものなのだ。
中西は、
「ショックなことがあったので小説を書けるようになった」
という隆正の言葉が気になっていた。
「自分もショックなことがあれば、小説が書けるようになるのではないか」
という発想ではなく、別の発想もできると思ったのだ。
そこで思いついたのが、
「ショックなことがあれば、どんな風に変わってしまうのかということをテーマに、一人の人物に焦点を当てた小説を書く」
ということだった。
これも一つの発想の転換ではあるが、考えてみればこちらの方が発想としてはしやすいことになる。
ショックなことがあると、まず身体に変調をきたすだろう。普通であれば面白くないし……。
そう感じた時、
「性欲が強くなる」
というのは面白い発想ではないかと思った。
「これなら書けるかも?」
エロスを巧みに描くのは、自分にでもできるような気がしていた。
学生時代にもエロスを織り交ぜた話を書こうとしたがどうしても恥ずかしくて書けなかった。だが今は大学も卒業し、いろいろな先生の担当について実際に肌で触れるような気持ちにもなった。それが自分の気を大きくしたのだった。
いろいろな経験もした。先輩から、連れていかれた風俗が自分にとって初めての風俗だったが、自分が想像していたものと結構違っていた。
店に入ると、受付を済ませ、待合室に通された。その店は高級店でもなく格安店でもない。いわゆる大衆店だった。
待合室には数人の人が待っていて、マンガなどを見ながら思い思いに過ごしている。半分くらいは待合室にいただろうか?
――皆初めてではないんだろうか――
緊張しているようには見えるが、その挙動に不自然さはなかった。
緊張は何度来てもあるものだろう。いや、この緊張を味わうのも楽しみだと言ってもいい。何度か指名している馴染みの相手であれば、懐かしさがこみあげてくるだろう。初めての相手であれば、それなりに初体験を思い出しながら待つこともできるだろう。どちらにしても、まるで恋人に遭うかのような気持ちを抱いているのかも知れない。
――ここにきている人の中には、恋人のいる人もいるのではないか?
初めての待合室では、いろいろな思いが交錯した。
結構長い間待たされるので、気を紛らわせる意味でもいろいろ考えるのは決して悪いことではない。
自分はまだ経験したわけではないのでハッキリとしたことは分からないが、恋人がいても来たくなる気持ちは分からなくもなかった。
もっとも、その思いはこの待合室に来てからでなければ感じることのできない思い出はないかと後から感じたが、それが待合室という独特な雰囲気に身を置いたからなのかも知れない。
というのは、待合室が初めてだという意識もあるが、それ以上にここで待っている連中が今の自分と同じ立場の人間であると分かっているにも関わらず、
――絶対に自分はこいつらとは違うんだ――
と思いたかった。
それが自分の中で矛盾となって生まれてきて、その矛盾をいかに正当化させるかということを考えるようになると、待合室で感じる、
「待っている間の緊張感」
だけは、誰であっても同じだということで正当化を考えるようになった。
素朴な考えだが、これが一番しっくりくる。だが、今自分が感じたような思いを、ここで待っているこの連中が感じていてほしくないという思いもあった。
やはり自分の中で根本的に、
――自分はこいつらとは違うんだ――
という思いがあるからだった。
部屋にはマンガが置いてあり、奥ではテレビがついていて、昼のワイドショーをやっていた。
「夜になると人が多くなるので、昼下がりのこれくらいの時間が一番いいんだ」
と連れてきてくれた先輩は言っていた。
一番いい時間でこれだけの人がいるということは、夜になるともっと待合室は混むということだろうかと考えたが、
「夜は皆予約してくる人が多いので、それなりに流れは早いんだ」
と教えてくれたが、昼は飛込のような人がおおいのだろうか?
