孤独無視
今際ヨモ
孤独無視 (完)
「お嬢様、お食事の準備が整いましたよ」
白いテーブルクロスをかけられた長机。ぽつんと少女がひとり席に着いている。長く艷やかな頭髪に、黒黒と大きな瞳。それらの映える白い肌をお持ちのお嬢様は、緩慢な動作で顔を上げた。
父親によく似た通る鼻筋と、目元は母親似のような気がする。私の好きだった、あの女に。嫌気が差すほど両親の血を引いている彼女が、父親譲りの笑みで私を見ている。
「ありがとう、執事」
お嬢様は私を執事と呼ぶ。何らおかしなことなどない。この家の主達には名前で呼ばれることはないのだ。名前すら呼ばないのは、人として扱うほどの尊厳を持たないということだ。お嬢様に限っては敢えて名前を教えていないのだが、彼女も彼女の父親がそう呼ぶから、最早気にしていないのだろう。
慣れた手つきで食器をお嬢様の目の前に並べた。
クロッシュを開けるとき、私はいつも少し身構えてしまう。それを悟られないよう、鉄仮面を貼り付けたまま、銀の取っ手を持ち上げる。
──白い皿の上。弱りきったそれらが蠢くのは、非常に不快な光景だった。
黒光りする胴から、無数の足が生えている。本当は42本しかないのに、名前は百足という。皿から逃げ出してしまわぬよう、ある程度弱らせはしたが、死なせない。生きている方が美味しい、とお嬢様が言ったのだから、仰せのままに。
「戴きます」
広い部屋に少女の声が落ちる。ほっそりとした指先がナイフとフォークを摘んだ。フォークの先端が百足の体に突き立てられ、子気味いい音を立てた。百足は藻掻き苦しむように身を捩り、抜け出そうと試みる。でも無駄だ。お嬢様がナイフの刃を体に這わせてギコギコと鳴らし、切断する。溢れた体液が皿を汚す。フォークに貫かれ切れた体すら、未だ藻掻いている。
口紅の赤の隙間。足を蠢かせ、身を捩って最期の抵抗をする虫の半身が吸い込まれていく。誰かがゴキブリとエビの尻尾の成分が同じだと騒ぎ立てていたのを思いだす。百足もまた、虫ならば同じような成分なのだろうか。
「お味は如何ですか、お嬢様」
執事の仕事のうちに、百足の味の確認など含まれていない。それでも訊ねたのは、単純な興味であった。
物静かで淑やかな少女が、長いまつ毛を持ち上げて此方を見つめる。何か言いたげで、しかし何かを飲み込んだような面持ちだった。
「美味しいわよ。今日も有難うね、執事」
薄く笑む姿は、まるで絵画の中から飛び出してきた様。母親に似て、美しい娘に育ったものだ。
お嬢様は、呪われている。
この不幸なお嬢様は毒虫しか食べられなくなるという奇病を患わったのだ。
巷ではお嬢様と同じように、奇病というものにかかる人間が何人もいた。涙が真珠になるようになったとか、眠ると体中に氷が張るだとか。
治療方法は不明。特効薬は無し。命に別状があるのか、いずれ治るものなのか、何が理由で患わったのか、何一つ解明されていない。研究は進められているものの、難航しているそうだ。
私のように呪いだと呼ぶ人もいれば、奇病と決めつけ、直せない医者に怒りの矛先を向ける者もある。私はこれを呪いだと信じた。そのほうがいくらか都合が良かったのだ。
お嬢様はある日突然、普通の食べ物を口にすると吐き出すようになって、代わりに毒を持つ虫ばかりを美味しそうだと思うようになったらしい。試しに口に含んでみれば、美味と感じ、飲み込んでも体調に変化はなかった。普通の虫では駄目で、毒虫が良いらしい。彼女の家族は、最初こそ彼女の境遇を哀れんだが、毒虫を当然のように食べるお嬢様を見て、酷く気味悪がった。しかも生きている状態のほうが味が良い等と言い出すのだから、お嬢様と食事を取ろうとする者はいなくなった。
哀れで気持ちの悪い、可哀想なお嬢様。
「執事、貴方蠱毒というものを知っていて?」
淑やかに口元に手を宛てがいながら、不意にお嬢様が問う。その皿に盛られた百足が視界に入らなければ、ただの美しい娘だったのに。どうにも気持ちの悪い光景であった。
