どちらかが彼女にキスをした。

よなが

本編

 いつも傍らにいる二人の影がそこにない。

 

 白瀬麻衣しらせまいは地下鉄のホームの端、三つ並んだベンチの一つに座る姫野玖美ひめのくみを見つけた時、まずそう思った。そしてこの時間帯、すなわち午後六時過ぎに玖美を見かけるのは麻衣にとって初めてである。

 麻衣は、乗る予定の電車がホームに四両編成で到着するとアナウンスが今まさにされているにもかかわらず、自然とその足を玖美のもとへと進めていた。

 玖美の目の前には電車が止まらないのがわかっている麻衣だ。一方で玖美は広告さえ掲示されていないトンネルの壁をぼんやり眺め続けている。

 すぐ隣まで来た麻衣が「姫野さん?」と声をかけると、玖美は肩をびくっとさせてその顔をゆっくりと声の主へと向けたが、その焦点はどうにも麻衣に合っていなかった。


 小柄な彼女がいっそう小さく見えた。

 教室ではいつも元気そうにしている玖美を麻衣は知っている。元気すぎると言ってもいいぐらいで、麻衣が属する比較的物静かなグループにはない溌剌さがある。その彼女が、今は生気を失った表情をしている。しかし単に無気力という状態ではなくその瞳には憂いがあり、悩みを抱え込んでいるのだというのが親しくない麻衣にも見て取れた。

 とりあえず「大丈夫?」とまた声をかけようとした麻衣であったが、それは電車がホームに到着し、降車する人々の音でかき消される程度の大きさでしか発されなかった。


「あ……白瀬さん?」


 電車と人の波が失せ、ひたすらに静かで薄暗いホームが戻ってきてから、玖美がやっと麻衣をそうだと認識したような目つきになった。

 

「調子悪そうね。助けがいる?」


 麻衣は隣に立ったまま、そう口にした。玖美は微かに首を横に振り、それから腕時計で時刻を確認する。文字盤がピンクゴールドをしていて、それよりも濃い色のレザーバンド。アナログだが数字が並んでいない。玖美の趣味にしてはいささか大人っぽく、言い換えれば可愛げがないと麻衣は感じた。誰かからの贈り物かもしれない、たとえばそう、いつもいっしょにいる二人のうちのどちらか。


「えっ。もうこんな時間なんだ……あはは」

「そんな笑い方、姫野さんらしくないわね。ねぇ、よかったら――――話を聞くわよ。聞くことしかできないかもだけれど」


 麻衣は玖美の隣に腰掛けた。薄汚れたベンチはひんやりとしていて、十月になって衣替えしたばかりの制服のスカートにその冷たさが伝わってきた。


「そんな悩んでいるふうに見えちゃった?」

「ええ。誰がどう見ても。駅員さんに、飛び込むんじゃないかって心配されなかった? そうじゃなくても姫野さんみたいな可愛い女の子が一人でそんなふうにしていたんじゃ、いつ誰が悪意を持って近づいてくるかわからないわ」

「悪意?」

たちの悪いナンパとか」

「まさか。私みたいなちんちくりんに声をかけてこないって。えっと、白瀬さんはこんな時間まで生徒会活動?」

「文化祭が近いから。先輩たち、一年生の私にも容赦なく仕事をどんどん振ってくるの。自分たちが一年生の頃は、もっと大変だったってね。さながら戦国時代みたいに話すのよ? 田舎の名門と言い難い私立高校であるせいか、クラスによって学力差がかなりあって、それがそのまま素行の良し悪しの差に……いえ、そんなことはいいの」

 

