第27話

 震え切った声を上げたベアトリスの目の前に、ローガンを殺した男にしてベアトリスの父アルフレッドが姿を見せた。


「やあ、リズ。どうしたんだい?そんな怯え切った顔をして」


 この場には全くもって似合わない朗らかな挨拶に、ベアトリスは唖然とした。王弟として、筆頭公爵家の当主として、父アルフレッドはいつも厳格であった。時に厳しく、時に優しく、誰よりも正義に満ちた人であった。


「こんなところで何をしている、ブラックウェル公爵」


 驚きと絶望によって何も話せなくなったベアトリスに変わって、クラウゼルが声をあげる。その声は硬く、厳しく、責め立てるようであった。ベアトリスは震える手で拳を握り込み、必死に俯く。


「お久しぶりにございます、殿下。私は国王陛下の影として、この国の不穏分子を取り除いただけにございます。殿下、貴方さまも私が与えた情報から思考してアレの危険性をよくお分かりでしょう?」

(あの人は、誰………?あんなのお父さまじゃない。だってあんなの………!!)


 震える口を何度も開こうとするが、ベアトリスの口は決して言うことを聞いてはくれなかった。どうしてと聞きたかった。何故殺す以外の方法を取れなかったのか問い詰めたかった。

 でも、できなかった。

 何故ならば、ベアトリスがこんなことが起こった理由を本当はよく分かっているからだ。ベアトリスが甘すぎることを。為政者として、ローガンは殺さなければならぬ存在であったことを。彼の犠牲が、この国のためになることを、ベアトリスはよくよく知っていたからだ。

 だから、ベアトリスは父アルフレッドを責められない。責めるのはお門違いだと分かっているから。華やかで平和な歴史の後ろでは、必ずわずかな犠牲を払っていたことを、ベアトリスはちゃんと理解している。


「あぁ、そうだな。ローガン・ウィーズリーは危険だ」


 隣から、クラウゼルがアルフレッドに返事をする声が聞こえる。

 否定して欲しかった。彼にも同じ感情でいて欲しかった。でも、彼は次期国王だから、そんなことは許されない。常に国のことを1番に考え、犠牲も厭わない存在であらなければならない。そうでなければ、国なんて守れない。だからこそ、彼の言葉は正しい。肯定しなくてはいけない。けれど、ベアトリスにはそれができなかった。彼から少し距離を置きたくて、よろよりとベアトリスは動く。


「?」


 でも次の瞬間、ベアトリスの腕は彼によって掴まれ、ベアトリスは正面から父アルフレッドと対面することになる。


 彼の顔は狂気に滲んでいた。


 ベアトリスと同じ、七色の宝石を砕いて詰め込んだかのようなきらきらしているはずの瞳は、泥などの不純物を混ぜ込んだ泥岩のように見える。漆黒の髪は魔力にゆらめき、まるで魔王のようだ。


「ーーーだがな、ブラックウェル公爵。俺はお前の行動にガッカリした」


 唐突に声音を低くし、威圧を放ち始めたクラウゼルの顔は、今のベアトリスの位置からは見えない。けれど、その声が、態度が、背中が、彼の怒りを証明していた。為政者として失格な行動をしている彼を咎めなければならない。それが誉れ高き筆頭公爵家の娘として生を受けたベアトリスの勤めだ。けれど、ベアトリスには彼の行動が無性に嬉しかった。


「でん、か………」

「………大丈夫だ、ベティー。俺を信じろ」


 絶対的な自信に満ちた声というのは、それだけで勇気が湧いてくるものだということを、ベアトリスは初めて学んだ。


「………えぇ。あなたを信じるわ、殿下」


 ぎゅっと目を閉じてからもう1度アルフレッドのことを見つめたベアトリスの瞳には、もう迷いがなかった。


 ーーー誰よりも大好きだったお父さま。

 ーーー誰よりも尊敬していたお父さま。


 その思い出は、綺麗な思い出のまま宝箱にしまっておかなくてはならない。ベアトリスは魔法で剣を作り出して、彼を守るように前に出た。瞬間、アルフレッドは僅かに顔を顰める。