「ああ、ええ。何やらそういった呪術が御座いますよね。詳しくは知りませんが」
あら、知らないのね。お嬢様はくつくつと笑って、フォークに刺さった百足の胴を頬張った。シャリシャリと臼歯に砕かれる音がする。
「まず、沢山の毒虫を瓶の中に沢山閉じ込めるの。瓶の中で毒虫は殺し合って、生き残った最後の1匹は、死んでいった虫たちの怨念を抱えて呪いとなる。そして恨みのある相手の家の庭に最後の1匹を埋めると、家主が毒虫の怨念を受けて、酷い目に合うそうよ」
「へえ。それはまた、恐ろしい話ですね」
「ねえ執事。貴方、お父様が嫌いなのでしょう」
一瞬、頬が引きつる。お嬢様は何でもない顔をしている。まるで日常会話のように、私の触れられたくないところを不躾に撫で回す。
お嬢様の言う通りだ。私は学生時代、彼女の父親からいじめを受け続けた。とはいえ、私が悪いのだ。正確には私の親が。
私の父親は、飲酒運転をして人を撥ねた。その相手がお嬢様の父親なのである。事故の後遺症で、あの男は脚を悪くした。犯人の息子である私が恨まれるのは当然のことで、いじめのことを相談した母親には罰を受けなければならないのだと諭された。そうして誰もあの男の行為を咎めず、当然のこととしたために、彼と私は主人と奴隷のような関係になった。
学校を卒業した今ですら、仕事を紹介すると言ってあの男は私を、お嬢様の専属執事として雇った。拒否権はなかったし、毎食毒虫を与える仕事など、他にやりたがる人間もいなかったのだから、私が適任だったのである。
いじめだの毒虫の扱いくらいなら耐えられたのだが、あの男は私の愛した女を嫁にもらっていた。そのお陰で娘であるお嬢様は、二人の面影を色濃く遺しており、愛おしさと憎悪が入り混じって、堪らない気持ちになった。
今の惨めな気分、全てがあの男が原因である。嫌いなんてものではなかったが、お嬢様の問いに、私は静かに微笑むことしかできなかった。
構わず、お嬢様は話を続ける。
「私もお父様のこと嫌いよ。ねえ、知ってるのよ。だってお父様が自慢げに他の使用人に話してるのを聞いたの。学生時代、貴方をいじめ抜いて、この先の人生も一生こき使ってやるって言ってた。雑巾みたいに、ね? だから貴方、お父様のこと嫌いでしょう?」
「その話をしてどうされたいのですか。お嬢様は何をお望みなのですか」
いい加減耳障りになってきて、少し苛立った声が出る。しかし笑顔は崩さず。お嬢様は私の笑顔の裏を見透かすような、父親によく似た笑みで返して、淡々と続けた。
「皆はこれを病気だって言うけどね、病気なんかじゃなくて、これは呪いなのよ。私には分かるの。私の食べたもの全てが、毎日夢枕で囁くんですもの。痛い痛い、苦しいって。フォークで貫かれ、噛み砕かれ、段々と体が胃液に溶かされていくのが、熱くて痛くて苦しいんですって。私のことが恨めしいんですって」
皿の上でピクピクと動いていた百足に、フォークを突き刺す。そうして、頭から歯を突き立てる。パリ、と音を立てて頭部を失った胴から体液が滴る。お嬢様の口元を汚す。お嬢様はそれを赤い舌で舐め取って、凄艶と笑った。
「虫って、気持ち悪いわよね。毎朝毎昼毎夜、気持ち悪いものを食べてるのに、どうしてか美味しく感じるのよ。私って気持ちが悪いわね。一度だけね、家族で食事をしたことがあるの。お父様もお母様も、私のこと見ないようにしてた。話しかけても生返事で、私に話しかけてくれなくって。どうしてなのって聞いたら、やっとこっちを見てくれた。でもね、気持ち悪いって一言吐き捨てて、席を立ったわ。二人ともよ。酷いでしょう?」
フォークを皿の縁に置く。カツン、と金属の擦れる音。お嬢様は目を伏せたままポツポツと話す。
「そのとき、なんだか全部どうでも良くなっちゃって。両親共々ぶっ殺してやりたくなって、」
「お嬢様。そのような言葉を使うのは……」
「どうだっていいじゃない、もう!」