中には飛込のような人もいるが、そうでもないように思える人もいるような気がする。そう思うと、皆やっていることは似たようなことをしているのに、醸し出す雰囲気が違って感じられるのは、予約の有無もあるからだろうか。
中西はテレビを見ながら、絶えず室内を見渡していた。人の観察だけではなく、室内の壁などを見ていると、目のやり場に困ってしまうくらいになった。
壁にはこの店の所属している女の子が下着姿でニッコリと笑ったポスターが貼ってある。どうやらプロの写真家が撮ったのであろうが、ポーズも決まっていて、皆綺麗に写っているので、もし指名するとすれば誰にするか迷うところである。
ただ、もう指名する相手は先輩が決めてくれているようだった。そのことは話してくれなかったが、落ち着いているのを見るときっとそうなのだろう。
待合室に入ってからの先輩はまるで他人であるかのように中西に話しかけてはくれなかった。
――連れてきてくれたのはありがたいが、放置プレーは困ったものだ――
と思っていた。
ひょっとすると、店に入ると友達同士でも他人のふりをするというのが、こういうところでの暗黙の了解と言えるのではないかと思ったが、どうやらそうではないようだ。
確かに友達と思えるような人でも、マンガを見たりして皆思い思いのことをしている。要するに、待合室というのは、これからのプレイへの準備段階であり、気分を盛り上げるためには、一人でいる方がいいに決まっている。
何といっても、待合室を出れば、そこから先は女の子と二人きりの世界なのだ。友達とは隔絶された世界である。そうでもなければ、わざわざ大金を払ってお店に来る必要もない。
初めての待合室で、そんなことを考えていると、気が付けば、待合室のメンツは半分以上が知らない人に変わっていた。人数もさっきよりも少し減ってきていて、女の子の準備ができて呼ばれて行った人よりも、新しく来店した人の方が少ないと言えるのではないだろうか。
――この待合室に入って、それくらい経ったのだろうか?
時間を見る限り、十五分以上は経っていた。
これくらいの時間が果たして長いのか短いのか分からなかったが、中西にはどちらともいえない気分になっていた。
ただ十五分という時間は自分には意外だった。最初は長いと思ったが、よく考えてみると長いと感じる根拠がどこにもない気がしてきた。かといって短いと感じるわけではない。やはり最初の直感通り、長かったと感じるのが自然なことなのだろう。
中西はマンガを射ているわけではなく、テレビの画面を見ていたが、意識として入ってきているわけではなかった。ただ、画面上見えているものを、聞こえてくるものとを、ただ受け入れているだけだった。そこに感情はなく、時間だけが過ぎ去っていたのだった。
「七十五番のお客様」
と呼ばれ、無意識に番号札を見ると、呼ばれたのが自分であることに気付く。
その頃になると、最初の緊張は消えていた。十五分という時間が緊張を打ち消してくれたのか、それともいよいよ自分の順番ということになって、肝が据わってきたということなのか、中西にはハッキリと分からなかった。
だが、表に出て、男性スタッフから、
「お待たせしました」
と言われた時、さっきまでの胸の鼓動とは違ったドキドキした感覚が新たに生まれたことで、最初の緊張が切れていることに気付いた。
禁止事項の確認のあと、
「カーテンの向こうに女の子がおりますので、どうぞお楽しみください」
と言われ、送り出された。
――いよいよここからがメインイベントだ――
と思い、カーテンを開けて中に入った。
すると、ネグリジェのような衣装をまとった女の子が、腕に纏わりついてきたのである。完全に恋人気分だった。
今まで彼女がいなかったというわけではないが、いきなりこんな関係になったことはない。というよりも、こんなことをしたこともなかったことを思い出した。
最初は付き合っているわけではないので、友達から入る。そのうちにお互いを気にするようになって、どちらからともなく付き合うという構図が出来上がる。
しかし、その頃にはいわゆるカップルとしての新鮮さはなかったような気がした。イチャイチャしようという気分にはならない。元々知り合いだったという感覚で、付き合い始めるとそこは、