 麻衣はいらぬことまでついつい話してしまったのを恥じて、咳払いを一つ挟んでから玖美に訊ねた。なぜ玖美が一人でこの時間帯にここにいるのか。


「実は帰宅部じゃなくなったんだ」

「というと?」

明梨あかり静夏しずかと私の三人で部活を立ち上げたんだ」


 嬉しそうに、いつもどおりに近しい笑みを浮かべる玖美だった。

 ただ、正確には同好会である。部活として認可されるにはクリアすべき条件がいくつかあるのだ。麻衣はそれを理解していたが玖美の話に水を差さなかった。


「手芸部でね、当面の目標はクリスマスまでにそれぞれが二人分の編み物をすることなんだ。三人の中じゃ、私が一番不器用なんだけど……」

「仲の良い友達同士で編み物を贈り合うわけね。とっても素敵。何かそこでトラブルが? きっとあの子たちと関係があるんでしょう?」

「わかっちゃう?」

「姫野さんたち三人が大親友ってのは、私含めてクラスメイト全員の共通認識だと思うわ。その姫野さんがこうして一人で帰るのを忘れて悩んでいる……普通ならあの二人が放っておかない。つまり、二人と何かあったと考えるのが妥当ね」

「わぁ、白瀬さんってまるで探偵みたい!」


 悩みを忘れて無邪気に褒めてくる玖美に、麻衣は照れくさそうに彼女自身の前髪に軽く触れた。

 苗字と真逆で、その艶やかな黒髪はクラスの男女に好評である。そして髪だけではなく顔立ちもスタイルも、絵に描いたような美人である麻衣に憧れている女子がちらほらいて、特別に好意を寄せる男子も少なくない。

 玖美は密かに、自分よりも断然「姫」が似合う女の子だと思っているのだった。


「でも何があったかまでは推理できないわね。何かの拍子に編み物が台無しになって喧嘩になっちゃった?」

「ううん、そういうのとは全然違う」


 スッと玖美からまた笑みが消える。そして視線は床に落とされた。麻衣は言葉を探した。「無理に聞かないわ」や「無理に話さなくてもいいのよ」という譲歩の表現はすぐに頭に浮かんだがそれは本心ではなかった。「話してみて」と言いかけて飲み込み、そして結局は待つことにした。

 玖美の判断に委ねる。もしもそこに秘密が絡んできたのなら守り抜く自負が麻衣にはあった。誰もが秘密を抱えているものなのだ、それをいたずらに侵すことはしない。


「白瀬さんは………」

「うん」

「キスってしたことある?」


 頬を赤らめてそう言った玖美に、麻衣は反射的に「どうして?」と返してしまっていた。それは麻衣の本心から出た言葉だったが、玖美が望んだ答えではなかった。

 けれど玖美は何も本気で、麻衣がキスをした経験があるかどうかを知りたがっていたのではない。これから話す出来事と関連があるというだけだったのだ。




 白昼夢。玖美はその出来事をまずそう捉えた。とはいえ実際には、それは二日前の午後五時に起こったことであり、十月中旬の太陽が沈みきろうとしていた頃合いだった。

 その時、玖美は西棟にある、手芸同好会の活動場所としてあてがわれた小さな部屋に一人でいた。

 綺麗好きの明梨は環境美化委員として月に一度の短い集会に参加するので、後で合流することになっていた。また成績が優秀でクラスの女子のうち、最も数学ができると言われている静夏は友人の一人に数学の課題で質問されて教室に残った。後者について言えば、普段の玖美であれば教室に残る選択肢があった。

 

「でもね、一昨日はすっごく眠かったの。教室から西棟まで行くのに半分眠っていたぐらい。ううん、なんだったら十割」


 それで動き回っているなら夢遊病者ではないかと麻衣はツッコミを心の中に留め、話の続きを促した。


 眠くてしかたがなかった玖美は部屋に着くと、パイプ椅子四つを合わせて、靴を脱ぎ、そこにすっかり全身をあずけた。少々、寝心地が悪くてもその時の玖美を襲っていた睡魔は彼女をすぐに眠りに誘った……はずだった。


「たぶん私が部屋に入ってから数分しか経っていなかったと思う。眠りかけていたところでドアが開いたの。私は十中八九、明梨か静夏のどちらかだと思った。そこでね、悪戯心が湧いたんだ」


 悪戯心……麻衣は、仮装してトリックオアトリートと笑う玖美をイメージした。それは可愛いらしい魔女の姿だった。魔女っ子というべきか。文化祭の前夜祭はちょうどハロウィンで、もしかすると本当にそんな玖美を見ることができるかもしれない。麻衣はそこまで考えて、そんなことは今はいいと自分を戒めた。