お嬢様は声を荒げ、机をバン、と叩く。水の入っていたワイングラスが倒れ、床に落ち、甲高い悲鳴を上げて爆ぜる。割れた破片がお嬢様の白い足を切りつけたようで、赤く一筋の線が流れる。
慌てて手当しようと駆け寄ると、お嬢様はキッ、とこちらを強く睨みつけてきた。
「ねえ、執事。私を家の庭に埋めてよ。生きたまま。出来るわね? 蠱毒よ、蠱毒。わかるわよね? 沢山の毒虫を殺した私は呪いよ。きっとお父様くらい殺せるわ」
美しい白皙を憎悪に歪めたお嬢様の表情は、実に父親に似ていた。私をいじめ抜くあの男も、憎悪に顔を歪めて、そのくせ笑っていた。あの冷たい双眸が恐ろしかった。
「ねえ、執事。こんな気持ち悪い毒虫捕まえてきて、私に食べさせる仕事、やってられないでしょう? お父様に復讐したいでしょう? ねえ、お願いよ、ねえ……ねえお願い……やってよ」
あの男とよく似た顔でこちらをじっと見てくる。憎らしいほど表情の作りがそっくりだ。蔑むような、憐れむような、見下した目で懇願してくる。その癖、目元は母親譲りなのだから、何とも複雑な気分になる。
お願いとは口先だけだ。その実、どこまでも傲慢な圧を押し付けてくる。お前は逆らえないだろう、とでも言いたげに。イエスと言え。目で訴えかけてくる。
しかし、私に主を殺すような勇気も気概も無かった。それに、人を殺すなんて考えるだけでも悍ましかった。確かに、このお嬢様の父親は殺したいほど憎たらしいが、母親はどうしても手に入れたいほど愛おしかったから。彼女によく似た娘を手にかけるなんて、考えたくもなかったのだ。
「私には、できません。お嬢様はこの先も生きていて下さい。大丈夫。私は貴方のお食事を用意することを苦だと思った事はございませんから」
嘘だった。でも、私の発言と共に驚愕と失望に歪んだその顔が、あの男にそっくりだったから。酷く満たされていくのを感じた。
断られるなんて想像もしなかったのか。お嬢様は暫く目を見開いていたくせに、すぐにこちらを睨んで喚き散らした。
「何よその目! 貴方も……あんたも、お父様やお母様と同じ目で私を見るのね? 哀れむのね? 貴方だって呪われた体の、可哀想な人間のくせに!」
呪い。そう。私も呪われた体だった。
体中の血管が蔦に変わり、所々に濃い紫色の花が狂い咲く体。蔦を引き千切ろうものなら、そこから血が溢れた。最早体の一部が花となっている。花の名前はロベリアと言うらしい。対して興味もなかった。
首筋から咲いた花を軽く撫でる。この花は、私の何を糧に美しく咲き誇るのだろう。自嘲気味に息を吐いて、お嬢様を見つめた。
「ええ。私も貴女も、呪われた身。同じ、不幸な者ですね?」
病気ではなくて呪い。彼女の父親、あいつに関わったものが呪われていくのだと、不幸になるのだと信じると、少しだけ気分が楽になる。事故にあった不幸な男。きっと、きっとそうだ。あいつ自身が災いを呼ぶのだ。可哀想なお嬢様もまた、あの疫病神の被害者なのだ。だから病気より疫病神の呪いだと思うほうが、いくらか気持ちが慰められたのだ。
皿の上でピクピクと脚を痙攣させていた虫を掴むと、お嬢様はそれを此方へ投げつけてきた。まだ生きている百足は、そのまま腕や顔に張り付いて、ワサワサと脚を蠢かせてくる。感触が気持ち悪くて、すぐにそれらを振り払った。床に仰向けに転がって、夥しい足をもがかせ、起き上がろうと必死になっている。汚らわしかった。
「……新しいものを、お持ちしますね」
踵を返し、部屋を出ていく瞬間、チラとお嬢様の方を盗み見る。彼女は床に這いつくばって、百足を口に押し込んでいた。体をうねらせるそれを手掴みにし、泣きながら咀嚼する。齧った破片から体液が溢れてベタベタと床を汚す。
汚らわしくて気持ち悪いと、本人もよくわかっているくせに。その味はこの世のどの食材より甘美な味わいなのだと語っていた。
哀れで愚かなお嬢様。あの男に良く似たお嬢様。床に這いつくばって涙する姿は、酷く気味が良かった。
良かった?
