第32話

▫︎◇▫︎


 走って路地裏に入ったベアトリスは迷わず転移魔法を使用してマリアの寮室へと転移する。


「うわぁっ!!」


 転移した瞬間驚く声が耳に入ってきて、そこでベアトリスはやっと、ほんの少しだけ冷静になれた。


(………私、許可も先触れもなく部屋に突入………しちゃったわね)


 涙目でぷるぷる震えて驚いている彼女はこの世界ではあり得ないぐらいに露出の多い部屋着で、ふかふかのカーペットの上に寝っ転がっておやつを摘んでいた。手に持っているのは多分ロマンス小説だ。


「えっと………、ちょっと思うことがあってお部屋に来たんだけど………。ごめんなさい。頭に血が上りすぎて何も考えてなかったわ」

「ーーー梨瑞っちにもそういうのあるんだね。いつも冷静沈着なのかと思ってた」

「そんなことないわよ。………いつも冷静でいようって思ってても、すぐに私は慌てふためいて、周囲に迷惑をかけてしまうわ。今日みたいに、ね………」


 苦笑したベアトリスは彼女の寝っ転がっているカーペットの端っこに腰を下ろした。ローブのフードがパサっと背中に滑り落ちる。


「ーーー、髪、どうしたの?学園で眠っている時にお見舞いに行った時はそんなふうには、」

「………お母さまがね、私のことをお父さまと勘違いしているのよ。だから、私はお屋敷ではお父さまとして過ごしてる」

「は?」

「………お父さまを殺したのは私だからねぇ。このくらいの後始末はちゃんとしなくちゃ」


 ぐっと歪な笑みを浮かべて、ベアトリスは体育座りをした膝に頭を擦り付けた。


「ねえ、真里。私はどうすればよかったの………?ローガン先生も、お父さまも死んじゃった。キースさまやノアさま、セオドリクさま、王太子殿下、あなたには大怪我を負わせちゃった。私が道を誤ったから、私が未来を変えようとしたから………!!」

「………そうかもしれないね」

「っ、」


 ぐっと息を詰めたベアトリスは、目にいっぱい涙を溜めて俯く。わなわなと全身が震えるベアトリスを見つめながら、マリアは無表情で淡々と言葉を紡ぐ。


「否定して欲しかったの?でも、残念。私は優しくないから、否定なんてしてあげない。私とあなたというバグは、この世界に悪い影響も良い影響も与える。………そうやって私に教えてくれたのは、他の誰でもないあなただよ、梨瑞。ちゃんと責任を取らなくちゃダメ。この世界は乙女ゲームの世界。でも、ここに生きる人たちは本当の人間なんだから」


 昔彼女に教えたことが丸々自分に返ってくる日が来るなんて、想像したこともなかった。世界は自分が望むように動いて、そしてハッピーエンドに向かうと思っていた。でも、世の中はそんなに甘くなくて、残酷で、どこまでも苦しい。


「………この前、あなたと文通用で使っていた手紙がクラウゼルに見つかったわ」

「!?」


 唐突に告げられた事実に、ベアトリスは目を剥く。


「彼、私のことは本当に何にも思ってなかった」

「そんな、わけ、………、」

「彼も生きている人間だもの。彼の好きになる人なんて、私たちが選べることじゃないよ」

「っ、」


 悲しそうに笑って、けれど、吹っ切れたように言い切った彼女に、ベアトリスは密かに憧れを抱いた。前世と今世を何度も何度も結びつけるベアトリスと違って、彼女はちゃんと受け止めているようだった。どこまでも眩しくて、どこまでも眩い、聖女さま。

 マリアのことをぼーっと見つめていたベアトリスは、けれど次の瞬間言葉を失った。

 なぜか、彼女は泣いていた。よくよく見れば、ベアトリスとおしゃべりを始めるまでもずっと泣いていたのか、目元は赤く腫れてしまっている。隈も酷いし、お肌もガサガサで髪も櫛が通されていない。


「ーーー私ね、ローガン先生のことが好きだったんだ」


 彼女はぽつりと言葉を漏らす。


「梨瑞が止めてくれてからも、私は密かに虐められていた。表向き見えるような酷いものはなかったし、怪我をすることもなかった。でも、やり方が陰湿で、狡猾で、本当に辛かった。………そんな時、ローガン先生は必ず私のことを助けてくれたの。泣いていたらハンカチを渡して隣に座っていてくれたし、立ち尽くしていたら背中を撫でてくれた。その温もりが、暖かさが、何よりも、本当に、愛おしかった」

