第25話
死へと繋げる闇の魔法が、森を、木を、植物を、生物を、全て冷酷に、無慈悲に、殺していく。
漆黒に塗れる闇魔法は、残酷でいて美しくて華やかだ。鮮烈な印象を与える魔法は、留まる場所を知らない。
「っ、」
ぐわっと大きな口を開けた毒蛇が自分に喰らいつくような錯覚を覚えて、ベアトリスは目を見開いた。全く身体が動かない。
(怖い)
たった1つの感情で身体は自由を失った。
「凍れ!!」
「!?」
左肩に唐突な痛みが走って、何が何だかわからないベアトリスは、身体にかかる重さでやっと自分の上にクラウゼルが乗っかっていることに気づく。自分の上に乗ったまま、呻き声をあげながて気を失っている彼を地面に下ろして、ベアトリスは自分だけ上半身を持ち上げた。そして、ベアトリスは焦点の定まらない七色の瞳で周囲を呆然と見回す。
どぐろを巻いた闇の毒ガスによって形作られたケモノが歩き回る森の中は、ベアトリスの知っている森とは全く異なっている。
(なにが、起こっているの………?)
本当は分かっている。
でも、分かりたくない現実から、ベアトリスはひたすらに目を逸らそうとする。
止まっていた涙が、また目から溢れ始めた。
「死にたく、ない………」
ひゅっひゅっと掠れた息が息が溢れて、ベアトリスはぎゅっと丸まった。
身体が痛くて、重くて、苦しくて仕方がない。びりびりと痺れる感覚は、毒が回ってき始めた証拠だろうか。ベアトリスは現実を理解したくない。
でも、分かるしかない。
「………私は、失敗したのね」
食事に入っていたキノコの毒と闇魔法の毒によって、ありとあらゆる生徒たちが不調を訴え始める。
それは、最悪ルートと呼ばれる大量虐殺ルートの始まりを告げる、静寂で強烈な始まりの鐘だった。
乙女ゲーム『虹の王子さまを落としたい!!』における集団宿泊研修の最悪ルートは2日目の夜、キャンプファイアーの後に生徒たちが体調不良を訴えるということが事前に存在していた伏線だった。
キャンプファイアーに使用される木に毒ガスを発生させるものを使用し、生徒たちが万全の状態にならないように敵に工夫された状態で、主人公であるマリアたちは戦わなくてはならない。もちろんその結果は惨敗で、多くの無惨な死に方をしてしまう死者を発生させるルートとなってしまった。
ベアトリスの前世である楠木梨瑞は、そのルートがとても嫌いだった。やるなら正々堂々やるべきだと思っていたし、なんならもしものために
でも、こうなってしまえば何も手出しできない。
「ははっ、」
もう、乾いた笑いしかこぼれない。
苦しいし、痛いし、辛いし、意識は朦朧としてきた。座り込んで笑ったまま溢れる涙を拭うこともなく、ベアトリスはただただ虚空を眺め続ける。
全てが手遅れだ。
何も手出しができない。
悔しいけれど、ベアトリスは全て後手に回ったのだ。
相手の手のひらで踊らされてしまっているようで大変癪に障るが、でも、もう本当にどうにもならないのだ。いくら強いベアトリスでも、万全の状態でなければ、勝てるものも勝てない。
(あーあ、最後に、お父さまともっとお話をしてくればよかったわ。お忙しそうにしているからって我慢するんじゃなかった………)
ローガンの件からまともに会話の時間が取れなくなってしまっていた父とは、今回ちゃんと『行ってきます』を言えていない。こんな自分のことをも受け入れてくれる両親のことが大好きなベアトリスは、そんな両親としっかりとお別れできていなかったことに後悔しながら、ゆっくりと砕いた宝石を散りばめたような瞳を閉ざし始めた。
ーーーパァン!!