「どんな悪戯?」

「なんてことない悪戯だよ。私は何もしない。つまりね……このまま眠っていたらどうするんだろうって。部屋には椅子が四つしかないんだ。だから座るには私をどうにかしないといけない」

「なるほど――――普通に起こしてはくれなかったみたいね?」

「……うん」


 麻衣はまたあれこれと言葉が浮かんだが、全部しまい込んだ。それらをわざわざ言わずとも、玖美が話してくれると信じたのだ。そしてついさっき玖美が訊いてきたことを、今の話と結び付けるのも容易かった。


「入ってきた人がね……キスをしてきたの」


 下手に驚けば玖美を動揺させてしまうだけと思った麻衣は息を呑みつつも、平静を装って「そう」と最小限の反応をよこしたが、きまりが悪くなって言い足すことにした。確認も兼ねて。


「起きているあなたに。そうとは知らずに」


 玖美が肯く。そしてその眉根が寄る。


「でもね私、目を瞑ったままだったから今もわからないんだ。その相手が。出ていったんだ、キスだけして」


 その時の玖美は、完全に人の気配がなくなるか二人分が揃うまで目を閉じていようと決意し、実践した。

 相手に自分が起きているのを気取られてはいけない。相手から起こしてくるまでは。そうすべきだ、それが正しいのだ。そんなふうに玖美は考えた。


「けれど今は少しだけ後悔している。うっすらとでもいい。その人が去る前に目を開いて、せめてその背中を見ることができていたらって」

「……その後はどうなったの?」

「しばらくして、二人が話しながら入ってきて、すぐに明梨が『うわ! なんで寝ているのよ!』って。それで静夏が『おーい、姫野さーん、朝ですよー』って言って体を揺さぶってきたの」


 二人の声真似、似ていないな。麻衣はそれを伝える代わりに「それから?」と言った。


「これで終わりなんだけど、でもそれがはじまりというか」


 もじもじとする玖美に麻衣は「夢だった可能性は?」とこの件での現実的な落としどころの一つをぶつけてみた。


「あり得るよ」


 玖美は努めて笑顔を作るとそう返事をした。でも、その笑顔は崩れてしまう。


「でもね、もしもそうじゃなかったら? あれが現実だったら……もしも、二人のうちのどちらかが、私に――――」


 最後まで言い切らずに、ぺたっと玖美は額に左手を貼りつけ、大きな溜息をした。もう何度も何度も考えたことなのだろう。そしてその仮定の先に最高で最善な答えを見つけようとしている。見つけられてはいない。


「夢と同じぐらい可能性がある事象として」


 轟音とともに電車が一本、二人の目の前を通過してから麻衣は口を開いた。


「そのキスをしてきた相手は姫野さんと同じだったとしたら?」

「え、どういう意味?」


 玖美は目を丸くして訊き返し、麻衣は足を組み直すと落ち着いた調子で話す。


「芽生えた悪戯心によるものだってこと。可愛い親友が他に誰もいない部屋で眠っていたら、その唇に触れてみたくなるかもしれない。たとえば……指でね」

「私の勘違いでキスじゃなかったってこと?」

「そう。でも、した後で悔やんだんじゃないかしら。あなたが気持ちよさそうに眠っているのを見て、赤子の手をひねってしまったような心地になったとしたら」

「白瀬さん、私は赤ん坊じゃないよ?」

「ものの喩え、言葉の綾よ」


 麻衣は玖美の表情に秘密を感じ取った。つまり、玖美は麻衣が話してみた可能性について納得していない。賛同できない顔をしている。しかもそれはどうやら、あの二人のどちらともがそんな悪戯なんてしない――――という信頼に基づいたものではないみたいだ。


「姫野さん、何か隠している?」

「へっ!?」

「ああ、ごめんなさい。この言い方は卑怯ね。フェアじゃなかったわ。ええと、ひょっとしなくても二人からそういうアプローチをかけられた覚えがあるんじゃない?」

「そういうアプローチ」


 玖美は疑問符をつけることなく、ただ単に麻衣の言葉を復唱した。麻衣はそれが意味するところを、より直接的に説明するか迷ったが、玖美の頬にまた赤みが差したのを見て取り、やめておいた。