「大人としての付き合い」
に従事するようになる。
そうなると、好きな人との関係がどのようなものかということを思い知らされる気がした。
それまでは徐々にではあったが、相手が自分に近づいてきて、付き合うということになり最接近したという意識になってくる。そうなると、そこで一度立ち止まって自分が相手に考えていること、相手が自分をどのように思っているのかということを確認しないわけにはいかないと思うのだ。
それは、接近することだけを見てきたために、まわりを見ていなかった自分に気付いたということでもある。気付いたということは気付かせてくれた何かが存在するということであり、それが自分の潜在意識によるものなのか、相手のコンタクトによるものなのか分からない。そう思うと、ここまで近づいた相手に一歩立ち止まって、まわりを見る気持ち、そして、客観的に自分を見るということをしなければいけないと思うようになっていた。
だから、この時相手の女の子にされたようなイチャイチャはありえなかった。
だが、相手は恋人でも彼女でもない。いわゆるその時間だけのカップルでしかない。よくよく考えてみれば虚しく思えるのだろう。実際に新鮮で嬉しい気分の反面、相手が恋人でも彼女でもないという意識は強かった。むしろその思いを持っていないといけないと思っていた。
なぜなら、それが現実であり、いくら好きになったとしても、それは虚空でしかないということが分かっているからだ。
今まで、お互いに付き合うことになるかも知れないというところまでは行く。そのまま付き合うこともあったが、本当にお付き合いというものをしたのかどうか、自分でも分からないくらいになっていた。
だから、この店での時間内だけとはいえ、カップルになれるのは新鮮だった。
――俺はこれを求めていたのだろうか?
とさえ思うくらいで、彼女に誘導されるように個室に入る時は、心臓はバクバクとなっていた。
一度、萎えてしまった心臓がまたしても爆発寸前になった。最初の時よりも胸の鼓動は激しかった。その時、思い切り抱き着きそうな衝動をよく抑えられたものだと感じたほどだった。
部屋に入ると、思ったよりも明るくてビックリした。
元々、こういうお店の情報は、テレビなどで見たことがあったが、ほとんど薄暗い部屋で、熟女が感情もない状況でサービスしているのを見るだけだったからだ。よく考えてみれば、そんなシーンを写すのは、ほとんどがその女の子が主人公で、
「いかにどんな劣悪な環境に追い込まれていたか」
ということを示すための映像だったからだ。
大げさな部分は多分にあり、その大げささが大きければ大きいほど、彼女に対しての感情が一方通行で示される。それが制作側の意図であることは、さすがに中西にも分かった。大学時代のその頃、自分が脚本を書くということに携わっていることだったからである。
「これも一つの経験だ」
とありきたりなセリフだけで先輩についてきたが、来てみると、どこか後ろめたさを持っていたはずなのに、途中からその後ろめたさは消えていた。
どうして消えてしまったのか分からなかったが、ひょっとすると、テレビで見た先入観とはまったく違ったお店に対して、自分の中で初めてだという意識に新鮮さが強く影響したのかも知れない。
お部屋に入ると、これもビックリで思ったよりも広かった。
「このお店はお部屋も結構広いでしょう」
と女の子が言っていたので、きっと他の店はもっと狭いのかも知れない。だが、やはり通路といい、部屋の中といい、明るさが普通だったのは、安心に繋がるものだった。
さすがに赤い照明というのは生々しくて嫌な感じだったが、
――せっかく経験するのだから――
という思いもあり、テレビのような大げさなお店であったとしても、それはそれで悪くはなかっただろう。
「僕、初めてなので、よく分からないんですよ」
と正直に言うと、
「そうなんだ。じゃあ私は最初なのね。最初に私を選んでくれて嬉しいわ」
と言った。