「っ、」

「ねえ梨瑞、返してよ。私の愛おしい人を!返してっ!!」

「っ、………………」


 悲鳴のような泣き声を上げたマリアに、ベアトリスは瞳を閉じる。

 脳裏に映るのはもう1人のベアトリスの記憶。


 もう1人のベアトリスにはとある呪いがかかっていた。


 それは、


 ーーーベアトリスが20歳を迎える前に死んだ場合、世界が逆行する。


 というものだった。


 そして、この呪いにはもう1つの秘密があった。

 もう1人のベアトリスは誰もそれに巻き込んだことはなかったが、今回は巻き込むべきかもしれない。


「ねえ、真里。………あなたはローガン先生を取り戻すためなら、どんな犠牲でも払える?」


 ベアトリスの声に、言葉に、表情に、マリアは息を飲み込む。


「えぇ、もちろんよ」


 マリアの答えを聞いたベアトリスは、すっと立ち上がる。


「少し待っていて。………クラウゼルと話してくるから」


 転移魔法を使うベアトリスの背中に、何か聞こえる気がする。


(私はもう、………戻れない)


 ベアトリスはぎゅっとくちびるを噛み締めてから泣き笑いを浮かべた。


(さようなら、真里。今までありがとう。そして、)

「また会う日まで」


 天衣の魔法が完成して、ベアトリスの身体は彼のいるであろう場所へと移動する。

 魔法に揺れを感じるのは炎を失った故だろうか。ベアトリスには、イマイチ分からない。


「ーーーどうした、ベティー」


 驚いていながらも優しい口調でベアトリスの背中に話しかけてくる彼の声に、言葉に、ベアトリスの目には涙の膜が覆った。


「あなた、馬鹿なの?」


 振り返ってからベアトリスは、彼、クラウゼルのことを見つめる。


「私としか結婚しないって宣言をするなんて………、城下で聞いた時、心臓が止まるかと思ったわ!!」

「あぁ、知ってしまったのか。………お前が言うように、俺は馬鹿だ。大馬鹿者だ。だが、これを撤回する気もないし、撤回することもできない。だからこそ言う」


 短くなった髪をさらっと撫でられる。さわさわと優しく触れてくるてはどこまでも甘くてとろけるようだ。

 ベアトリスは目から一筋の涙を溢しながら、ぎゅっとローブの裾を握りしめる。


「俺はお前を愛している、ベティー」


 7色に変化したの彼の瞳がベアトリスの6色の瞳を捉えて離さない。苦しいくらいの視線に、痛みに、ベアトリスの胸はぎゅうぅーっと締め付けられる。


「わ、私も、………あなたのことが好き、です………」


 涙のダムの決壊は存外早かった。1度緩んでしまえば次から次へと涙がこぼれ落ちる。短くなった髪をぐしゃっと両手で掴んで、ごしごしと目をこすって涙を止めようとする。


「あまり目を擦るな、赤くなる」


 なのに、彼は無情にもベアトリスの手をぎゅっと握りしめて止めてしまう。両手はぎゅっと恋人繋ぎに結ばれて、ベアトリスの身体は壁に押し付けられる。ふわっと彼の顔が近づいてきたかと思えば、優しく口付けられて、ベアトリスはぱちぱちと瞬きをする。その間にも何度も何度も彼の顔は近づいてはくっつき、くっつきは離れていく。そして、最終的にはくたっと力が抜けてしまったベアトリスの身体を支えるようにして口付けていたクラウゼルが我慢の限界だとでも言うかのように荒々しく口付けられた。


 ちゅっというリップ音が耳に響いて、息も絶え絶えのベアトリスのくちびるから彼のくちびるが離れていく。


「ふぁうっ、」


 目に溢れる涙は悲しみや苦しみ、嬉しさから打って変わって酸欠によるものに変化していた。

 甘くて酸っぱくてしょっぱくて、なのにずっとずっとしていたいと感じる甘やかな刺激。

 

 ちょっとだけカサついたくちびるも、ちょっとだけ冷たいくちびるも、普通よりも薄いくちびるも、いつも微笑みを浮かべているくちびるも、ベアトリスの前では年相応に表情を表すくちびるも、何もかもが愛おしい。