「白瀬さんは名探偵だね」


 その呟きはさっきと違い、賞賛からほど遠い色をしていた。麻衣は思い出していた。玖美たち三人が仲良し三人組とみなされているのと同時に、一部の人間からはそれ以上の関係を噂されているのを。

 

 執着、いや、依存。

 

 その二文字が麻衣の頭にあるのだ、明梨と静夏の普段の様子から玖美に寄せる態度を根拠に。あの二人は一見すると玖美をお世話するしっかりタイプ。しかしその実、玖美がいないと彼女たち自身の存在意義をも見失ってしまう子たち。

 

 麻衣は軽く目を閉じて静かに息を吐いた。こんなの妄想だ。スキンシップをする玖美たちに「あんたら、系なんじゃないの~?」と冗談めかして笑う女子生徒よりも、質が悪い想像ね。

 

 目を開いた麻衣は黙り込む玖美、話すか話さないか迷っている面持ちの彼女に「話したくないのなら話さなくていいのよ」と口にした。


「ううん、話すよ。聞いてくれる?」

 

 肯いた麻衣に玖美は本の頁をめくるように話し始めた。


「明梨と静夏は小学一年生からの幼馴染なんだ。それでね、私は中学生のときにそれぞれ別のタイミングで二人から告白されたことがあるの。……うん、愛の告白。明梨も、静夏も、私と友達のままなのがつらいって話してくれた。本当は友達じゃできないことをしたい、独り占めしたいんだって。いつも話し上手な明梨が泣きそうな声で、途切れ途切れにそれを打ち明けてくれて、いつも大人しい静夏はすごく熱っぽく自分の気持ちを伝えてくれたんだ。根っこは二人とも同じだった。私は……どっちも断った。私が望んでいるのは女友達三人。それを壊したくないって。我儘だなって自分でも思うよ。けどね……二人は受け入れてくれた。玖美がそれを望むならって」


 ぽろぽろと。

 玖美が泣きはじめて、麻衣はその横顔に見蕩れた。小動物とも人間の赤子とも違う、そこには可憐な少女の泣き顔があり、悲痛が溢れていた。 


「その告白から一昨日まで、私の頭にあったのは三人で仲良く過ごすってことだけだったの。喧嘩したくない。二人に喧嘩してほしくない。たとえいつかは壊れてしまう関係であっても、それはたとえば二人に恋人ができて、それを私が祝福する形だったらいいのにって。それが自分勝手で残酷な願いだと知っていても、それでも本気で思っていた。三人でいたい……! 私は、二人のことが大好きだから……!」


 麻衣はハンカチを取り出し、玖美の手を取るとそこに強引に握らせた。麻衣自身がそれを使って玖美の涙や鼻水を拭うのは許されないと感じた。あの二人がそれを許してくれないだろうと。


「秘密のキスと、逃げ出したことで悟ったの。ずっと我慢させていたんだって、ずっとずっとつらい思いをさせてきたんだ。ぜんぶ、ぜんぶ、私のせいだって。私が二人みたいに恋に落ちることができたのなら! ちゃんと好きになれたのなら! それでいっぱいいっぱい考えて、どちらか一方を選ぶ。それがきっと正しいことなんだよね? 傷つけたくなかったんじゃない、ただ傷つきたくなかっただけって馬鹿な私は一昨日までわかっていなかったの! 私はとんだ悪女だよ!」


 玖美がハンカチを持ったまま、両手で顔を覆い、背中を丸めた。

 やがて声は聞き取れなくなり、嗚咽だけになっていく。

 

 麻衣は震える背中を眺めて呟く。


「あの部屋はあなたたち、三人の聖域だったのね」


 その言葉は床や壁に吸い込まれ、本格的に泣きじゃくり始めた玖美の耳は届かなかった。ひとしきり泣いた玖美がようやく顔を上げてその目元から涙を流さなくなった頃、麻衣はスマホを確認して眩暈がした。さすがにもう帰らないといけない時刻だ。