フリーではなく指名だったので、彼女は自分が写真指名をしたのだと思ったのだろう。せっかくそう思っていてくれているのであれば、先輩が指名してくれたという本当のことを明かす必要もないと思った。
――どうせ、今日だけ、この時間だけの相手なんだから――
と思った。
だが、思った瞬間、急に虚しさを感じた。虚しさというよりも罪悪感に近いものだった。それはきっと彼女を目の前にして感じてはいけないことを感じてしまったからではないかと中西は思った。
この日のこの時間と感じるということは、
「自分がこの娘との時間をお金で買った」
という一番感じたくないと思っていることを、自ら納得させるようなことを考えたということになる。
その考えは間違いではないし、需要と供給の一致から生まれた関係なのだから、どんな表現をしても、それ以上でもそれ以下でもないはずだった。ただそこに感情が絡んでくることで、
「楽しみ」
そして、
「サービス」
というものが生まれる。
中西は、そんな難しいことは考えたくないと思っていた。
実際にはもっと難しいことを考えているのだが、ここでいう難しいことというのは、
「自分を納得させるために、もっと難しい発想を作らなければいけない」
と感じることであった。
お部屋に入っての彼女はお店で教えられたサービスをしてくれた。その間にいろいろ話しかけてくれるのだが、その気遣いが嬉しかった、なぜなら何度も話をしている友達と話をしていても、それなりに緊張する自分なのに、その緊張感を打ち消そうとしてくれているような素振りに気遣いを感じるからだった。
実際に緊張はほぐれていた。何をどう接していいのか分からないという感覚はすでになかった。
きっとそれは、お部屋に入ってから二人きりなのに、すぐにプレイに入らずに、最初は会話で気分を晴らそうとしてくれたからだろう。一定の会話が途切れると、静寂が訪れ、再び緊張したが、すかさず唇を重ねてくる彼女に誘導されながら自分も唇を重ねると、すでに胸の鼓動は収まっていて、静寂の中でそれまでに感じたことのない耳鳴りのようなものがしてくるのを感じた。
――これが耳なり?
と思うほど、今までに感じた耳鳴りとは違い、心地よささえあった。
しかもまわりを支配する空気が湿気に満たされているのを感じいると、自分の身体は湿気を帯びた空気という水の中に溶けてしまうのではないかと思うほど、とろけてくるのを感じた。
唇を重ねている時間、中西は時間の経過を感じようとしていた。せっかくの決められた時間、その時間を思う存分使うには、時間というものの把握が必要だと思ったのだ。
実際に時間の経過を考えていると、唇や舌以外をまったく動かそうとしないその娘と一緒にいると、その場が凍り付いてしまったかのような錯覚を覚えた。
――時間が止まってしまったのだろうか?
と考えたが、よく考えると違っている、
――時間が止まったわけではなく、自分たちが動いていないだけで、時間だけは過ぎているんじゃないか?
と思った。
それは普通の精神状態であれば誰もが感じることだった。
だが、今までに感じたことのない静寂の中での湿気を帯びた空気によってもたらされた時間を、普通の精神状態で過ごすことがもったいないと思えた。
――やっぱり時間が止まっていると思いたい――
と感じると、本当にこの部屋の時間だけが凍り付いてしまったかのように感じた。
まさかそんなバカなことがあるはずはないと思うのだが、そう思えば思うほど、架空の発想が頭をもたげてくる。
――今だったら、小説だって書けるのに――
たった今まで二人だけのこの時間を邪魔されたくないと思っていたくせに、小説のことが頭をもたげた瞬間、急に時間が動き出した気がした。
――自分の精神状態によって時間が止まったり動いたりするということを、真剣に信じてしまいそうだ――
と思ったが、それこそが、時間というものの正当性のように思えた。
時間というのは、絶えず同じスピードで過ぎているという発想は、もはや妄想ではないかと思えるほどになっていた。
「大体、誰が決めたというのだ?」
時間というのは、人間が自分たちが生活していくうえで、都合よく決めたものであって、ハッキリとしたことを概念で説明することができないものである。
