第30話

▫︎◇▫︎


「ただいま戻りました」


 寂しく苦しみに満ちた屋敷へと帰宅したベアトリスは、誰も返事をくれない屋敷の中を闊歩する。

 屋敷の至る所から啜り泣く声が聞こえる。特に母の部屋からはものが壊れる音と絶叫のような泣き叫ぶ声が絶え間なく響く。気絶していたベアトリスは人伝えでこのことを知ったが、母ベルティアは父アルフレッドが亡くなってからずっとこの調子らしい。水も食事も睡眠も取らずにずっと悲しみに暮れているベルティアのことを、正直ベアトリスは見ていられない。でも、こうすることでしかベルティアにアルフレッドの尊厳を守り続けることはできなかったのだ。

 愛おしい人が王家のためならば全ての泥を、闇を、苦しみを被っていたところなんて知らせたくなかった。だからこそ、ベアトリスはあの時の判断を後悔してはいけない。


 ベアトリスは一生この闇を背負っていく。

 父アルフレッドの後を継いで王家の闇を背負う。

 これが王家に連なる人間として生まれらものの責務であり、運命。

 ベアトリスはこの運命に争わない。

 それどころか喜んで従事する。


(ーーー私の1番星。

 ーーー私の唯一の『王子さま』。

 ーーー私の唯一の『国王』。

 私はクラウゼルを王位に就かせるためら、王として正しき道に向かわせるためなら、なんだってできる)


 王家の血を引く人間の宿命を、血がなす願いを、絶対的従属を、ベアトリスは気づいていながらも気づいていないふりをして、その本能に従属する。

 ベアトリスの主人は誰がなんと言おうともクラウゼルだ。


「ただいま戻りました、お母さま」


 母の部屋の扉を開けたベアトリスは、母が投げたことによって飛んでくるものに避けることなく当たりながら、ベルティアの元へと向かう。


 頭にティーカップが当たって頭から熱々の紅茶をかぶる。ヒリヒリと皮膚が痛み、割れたティーカップの破片によって血が溢れる。


「お母さま………、」


 ベアトリスの声は空気の中に消えていく。ベルティア付きの侍女が顔色を真っ青にして口元を押さえているが、ベアトリスはゆったりと優雅に微笑んで侍女たちに下がるように命じる。彼女たちも可哀想なことに軽く怪我をしてしまっている。


(傷跡が残らなければいいのだけれど………)


 どこか遠い異国の言葉を発しているかのようにぼーっと考えていると、ベルティアがベッドに突っ伏して絶叫を上げる。


「アル、アルアルアルアルアルアルアルアルアルアル………!!」


 叫ぶのはもちろん愛おしい夫の愛称。

 髪を振り乱して涙を流し続けるベルティアはもうぼろぼろで見るも無惨になってしまっている。普段はおっとりした可愛らしいベルティアだが、美しく艶やかな金髪は艶を失いパサパサになってしまい、瞳の周りは真っ赤に腫れ上がってしまっている。


「………お母さま………、ーーーお母さまっ!!」


 何度も何度も呼びかけて、けれど自分の頭を掻きむしることをやめないベルティアに痺れを切らしたベアトリスは、涙をぽろぽろとこぼしながら彼女の手をパシッと掴む。


「もう、………やめて、ください。………おかあ、」

「ーーーあ、る………?」


 ベアトリスの顔を見た瞬間頭を掻きむしることをやめたベルティアに安堵したベアトリスは、けれど、次の瞬間顔をピシッと固めた。


「あぁ!帰ってきてくれたのねっ!アル!!わたくしの愛おしい旦那さまっ!!」


 ぱあぁっと華やいだとても美しい乙女のような微笑みを浮かべたベルティアは、この日を、この瞬間を境に、


 ーーーベアトリスのことをアルフレッドだと思い始めた………。


 ベアトリスは一瞬何が起きたのか分からなかった。

 母の顔が華やいだ理由も、嬉しそうに笑った理由も、途端に元気になった理由も、彼女が乙女チックになった理由も、何もかも分からなかった。

 けれど、徐々に、あっという間に状況を理解したベアトリスは、この屋敷で最も、誰よりも苦しそうな顔をして、そしてぐっと男らしく、中性的な微笑みを浮かべる。アルフレッドがよく浮かべていた笑みだ。思い出さなくても、目の前に見えなくても、ずっとずっと見てきた笑みはちゃんと覚えている。