(戻りたくないな………、)


 ベアトリスはちょっぴり寂しい気持ちになって、けれどこれは必要なことだと彼の胸に自らの額を擦り付ける。

 普段誰にも甘えることのないベアトリスの行動に、仕草に、クラウゼルは息を飲む。


「誰よりもずっとずっと愛しているの、クラウゼル」


 ベアトリスはずっとずっと彼を愛してきた。

 101回目の人生である梨瑞が混ざり込んだ今世では100回目までの人生と違って、最初から大好きマックスという感じではなかった。けれど、過去100回の人生でベアトリスは8年以上の間ずっと彼に対して片思いをしてきた。もう1人のベアトリスの記憶には、彼の好きなものや嫌いなものはもちろんのこと。得意不得意もしっかりと暗記されている。人生によってちょっとずつ異なる趣味嗜好すらも、なんとなくベアトリスは知っていた。


「………私ね、呪い持ちなの」


 呪い持ち。

 それは稀に生まれる神からの罰や使命を持った人間のこと。


 ベアトリスの呪いは、ベアトリスしか知らない。両親にすらも教えていない。だからだろうか、彼はものすごく驚いたように目を見開いていた。


「私が20歳までに死んだら、世界が全て逆行するっていう呪い」


 ベアトリスの言葉に、彼は息を飲み込んだ。

 賢くてずっと一緒に育った彼のことだ。ベアトリスの言わんとすることに気づいたのだろう。


「駄目だっ!!絶対に、」


 『死なせない』と言おうとした彼のくちびるに、ベアトリスは人差し指を当てて困ったように微笑む。


「この呪いはね、呪いについて教えた人1人に1度だけ逆行前の記憶を持たせたまま逆行させることができるっていう特殊ルールみたいなものがあるの」

「っ、」

「次回失敗したら、私は何もかもを本当に失うことになっちゃうわ。でもね、私はあなたと一緒に平和な世界で生きたいの。だから許して、クラウゼル」


 ふわっと微笑んだベアトリスに、彼はぐしゃっと顔を歪める。


「ーーー私を、あなたの手で、殺して」


 ベアトリスは彼のくちびるに初めて自分から口付ける。


 甘くて拙いくちづけは、恥ずかしくて仕方がない。彼からしてもらう口付けよりも、ずっとずっと不安になる。でも、とても幸せで仕方がない。


「一緒に死のう、ベアトリス」

「えぇ」


 ベアトリスとクラウゼルは互いに魔法で氷のナイフを生み出す。桜と桜の花枝が巻き付くベアトリスのナイフと薔薇と薔薇の蔦が巻き付くクラウゼルのナイフは交差して、互いの左胸に深く刺さる。ベアトリスの漆黒の服とクラウゼルの純白の服に紅のシミが少しずつ、けれど、確かに広がっていく。


 かはっと空気をこぼして、ベアトリスの口から鮮血がこぼれ落ちる。死ぬに死にきれなくてとても苦しい。けれど、それはクラウゼルも同じで、そのはずなのに、彼はとろけるように、幸せそうに、笑っている。


 ちゅっという音がして、ベアトリスの血が彼によって舐め取られる。


「来世では最初から最後まで俺だけを見ろ」

「当たり前よ。そっちこそ、他所見したら許さないわ」


 刻一刻とベアトリスとクラウゼルの人生が終わりへと近づいていく。

 不思議と死ぬことへの恐怖は思い浮かばなかった。あるのはただ純粋な彼への好意のみ。彼の手によって人生を終えられているという安堵。


(ははっ、ヤンデレヤンデレって騒いでたし、ヤンデレなんか世界から消えろなんて思ってたのに、私も十分ヤンデレじゃないの)


 苦笑してから、ベアトリスは人生で2度目の自分からするキスを彼に捧げる。

 甘くてとろけて、境界すらもわからないぐらぐらする感覚は、自分が死ぬということを明確に告げている。


「あい、しているわ、くらう、ぜる………」

「おれも、だ………、」


 視界が真っ黒になってこの世からベアトリスの意識は薄れていく。

 真っ黒になって溶け出して、ぐるぐると回って、そして、真っ赤なものを彼からもらいながらベアトリスは、漆黒の闇を潜り抜けた………。

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