破裂音と共に、呆然と座っていたベアトリスの頬に鋭い痛みが走った。あまりにも唐突な出来事故に対応が追いつかず、ベアトリスは地面へと倒れ込む。口の中にじゃりじゃりとするものが入って、おえっと吐き出すと、ぐいっと胸ぐらを掴まれて無理矢理に立たされる。涙と衝撃によってぐらぐら歪む視界には、黄金の髪の男がぼろぼろになって顔を歪ませながら何事かを叫ぶ姿が映っている。
ーーー何も聞こえない。
水を連想させる深い藍の瞳がぎっとベアトリスを睨みつける。痛みも不安も苦痛もどこかに行ってしまった。口の中は痛ずっぱいツンとする味が広がっていて、だんだんとクリアになっていく視界は写したくないものを写す。耳鳴りはずっと鳴り止まず、キーンという不愉快な音を奏で続けていた。
「死にたく、ないの!どこで間違ったのか、分かん、ないの!!助けて、よ!!ねえ、助けてよ!!私を連れ出してよ!!何もないとこに、連れてってよ!!」
目の前の者にぶつけるようにして叫ぶ。自分の声は聞こえない。でも、多分声は掠れているし、瞳や顔はぐちゃぐちゃの欲望に歪んでいるはずだ。相手に拳を振り上げて胸ぐらを掴んでくるアホをぶん殴る。呻き声も何も聞こえないからか、抵抗も何もなく手が出せてしまう。
「ひぐっ、私は、生きたい!!生きたいの!!」
ーーーパァン!!
もう1度の頬を打たれて、ベアトリスは地面に倒れ込む。
「げほっ、げほっ、」
受け身を取れずに顔面から地面に突っ込んで、ベアトリスは頭にかかったもやを振り払うように首を振る。
「こんのっ、」
あまりにもムカついて拳を握り込んで速攻でヤりにかかると、男はベアトリスの拳を正面から受け止めて、ふっと真っ青な顔色で泣きそうでいて安心したように微笑む。
「お帰り、ベティー」
目の前の殴りまくった男が、実はこの国で3番目に地位の高い王太子さまでした。
そんな地獄なんてあってたまるかと頭を抱えながら、ベアトリスはさあっと血の気が引いていくのを感じた。ベアトリスがボコスカ殴りまくった所為で、彼の頬は腫れ上がってしまっているし、多分服の下も青くなっている。服は泥と砂まみれで、輝かしく艶やかなはずの髪も砂を纏ってくすんでボサボサになってしまっている。
(こ、これはやばすぎるわ………!!)
彼の目の前で泣き喚いて弱音を吐いたのを思い出して、ベアトリスは今にも穴を掘って永眠したい気分になった。あまりにもな拷問に、もう瀕死状態だ。
「………何が起こっているか、分かるか?」
「えぇ。………分かっているから、あなたは帰って。私はもう大丈夫。あなたのおかげで、ね」
バッドエンドへの直行便に乗ってしまったベアトリスは、最後まで悪あがきをすることを決意して、先程の恥を全て遠くへと投げ捨ててから悪役令嬢らしく傲慢に笑う。
頬には張られた跡が赤くくっきり残っているし、髪は砂を絡めて艶を失っている。服は泥だらけで所々破れてしまっているが、そんなことは一切気にならない。
だってベアトリスは、いつ何時も、たとえ己が薄汚れていようとも、傲慢で尊大な公爵令嬢だから。
「っ、そんなことっ!!」
明らかに焦ったように声を荒げる彼は、どこまで情報を手に入れているのだろうか。
前世の知識チートがあるベアトリスをも上回ることのある彼の情報力には、本当に脱帽する。でも、今回ばかりはその情報力に頼るわけにはいかない。絶対に関わらせられない。
ベアトリスは、彼の、王太子クラウゼルの、忠実なる臣下だから。
にいっと笑みを深めると、彼は警戒するようにしてベアトリスの真意を探るべく、必死になり始めた。ベアトリスはそんな彼に、1歩踏み出してから床に愛剣をブッ刺してくちびるを開く。
「ーーーあなたはわたくしを誰だと思っているの?」
きょとんとした顔をした彼にベアトリスは髪をバサっと靡かせて、騎士が敵に一騎打ちを申し込むために大声で名乗り出るように、威風堂々声を上げる。
「わたくしは、英俊豪傑、唯我独尊、完全無欠の公爵令嬢ベアトリス・ブラックウェルよ」
自分で名乗っていて小っ恥ずかしい名乗りだが、今はこれくらいのハッタリがちょうどいい。剣を地面から抜いて彼に剣先を向けてから、ベアトリスは自信満々に見えるように口元を歪める。
「わたくしの辞書に不可能なんて言葉は存在していないわ!!」
ーーーしゃん、
鈴の音のように爽やかな音を靡かせ、ベアトリスは剣を仕舞う。
呆然としているであろう彼に背を向けて館へと向かう足は、泥の上を長靴で歩いているかのように重くて気持ちが悪い。でも、振り返るわけにはいかない。決して、ここで振り返ってはいけない。
振り返ることは、迷いへと繋がる。
迷いは、弱さへと繋がる。
弱さは、敗北へと繋がる。
敗北は、死亡へと繋がる。
重い息をゆっくりと吐き出して、七色の光を乱反射する瞳でベアトリスはまだ見ぬ敵を睨みつける。
(さあ、艱苦奮闘してやろうじゃないの!!)