「………リズ、君が今取るべき行動は王太子殿下に為政者として正しき道を教えることだ。彼を守ることではない」

「分かっているわ、“ブラックウェル公爵閣下”。でも、私は決めているの。彼の道を阻むことはしないってね。私は真っ直ぐで純真な彼の作る未来が見てみたい」


 真っ直ぐで曲がったことが嫌いで、誰よりも優秀で誰よりも努力家な彼ならば、彼だからこそ存在する未来があると、ベアトリスは確信している。


 最初はただ死なないために婚約を破棄したいだけの関係だった。

 今も婚約は破棄したくて仕方がないし、ベアトリスはモブ専故にモブ顔との結婚を夢見ている。でも、最初の頃に抱いていた彼とはもう一生関わらない場所に行きたいという願いは、ベアトリスの心から消え去っていた。それどころか、ブラックウェル公爵家の娘として、彼の妻として、王妃として以外ならば、彼と共に在りたいとすら思っていた。


 だからこそ、ベアトリスの覚悟はとっくの昔に決まっている。


「………汚れ仕事は全部私のお仕事。あなたを止めるのも、この悲しき結末の旋律を書き換えるのも、全部全部私のお仕事。だからね、お父さま。お父さまにはこれから事故に遭ってもらわなければいけないの」


 心の中にごちゃごちゃとかき混ぜられるのは罪悪感と絶望に深い悲しみ、でも、これはベアトリスにとっては必要な犠牲。父アルフレッドにローガンの犠牲が必要だったように、ベアトリスにはアルフレッドの犠牲が必要なのだ。


「さようなら、お父さま」


 にっこりと微笑んでカーテシーをしたベアトリスは、顔をあげた瞬間の光景を一生忘れないだろう。

 人間の表情がごっそりと本当に抜け落ちる瞬間というものを初めて見たベアトリスは、恐怖に慄きそうになる。微笑みも怒りも悲しみも、何も浮かべていない表情はいっそのこと彫刻のようで美しい。でも、それがかえって恐ろしくて、ベアトリスはぎゅっと服の裾を握りしめた。

 やっぱり、美形は嫌いだ。


「………お前は誰だ?」

「え………?」


 父アルフレッドの言葉に、ベアトリスは目を見開いた。


「お前は“私のベアトリス”ではない。………お前は誰だ」


 どろどろと濁った瞳に正面から睨みつけられたベアトリスは、身がすくむのを感じた。


「わた、しは………、」

(………私は、誰………?私は楠木梨瑞で、ベアトリス・ブラックウェル。

 でも、ーーー私は、ベアトリス・ブラックウェルなの?だって私は転生者で、“本物のベアトリス”ではない。

 だって、本物のベアトリスの声は、いつも私の胸の中に響いてる。『クラウゼルのことが好き!!』って気持ちで溢れた大事な声が、ちゃんと聞こえてる。

 私はモブオが好きで、だから彼女の声とかを全部無視して………、だってこれは私の第2の人生だからって、正当化してーーー、


 ーーー私は誰?


 本物の私はどこ?

 ねえ、私はーーー、)


 目の前に漆黒の闇が降ってくる。視界はぐらぐらと歪み、頭の中には警鐘が鳴り響く。周囲の音は何も聞こえない。あるのはただただうるさいくらいに鳴り響く地獄のような不協和音。

 交響曲は最後の小節に向けて音を小さくしていく。


(ーーー私は、“誰”なの?)