確かに、時間という刻む感覚は人間以外でも感じているのかも知れないが、他の動物の世界ではどのように捉えられているのか、分かったものではない。
以前読んだ本の中で印象に残った話を思い出した。
あれは確か短編だったが、スナックに入った男性が、シラフであるにも関わらず、店の中にいる時間と、表の時間でまったく流れが違っているということを常連の男性から聞かされて、最初は信じられなかったが、店を出てからいつも帰宅している道を歩いているのに、一向に家に着く気配がなかった。
どうやら袋小路に入り込んでいるようで、まったく同じところをグルグル回っているだけだった。同じところを何度も歩いているはずなのに、その意識が本人にはない。ただ、
「なかなか家に着かないな」
という意識だけがあるだけだった。
本人がそう思うからくりとして考えられるのが、なかなか家に着かないという発想を、いつも違うところで感じていると思っていたが、実際にはまったく同じところで感じていたからである。
その時に一瞬であるが、
――あれ? 前にも感じたことがあったような――
という意識があった。
まるでデジャブのようだが、それから彼がいずれはその袋小路から逃れることができるようになるのだが、それが、自分なりに理屈をつけることができて、納得できたからなのだが、
「袋小路に紛れ込んで、その中で意識していないのに、まったく同じ場所で同じことを考えている。袋小路自体が信じられないので、自分の中で同じ場所で複数回同じことを考えるなどありえないと思う」
これが、デジャブの説明になるのではないかと思った。
ひょっとすると、これは夢の世界でのことなのかも知れないが、もしそれが本来の意識の中で感じていることであれば、現実だったともいえるのではないだろうか。
袋小路を感じることを自分の中で拒否することが、時間というものがすべて同じタイミングで刻まれているということに疑問を感じさせない。きっと時計なる器具があることが理由の一つなのだろうが。
そんなことを大学時代に感じていたのを思い出していた。
長い口づけと抱擁が終わって、中西は今感じたことを忘れてはいけないと思い、カバンの中からメモ帳を取り出して、そこに書き込んだ。このメモ帳は以前から何か思いついたことがあればどこででも書けるように持ち歩いていたものだった。
「それ、何ですか?」
「ああ、これはね、ネタ帳とでも言えばいいかな?」
「えっ、作家の先生なんですか?」
「いやいや、僕はまだ学生で、サークルで文芸関係をやっているので、そのためのネタ帳をいつも持ち歩いているんだ。この間は脚本だったんだけど、今度は小説に挑戦してみようと思ってね」
と言って、今感じたことを少し端折りながらであったが、話してみた。
「面白い発想ですね。私も夢を見たりした時、夢についていろいろ考えたりすることが時々あるんですよ」
「というと?」
「夢って、目が覚めるにしたがって忘れていくじゃないですか。それで覚えていることと言えば怖いことが多かったりするんです。だから、最初は忘れていくという感覚がなくて、最初から夢なんか見ていなかったんだって思ったんだけど、そうなると怖い故しか見ていないことになる。それも怖いと思ったので、逆の理論で、夢って忘れるものだって思うようになったんです。それを友達に話すとですね。私もまったく同じようなことを考えていたって言っているんです。でも、それからしばらくしてまた同じような話をすると、今度は前と違って、まったく違う発想だっていうんですよ。おかしいでしょう?」
「それは同じ人に対してなんですか?」
「ええ、そうなの。前に話した時とまるで別人なんじゃないかって思うほどだったわ」
「ひょっとすると同じ人なんだけど、別人なのかも知れないよ」
「えっ、どういうこと?」
「ひょっとすると、もう一人の自分がいるのかも知れない。僕は同じ怖い夢を何度も見ているって言ったでしょう? その夢の代表的なものが、もう一人の自分と夢の中で会うというものなんだよ」
「それは怖いですね」
「うん、これが夢だからよかったんだけど、なぜかというと、君はドッペルゲンガーという言葉を聞いたことがあるかい?」