もう迷いなんて存在しない。
ベアトリスの中にあるのは、敵を殲滅するという硬い決意と、生きて帰るという確定した事実だけだった。
ーーーざくざくざく
「………………」
決意を新たに館へと迷いのない足取りで向かうベアトリス。けれど、その後ろからは先ほどから絶えず足音が聞こえてきている。足音の主人を知っているだけに絶対に振り返りたくなんて絶対にないが、けれど、これは振り返らなければならない気がする。
「何をしているのかしら、ーーー王太子殿下」
くるっと振り返ったベアトリスは、青い顔のまま平然と後ろをついて歩いてきているクラウゼルに、笑顔のまま怒りをぶつけた。せっかく自分が犠牲になって全部を片付けようと覚悟したばかりなのに、ついてこられると決意が薄れてしまう。
「………………」
「はぁー、さっさと帰ってくれる?あなたがいても足手まといなの」
できるだけ冷たい口調で話すが、クラウゼルには全く効いていない模様である。
「………ねえ、さっさと、」
「帰らない。ーーー俺はお前になんと言われようと、帰らない」
「………………」
こうなった彼がいうことを一切聞いてくれないことは、多分、この世界で1番ベアトリスがよくよく知っている。でも、それとこれとは話が別。何がなんでも、クラウゼルには帰ってもらわなければならない。
彼はこの国唯一の希望の星。
唯一の王子さまだから。
「王太子殿下」
意を決して真っ直ぐ彼を見据えると、ベアトリスは睨みつけるようにして、鋭い声を出す。
「ーーーお帰りください」
ベアトリスの言葉を受けたクラウゼルは、天使のように美しく儚い微笑みを浮かべる。
ーーー仮面の笑み。
最近見ていなかった完璧さを醸し出した彼は、そのままの無垢に見える表情で白い陶器のような肌色をした指をしなやかに動かし、そしてベアトリスの心臓の上、胸にツンと触れる。
「ーーーヤダ」
にっこりと微笑んだ彼は誰よりも美しく、そして残酷だった。
全てを突き放されたような感覚がして、ベアトリスの胸はずきりと嫌な音を立てる。
痛くて苦しくて、そして何よりも、寂しい。今までに感じたことのない寂寥感がどこから来たものかはわからない。けれど、漠然と感じる安心感もまた、どこから来たものかわからないのだ。全ての感情が理解不能に陥って、ベアトリスの思考を鈍化させる。
明らかに良くない兆候だ。
「………ベティー」
甘えるような声、口調、表情、全てがベアトリスの心にどろっとしたものを呼ぶおこさせる。
ーーー誰にも取られたくない。
ーーー誰にも触れさせたくない。
ーーー誰にも邪魔させたくない。
不可思議な感情は渦を巻いて、やがて暴風をも発生させる。
「いい、わ」
はっと気づいて口元を抑えるが、もう遅い。全てが手遅れだ。
「………………」
諦めたベアトリスは、再び館へと歩き始める。
その道のりは死への交響曲の入り口であり、序奏。
彼はベアトリスと共に、死への交響曲のイレギュラーの音符になりに向かう。不協和音は増えれば増えるほど、曲というものは崩れていく。
この世界での1番のイレギュラーはおそらくベアトリスであり、2番目はマリア。けれど、その他の登場人物も全てイレギュラーになりつつある。ベアトリスが全てを壊したからだ。彼らに起こるはずだった不幸な未来を全て潰し、彼らを真っ当に近い人間にした。
(………どうにかなるといいのだけれど………………)
先に事件現場に着いているであろうマリア、キース、セオドリク、ノアに思いを馳せたベアトリスは、ぎゅっと眉間に皺を寄せた。