 ガクッと自らの身体が床に倒れ落ちたのを感じながら、ベアトリスは過呼吸を起こしている言うことを聞かない自らの身体にガッカリする。


「ベティー!!」


 不協和音の警鐘が鳴り響く頭の中に、彼の声が僅かに響く。

 心地の良い低音は、この地獄のような音の世界では天国の調べのようだった。


【ーーーいい加減にしなさい!!】


 “彼女”の声が聞こえた瞬間、梨瑞の頭の中が、ものすごく勢いよく頬を張られたかのようにすっきりとした。頭にかかっていた漆黒のもやはあっという間に無くなって、思考の回転が最適化される。まるで睡眠不足の時に何十時間も十分に眠って、すっきりと目覚めた後のようだ。


(べあ、とりす………?)


 心の中で梨瑞が問いかけると、梨瑞の目の前は風が巻き上がったような印象を受けた後に、炎に包まれた空間に移動する。

 梨瑞があまりの衝撃事態に目を疑っていると、目の前に1人の少女と呼ぶには身体が成熟しきった美しい美女が現れた。その美女は漆黒の綺麗な縦ロールに真っ赤な吊り目を持った、きつい印象ながらも誰よりも高潔で尊大な少女だった。真っ赤で豪華絢爛なドレスを堂々と着こなす姿は、女王然としていてとても憧れを抱く。梨瑞が求めても決して手の届かなかった、婚約破棄してもらうために必要だった彼が嫌いだという傲慢で高飛車な不完全の令嬢。

 圧倒的な存在感を放つ彼女の目の前に佇むのは、前世の姿と今世の姿が曖昧に混じり合って今にも儚く消えてしまいそうな梨瑞だ。漆黒のお尻あたりまである髪は真っ直ぐに下ろされ、顔立ちは日本人特有の少し平め。前世の、少女から女性の身体へと変化を遂げる最中に位置する身体にまとうものは、ぼやぼやと歪み前世と今世の服を行き来する。


 ーーー曖昧で不完全。


 それは今の梨瑞を表しているかのようだった。


「………本当に、わたくしと貴方って似ていないわね。うざったいくらいに正反対。だから男の趣味が悪いのかしら」

「は?………あなたにそんなこと言われる筋合いないんだけど」


 出会い頭早々に嫌味をたっぷり言われた梨瑞は、ぴきっと青筋を立てながら引き攣った笑みを浮かべて口元に閉じた扇子を当てる。


「そうね。わたくしは貴女の趣味を否定できない」


 認める姿すらも尊大な彼女は今世の梨瑞と同じ顔で妖艶な笑みを浮かべる。真っ赤な炎渦巻く瞳は火傷しそうなほどに熱く、どんな大粒のルビーよりも美しい。


「………じゃあ、余計な一言ね。ーーーあなたは私に何をさせたかったの。ゲームの中のあなたの瞳の色は、美しい漆黒と真紅のグラデーションカラーだった。でも、今のあなたの瞳は真紅のみ。気にするなと言う方が無理があるわ」


 乙女ゲーム『虹の王子さまを落としたい!!』とこの世界の世界線が異なっているものではないかと仮説を立てたのはいつのことだっただろうか。もう、梨瑞には正確に思い出せないくらいに昔のことだった気がする。

 ベアトリスとクラウゼルの瞳の色の違いに、攻略対象が持っているそれぞれの過去が“意図的に”ゲームに近づけるために歪められているような、そんな歪さ。そこの疑問を感じるたびに、梨瑞はベアトリスとして上手に行動できなくなってしまっていた。

 それは多分、今だからこそ答えが分かる。ゲームの展開を変えるために動く梨瑞とゲームに近づけるために動くベアトリスが同じ1つの身体の中で居場所争いをしていたからだ。お互いの欲しい未来のために動いていたからだ。