こんな女の子の顔を見て満たされるなんて。この嗜虐性は、まるであの男と同じではないか。でも、あの男の親族が苦しんでいる姿は至高だ。いや駄目だ、母親は私の愛した女なのだ。こんな醜い心、持ちたくない。
自己嫌悪と復讐心がせめぎ合って、最悪の気分で胃が満たされていく。
厨房の虫籠の中を見遣る。黒光りする体をしならせて、大量の百足が蠢いている。流石に多少は慣れてきたが、それでも生理的嫌悪感は拭い去れない。
私のような惨めな男は、死ねばいいのに。お嬢様なんかより私があの男を殺す呪いになれればいいのに。ふと思ったことと、衝動が突き動かす。
勿論、こんなものを食べたところで死ねる訳はない。人を殺せる呪いになんか、なるはずもない。そのくせ、虫籠の中の百足を摘むと、頭から齧りついてやった。
「うぇ、ぅ、ゲホッ……」
土のような味がして、生臭くて、とても飲み込むことなどできそうもない。口の中でまだ生きた頭部が、足が、舌の上で蠢いているのがよくわかる。
気持ち悪い。気持ち悪い。胃液がせり上がる。堪らず吐き出せば、喉が胃酸に焼かれて痛む。床に落ちた吐瀉物の中で、未だに百足が体をくねらせていた。
口元を拭う。可哀想に。お嬢様はこんな気持ちの悪いものを食べ続けなければならない体になった。死んだほうがマシだと思ったっておかしくないくらい、最悪の気分だろう。
「ちょっと、貴方何やってるの!」
声に振り向けば、お嬢様が扉から顔を出していた。嫌なところを見られたな。そう思いながら、まだ手の中でうねる百足の半身を見せて、微笑んだ。
「何をしているでしょうね、私は」
本当に、何をしているのか。
お嬢様は私の顔を見ると、悲痛に眉をひそめた。そんな顔、誰にもされたことがない。やっぱり父親とは違って、彼女は優しい子だ。
お嬢様が近づいてきて、そっと背中に手を回してくる。柔らかい肌が触れて、髪が甘く香る。何でこんなことをされているんだろうと考えていると、不意にお嬢様の唇が、私の口を塞いだ。
何だこれ。お嬢様は何を。
「さっきはごめんね、執事。私、本当はあんなことするつもりじゃなかったの。だって、貴方のこと愛してるんだもの」
唇を離したお嬢様が、熱っぽい目で私を見つめている。彼女の母親に似た大きな瞳が、面影を感じさせずにはいられない。あの女からはそんな顔、一度もされなかった、見向きもされなかった。あの男にそっくりの表情で、愛おしげにこちらを見つめている。
「……何ですか、それ」
思わず声を零す。口元を手の甲で拭うと、口紅の鮮やかさに彩られる。
お嬢様の気持ちも、現状も。もう何もかも、気持ちが悪かった。胃液に沈んだ百足が、未だに身を捩らせている。
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