「ご、ごめんね。付き合わせちゃって。白瀬さんに話してみて……ちょっとだけ気が晴れたかも」


 相変わらず曇った表情、掠れ声で玖美が言う。「いいのよ」と麻衣は玖美の頭を撫でた。これぐらいはいいだろうと思った。

 この子とあの二人の関係は自分が想像していたよりも深くて重い、と麻衣は溜息を堪え、手を離して立ち上がった。

 

 麻衣の動きに合わせて、玖美もゆらりと立ったが、しかしよろめいた。麻衣がそんな玖美を抱きとめる。胸元に玖美の顔がもろにあたり、それから勢いよく玖美は麻衣から離れた。


 慌てて謝る。そうに違いないと麻衣は思っていた。

 しかし玖美の顔には恐れがあった。


「白瀬、さん…………」

「どうしたの」

「あなただったの?」


 電車が通過する。音と影。二人は見つめ合っていた。


「香りが……」


 ぽつりと水滴を垂らすように玖美が口にする。

 そしてその渇いた瞳にそれまでにない冷たい炎が宿った。


 玖美の震える声を麻衣は聞く。


「香りが、したの。今、白瀬さんから。あの時の香りが。今の今まで気のせいだと思っていた、だってそれはないって。それは記憶違いだって。だってまさか――――


 恐れが驚きに、そして怒りに変わっていく。燃え上がる。


「姫野さん? あなたは誤解をしているわ。落ち着いて。香りだなんて、そんな、私の香りはべつにそんな……」


 麻衣は知らない。彼女の香りが特別にいいことを。それがクラスメイト何人かを夢中にさせているのを。その何人かの中に玖美はいない。でも噂ぐらい聞いたことがあった。


「なんでキスしたの。なんでっ、私たち三人の場所に踏み込んでそんな真似ができるの!?」


 玖美が麻衣の胸倉をつかみ、激しく体を揺さぶる。


「なんでっ!……なんで、なんでなのっ! ろくに話したことのないあんたが、なんでもないあんたがっ! 私の初めてを奪ったのよ!」


 狂乱の最中、麻衣は一昨日の放課後のことを思い出していた。

 

 まさか起きていたなんて。

 

 まず生徒会室に行った麻衣はそこで先輩から記入済みの、部活動および同好会設立届を渡された。顧問の名前も印もあるが、そこ以外での不備があった。先輩は「同じクラスの子でしょ。お願いね」と麻衣を遣わせたのだ。麻衣は活動場所として記入されている部屋へ向かった。

 

 そこで麻衣は眠り姫と邂逅した。

 姫野玖美、その人であるのはわかったが、でも麻衣はそんなふうに玖美を目にしたことがなかった。

 

 眠る玖美が格別に可愛かった。そして麻衣は欲情した。

 

 どんな言葉で飾り立てようとも結論はそうだ。ゆえに、麻衣は彼女に唇を落とした。欲に身を任せて。

 その口づけによって、まじないが解けたのは、麻衣の側だった。麻衣は自分が衝動的にしてしまった行為に腰を抜かしそうになったが、それには耐えて、三人の聖域を出たのだ。


 翌日には何食わぬ顔で明梨に用紙を渡した麻衣だ。麻衣は己の罪をなかったことにした。なぜなら、それを知る者は自分以外にいないと信じ切っていたから。そうだと信じなければ今まで積み上げてきた白瀬麻衣が崩壊してしまうから。麻衣は女の子を好きになったことはなかった。その日までは。


 叫び声とともに、玖美に揺らされる体。

 麻衣は抵抗を諦めた。いっそ、と視線を玖美から逸らして横に移す。この地下鉄ホームには飛び込み防止のゲートはない。そこへと自分を投げ出してくれればいいのにと思った。けれども玖美の力はしだいに弱まっていく。ついには手を離し、地面に蹲った。


 そのホームを先に去ったのは玖美だった。

 麻衣は親切心で誰かが彼女の肩を手で叩いて呼びかけるその瞬間まで、謝罪の文句を繰り返しながら、その場に立ち尽くしていた。失恋した少女の傍らには友人一人いなかった。

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どちらかが彼女にキスをした。 よなが @yonaga221001

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