「聞いたことはあるけど、どんなものなのかは知らないですね」
「ドッペルゲンガーというのは、『二重歩行』とも訳されるドイツ語なんだけど、もう一人の自分が存在していて、その人を見るということがこの発想なんだよ」
「それは怖いですね」
「自分で自分を見る以外にも、他の人が目撃してもドッペルゲンガーというんだ。でもドッペルゲンガーは本人の行動範囲以外に現れることはない。もしいたとすれば、それはただ似ている人ということになるらしいんだ。そして自分で自分のドッペルゲンガーを目撃すると、その人はすぐに死んでしまうという言い伝えがあるんだよ」
「それは本当に怖いですね」
「僕はその話を後になって知ったんだけど、自分が覚えている一番怖い夢が、もう一人の自分を見るという夢だったというのも、そう考えるとまんざらでもないような気がするから不思議なんだ」
中西はドッペルゲンガーの話を書いたこともあった。だが、それを発表しようという気にはならなかった。
書くまでは結構いろいろな発想が頭の中にいろいろな発想が浮かんできたので、思ったよりも早いスピードで書き上げることができたが、書き上げてしまうと、急に不安になった。
それは作品の内容に関してもそうなのだが、
「ドッペルゲンガーを見ると死んでしあう」
という話を主出したからだ、
都市伝説のような迷信に違いないと思うのだが、迷信にしては、かなりたくさんの著名人がドッペルゲンガーを経験したことによって死んでいる。
自殺、暗殺、死に方はそれぞれであるが、それ以前に、同じ次元で同じ時間、別の場所で自分が存在しているなど、考えれば考えるほど恐ろしい。
有名なところでは芥川龍之介だったり、アブラハズ・リンカーンなどがいるが、彼らの特徴は、ドッペルゲンガーを何度も経験しているということだ。一度だけなら信じられないことでも二度起きれば信憑性は限りなく高くなってしまう。
「二度あることは三度ある」
ということわざもそのあたりから来たのではないだろうか。
先ほども書いたようにドッペルゲンガーの行動範囲は、その本人と変わらない。つまり、本人が行ったことのない場所には出現しないということだ。
そう思うと別の発想が生まれてくる。
「過去の自分を見ているのではないか?」
という発想である。
同じ次元に同じ時間、存在できないのであれば、次元を歪めて、時間を超越したと考えれば、それなりに信憑性があるのではないか。そう思うとそれまでできなかった説明もつくのではないかと思えた。
またドッペルゲンガーの特徴としては、
「決して喋らない」
とも言われている。
喋らないのも、次元や時間の違う自分が相手だからという見方もできるだろう。
さらに、自分のドッペルゲンガーを見ると死ぬという伝説も、考えてみれば、次元や時間を超越することへの警鐘なのかも知れにあと思うと、これも信憑性が生まれてくるような気がする。
そんなことを考えていると、小説にしてそれを公開するということが急に怖くなってきたのだ。
それはドッペルゲンガーに限らず、すべての超常現象に言えることだが、イメージが湧いてきてどんどん新しいストーリーを完成させていくことで、生まれてくる発想に新鮮さを感じるのに対し、不安が募ってくるのも事実で、そんな不安を払拭できないでいることへの恐怖が襲い掛かったくる。
風俗を始めて体験したその日から数日が経ち、自分が風俗に行ったという事実がまるで架空のことのように思えてきた。
だが架空にしてしまうと、あの時に遭ったあの娘も否定してしまいそうで、それは嫌だった。
それならばと、彼女と一緒に話をしたことだけでも忘れないようにしようと思い、時々思い出していたが、そのたびにその内容が少しずつ変わってきているのに気が付いた。
前述のようなドッペルゲンガーの話が一番印象に強く残っているのだが、果たしてそれはすべて会話によるものだったのかが自信がない。
――もしかして、その場面を客観的に見ていたのではないか――
と思っていたが、それもまんざらではないと感じたのは、話の内容がドッペルゲンガーだったからなのかも知れない。
――普段の自分なら、もっとリアルに感じるのではないか?