「ーーーあぁ。今帰ったよ、ベル」


 母の頭を優しく撫でると、彼女は心底嬉しそうに微笑んだ。

 それが何よりも苦しくて悔しくて、ベアトリスは早くこの場から立ち去りたくなった。


「………今少し仕事が忙しくなっていてね、しばらくは君との時間を長くは取れそうにないんだ。すまないね」


 ベアトリスは咄嗟に思いついた嘘を言って、この場を離れ、そして長時間ベルティアと顔を合わせなくても問題ない理由を作る。


「それから、しばらくは君の安全確保のために部屋から出ないでおくれ。今、外は少し騒がしい。私は君が危険を孕む場所にいると思うと、気が気ではなくなってしまう。言うことを聞いてくれるね?」

「えぇ!分かったわ」


 ふわっと笑った母に背を向けて、ベアトリスは部屋を出んと歩き出す。


「あら?そういえば、見ない間にアルのお髪がとても伸びてしまったわね?」

「あ、………あぁ。そうだね。………今日のうちに切っておくとしよう」

(………私は、お母さまにとって、もう忘れられた存在なのね………)


 ベアトリスは泣き笑いを浮かべてから部屋を出た。

 部屋の前には屋敷中の使用人という使用人が全員集まっている。皆一様に不安そうな顔をしていて、見るに耐えなかった。


「奥さまは………、」


 誰もが声を上げない状況の中、執事長が代表して声を出す。ベアトリスはそんな彼に気丈に、安心させるように笑って、そしてくちびるに言葉を乗せる。歌うように、軽やかに、言葉を紡ぐ。


「お母さまは私のことをお父さまと勘違いなさったわ。今は泣き止んでとても落ち着いている」


 使用人たちがはっと息を飲み込み、そして口元を押さえた。

 この屋敷の使用人たちは皆ブラックウェルに恩があるものばかりだ。故に、ブラックウェルの人間の苦しみに、悲しみに、誰よりも寄り添おうとする。寄り添ってしまう。


「………お父さまのお葬式は私が先導するわ。お母さまは心身耗弱によってお葬式に出られないということにする。お母さまには心身の健康状態が安定するまで決してお父さまの死を知られてはダメよ?あと、お父さまの遺体はお母さまがお父さまの死を理解できるまで私の魔法で保存しておくわ。そのように理解してちょうだい」

『はい』


 全員が揃って声を上げ、そして頭を下げる。


「メアリー、お父さまが着ていた衣装を作っている職人の元に向かって、お父さまが生前好んでいた服を全て私サイズで仕立てさせてきてちょうだい」

「はい!」

「ルナ、レナ、今すぐ私の部屋に散髪の用意を」

「「はい」」

「エレン、今から書く書状を王城へ」

「はいっ」

「セバスチャンは私にお父さまの行なっていた業務を全て引き継ぎなさい」

「承知いたしました」

「その他は各々の仕事に戻りなさい。………今は、貴方たちのみが頼りよ。信頼しているわ」


 ベアトリスはぐっと泣きそうになる使用人たちをひとりひとり労いながら自室へと向かい、書類を書く。その書類には公爵位を継ぐ旨と母ベルティアの現状が事細かに記されてた。


 元奴隷だった自分付きの侍女エレンに書類を預けて一息ついたベアトリスは、ルナとレナの元に向かう。2人はハサミと布を用意して待っていた。これから行われるのはもちろん裁断式。

 ベアトリスは自分の髪を結んでいたクラウゼルにもらった漆黒のリボンをほどきながら、椅子に座る。


「お父さまと同じくらいにばっさり切り落としてちょうだい」

「「………承知いたしました」」


 元捨て子でありベアトリスに拾われた双子の愛らしい侍女は、ぐっとくちびるを噛み締めてからベアトリスの長く美しい髪にハサミを入れる。肩上にザクザクと切り落とされていく髪を見つめながら、ベアトリスは自分への呪縛が着実に増えていることを感じた。

 父の髪型は女性的なゆとりショートボブだったために、ベアトリスがその髪型をしても全く違和感はなかった。切り落とされた髪を片付けている侍女を横目に、ベアトリスは今しがた数着の既製品スーツを持って帰ってきた借金まみれのところを救った侍女メアリーからスーツを受け取り、ドレスからスーツに着替えた。着替える前にしっかりとサラシで胸を押しつぶした故に、ベアトリスはもう男性にしか、アルフレッドにしか見えなかった。


「ーーははっ、あはははっ!!………本当にそっくりね………」


 目の前の鏡に映る自分は背格好や筋力は違っているが、それ以外は父そっくりだった。

 ベアトリスは鏡に映る自らと手を合わせて父そっくりの微笑みを浮かべる。


「私はベアトリス・ブラックウェル。公爵家の若き女当主であり、お母さまの前ではアルフレッド・ブラックウェルを演じる者よ」


 自らに言い聞かせるように呟いたベアトリスは、鏡の中の己に誓いを立てた。

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