歩くにつれて息がキツくなり、肌にびりびりとした痛みと痒みが広がる。沸騰するかのように熱くたぎった血液血は対照的に、体温は低下して鳥肌が立った挙句カタカタと震えが止まらなくなる。
(この震えは武者震いよ。しっかりなさい、ベアトリス)
歩くたびに時計の針が進む音が聞こえる。
交響曲第10番への匙は既に投げられた。舞い狂う準備は、血祭りを始める準備は整った。24時間前倒しの戦闘。けれど、敵というものはいつ訪れるか分からないものだ。状況が全て万全ということなんてことは絶対にあり得ない。
「………大丈夫だ、ベティー。俺がお前を守り切る」
「何を馬鹿なことを言っているのかしら。………守るのは、私の役目よ」
溜め息をついて茶化すと、ほんの少しだけ気分がほぐれる。
「何があっても守り切ってあげるわ。まあ、できればついてこないでほしいのだけど」
「無理な話だ。そもそも、女に守られる王子の方が体裁が悪い」
「そんなふうに言うのだったら、ついてこないでくれるかしら」
木々は目の前でどんどん灰となって消えていく。毒は瘴気のようにだんだんと濃くなり、深い紫の色彩を示す。持っていたハンカチを口元に当てながら、ベアトリスは視界に現れ始めた大きな半壊状態の館を睨みつける。
(あれが、未来の殺人現場………)
たくさんの生徒が殺害される可能性がある館は、おどろおどろしい空気を放つ、古い洋館だった。木の扉は片方が吹き飛んで、片方が半分だけくっついているような不安定な状態。壁も所々煉瓦やペンキが剥がれてしまっている。ザ・お化け屋敷という印象を抱かずにはいられない洋館は、正直に言って、ベアトリスの嫌いな建物第1位に入るかもしれない。
(あぁ、入りたくない)
ウンザリする気分を抱えながら、ベアトリスは剣を手に、黙々と歩いた。
洋館へと近づくたびに、足にかかる負荷が大きくなるのを感じる。
ビリビリと感じていた殺気と死へのカウントダウンは、もう頭を破壊するんじゃないかと言う大音量へと変化していた。
「はっ、」
横で苦しそうに呻いた彼の身体からは、信じられない量の汗がぼたぼたと落ちていっている。
「!?」
(どうして………!?)
何が起こっているのか分からない。
ベアトリスはなんともないのに、彼だけが非常に苦しんでいる理由が分からない。ベアトリスは、咄嗟に聖属性魔法を使用して彼の体調の悪さをお守り程度に軽減するが、正直に言って効き目がものすごく悪い。
「………気にするな。行くぞ」
使命感に萌えた切長の藍眼に促されて、ベアトリスはひゅっと息を飲む。
責任感に、使命感に、どんなに押しつぶされそうになっても、殺されそうになっても、彼はいつも真っ直ぐ前を見つめていた。そんな彼だからこそ、ベアトリスは彼を己の主人と認めた。臣下として、支えようと思った。諦めたように苦笑して、ベアトリスは彼へ魔法を重ねがけする。工夫に工夫を重ねたと言っても、所詮はお守りで即興の魔法。そこまでの効果は存在していないだろう。でも、ベアトリスはちょっとでも彼の役に立ちたかった。
無情にも、洋館の目の前にはすぐに辿り着いた。
頭の中に鳴り響く死への交響曲は、不協和音が少なくなり、最高潮にまで上り詰めている。ここから先の未来は全く分からない。
けれど、ベアトリスは信じている。
ーーー全員、生きて帰ってこられると。
深く呼吸をしてから、ベアトリスは隣に並び立つクラウゼルと共に洋館へと足を踏み入れた。
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