という発想は、ある意味普通の発想であったが、この時は違った。
逆に、
「あの時のことをピンポイントで思い出すと、思い出の中にこそ、リアルさが感じられる」
という思いがあったのだ。
そう思うと、あの時の自分が今の自分ではなく、ひょっとするとあれこしがドッペルゲンガーで、今の自分の身体の中にいて、あの時のことを思い出すと表に出てくることで、余計にリアルな感覚を味わうことができるのだと思うと、自分に対しての説得力は大いにあった。
そのことを小説に書こうと考えていた。そうすれば、発想はいくらでも出てくる気がしたからだ。
しかも、思い浮かべるのは自分であって自分ではない。ドッペルゲンガーだと思うと、余計に思い浮かぶのだった。
だが、思い浮かぶ反面の怖さは、絶えず持っていた。不安が憤りに変わり、恐怖へと変わる。普通のことであれば、不安が憤りに変わっても、恐怖にまでは行かないだろう。それを恐怖だと感じるのは、ドッペルゲンガーというものを信じているからに違いない。
恐怖というものが果たしてどこから出てくるものなのか、中西は考えたことがなかった。いや、考えたことはあったのかも知れないが、忘れてしまうという作用に見舞われてしまっている。
それは覚えていたくないという意識からなのか、それとも果てしなく広がっていく恐怖を打ち切りたいという思いからなのか、その両方なのかも知れない。
頭の中にある発想を、ネタ帳に書き写す。それもわざと汚い字で書いた。元々ネタ帳を綺麗な字で書くことはなかった。その理由は、人に見られた時、
「何を書いてるんだ」
と言われて、それを説明するのが億劫だったからだ、
「趣味で書いている小説のネタ帳」
というだけでは済まない気がした。
別にそれだけであれば問題ないのだが、
「どんなジャンル?」
であったり、
「投稿とかしないの?」
などと言われて、いちいち言い訳がましい話をするのが億劫だったのだ。
嫌だと言ってもいいかも知れない。
それにネタ帳は、
「思いついた時、いつでもどこでも書き留めておけるようにするため」
という理由があった。
だから、歩きながらでも思いつけば、立ち止まって書くことがある。そんな時、綺麗な字で書くなど結構難しかったりする。そのため、限りなく意識しているに近い無意識な状態で、ネタ帳を汚い字で書く癖がついてしあったのだろう。
ネタ帳はその当時で三冊くらいになっていた。箇条書きのようで、少し違う。ネタ帳を元に書いた作品もいくつかあるが、まだ長編を書くほどまでに小説を書き込んでいないのだが、実際には、
「短編、中編の方が難しい」
と言われている。
中西の書く小説の特徴として、
「一人称目線が多い」
というものだった、
今までに読んだ小説のほとんどが三人称目線であるにも関わらず、一人称目線になってしまうのは。、
「まだたくさん書いているわけではないからだ」
と思っていた。
まるで日記か作文を書いているような感覚で書けることが一人称目線で見る特徴ではないかと思っていた。
確かに、書き方の基本は時系列に沿った形が根幹にあるということだった。時系列を中心に書いていると、縦目線になってしまうのは仕方のないことで、最初に考えるのは全体像だった。そこからバランスを考えながらストーリ^展開を考える。そのために一人称での書き方は楽でもあった。
小説の基本である「起承転結」や登場人物なども、時系列を基本に考えると結構思い浮かぶものである。
大体どれくらいの分量かによって、全体の時系列、あるいは全体の時間が決まってくる。そこが決まってくると、今度は登場人物の人数などがおのずと決まってくるというものだ。
そのあたりは、ネットであったり市販されている、
「小説の書き方」
などに基本項目として書かれている。
さらに、設計図である「プロット」の書き方も基本的なことは書かれているが、中西にはまだプロットを作成してからの執筆はうまくいかない気がした。
「プロットを作ってしまうと、それに沿って書かなければいけないというプレッシャーに陥ってしまう気がする」
と思っていたからだ。
また別の理由として、
「プロットを完璧に近いもので書けば書くほど、書けなくなってしまう」
という思いがあった。
その理由として。
「プロットを作成したことで、半分以上目的を達成した気分になって。進まなくなるのではないか」
というものであった。
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