「ーーーあなたの望みは、何?」


 梨瑞は七色の宝石を砕いて散りばめたようなきらきらと光を放つ瞳を真っ直ぐとベアトリスに向けた。


「………わたくしの望みはーーー、」


 柔らかく、そしてきつい吊り目の目尻をこれでもかというほどに何よりも優しく下げたベアトリスは、その薔薇色のくちびるを優しく動かす。

 紡がれた言葉に、優しい声音に、梨瑞は大きく目を見開いた。


「ベティー!!」


 クラウゼルに大きな声で呼ばれた梨瑞は、彼女の笑みを目裏に残したまま現実世界へと呼び戻される。

 ベアトリスに背中を押された梨瑞の心は決まった。

 父アルフレッドへの返答も決まった。


「………私は、ーーーわたくしは、ベアトリス・ブラックウェル。ずっとあなたの娘ですわ」


 目尻を下げたベアトリスはふわっとドレスの裾を上げて足を斜めに下げ、カーテシーをする。丁寧にできたと思う。人生で1番綺麗なカーテシーができた気がする。

 父アルフレッドは、多分もうベアトリスにことを受け入れることができない。ベアトリスは、否、梨瑞は、やり過ぎたのだ。前世に縋りつき、上手に今世と向き合えていなかった。前世のことを今世に持ち込んで、奇行ばかりを繰り返した。見捨てられて当然だ。娘じゃないと言われて当然だ。

 ルビーに色が傾いた右の瞳からぽろりと一筋の涙がこぼれ落ちる。


(………ベアトリスが泣いてるわ)


 今のベアトリスは、梨瑞とベアトリスの意識が交差している状態だ。だからこそ、梨瑞自身の身の時よりも感情の制御がしずらい。


「ごめんなさい、お父さま。普通の娘に産まれられなくて。ごめんなさい、お父さま。あなたを庇いきれなくて」


 そう言ったベアトリスは、氷魔法で美しい薔薇に包まれた剣を作り出す。剣からははらはらとダイヤモンドダストが現れ、現れては消える。美しき剣は、けれど、とても残酷だ。


(“美しき花には棘がある”。そう教えてくださったのは他の誰でもないお父さまでしてよ)


 ベアトリスは真っ直ぐと父の目の前まで歩き、



 ーーーそして剣を振り下ろした。


 目の前に血飛沫が上る。

 真っ赤な鮮血はベアトリスの顔を、髪を、ドレスを、手を汚す。ぽたぽたと手に滴る血を他人事のように見つめながら、ベアトリスは膝から崩れ落ちた。


 梨瑞とベアトリスの意識は完全に融合された。

 というか、ベアトリスの意識が消え去ったのだ。真っ赤な炎の熱い志と共に、梨瑞と共存していたベアトリスという肉体からいなくなった。


『………わたくしの望みはーーー、お父さまの高潔なる“死”です』


 ベアトリスは梨瑞に言った。

 彼女の目的は父の死であると。なんとなく気づいていた。でも、本当は知らんぷりしていたかった。でも、結局は逃げきれなかった。父アルフレッドを切り殺してしまった。


 6色の宝石を砕いて散りばめたような瞳からとめどなく涙が溢れる。アルフレッドにローガン、ベアトリスの死。たった1時間であまりにも色々なことが起きすぎた。望む結末からは遠く離れ、この物語はバッドエンドへの道のりへと入った気がする。

 死に向かう交響曲はハッピーエンドの音を高らかに響かせている。でも、ベアトリスにはこれがハッピーエンドであるとは思えなかった。


「ベティー」


 辛そうな顔をしたクラウゼルが、ベアトリスに向けて手を伸ばす。


「触らないでっ!!」


 つい金切り声のような鳴き叫び声を上げたベアトリスは、けれど、次の瞬間に見たクラウゼルの傷ついた顔にぐっと息を飲み込む。


(どうして、何にも上手にできないの?なんで、私は失敗ばかりなの………?)


 努力しても努力しても、本当に欲しいものは決して手に入らない。ベアトリスはそのまま床に額を擦るつけて泣き叫んだ。


 外には、大粒の雨が降っていた。

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