第9話

▫︎◇▫︎


 次の日の午前10時、新入生80名がグラウンドに集められていた。


 250名という脅威の受験者の中を身分問わずに実力で勝ち抜いてきた猛者たちは、クラス分け決定試験の2次試験を待っていたのだ。

 1次試験である筆記で思うように実力を発揮できなかった面子は2次こそはと燃え、1次試験で実力を発揮した面子はもっと上のクラスへの所属を夢見て燃えている。

 すなわち、燃えていない人間がいない。

 これはベアトリスも例外ではなく、彼女はどれだけミスを減らして王太子クラウゼルを負かせるかということに燃えていた。


「あ、べあ、ぐふぇっ!!」


 浸透滅却して微笑みを浮かべながらも近づき難い雰囲気を放ったベアトリス。

 そこに現れたのは、空気が読めない女第1位というレッテルを始業3日目でつけられた平民マリアだったが、彼女はベアトリスに全力疾走で近寄ろうとしたところで床を氷にすり替えられて顔面から思いっきりすっ転んだ。


「マリアさま、今この状況で他人に話しかけるのは御法度ですわ。空気を読んでくださいまし。ということで、お昼休みにお話お説教をしたいので、是非ともわたくしのサロンにおいでくださいな」

「あの、お話がお説教に聞こえ、ぐひぇっ、」

「うふふっ、わたくし、空気を読めと言っておりますの。お聞こえになりまして?」


 『絶対女王』、『黒薔薇姫』の異名を欲しいままにするベアトリスの温度のない微笑みと声に、マリアはたじたじに何ながら頷いた。

 とぼとぼと去っていくマリアの後ろ姿を甘い微笑みと憐憫の瞳で見つめたクラウゼルは、すっとベアトリスの腰を抱いた。


(うえええぇぇぇぇ、)

「何をするのかしら」

「相変わらず容赦がないと思ってね」

「そう。なら、離してくれるかしら。私、人に触られるのが好きではないの」

「婚約者ではないか」

「へえ?面白いことを言うわね。婚約者ならば節度なく触れてもいいだなんて、聞いて呆れるわ」


 ぱらりと漆黒のゴージャスなレース扇子を広げるが、どうにも格好がつかない。なぜならば、ベアトリスたち生徒はスクールジャージの上下を着せられているからだ。

 男子は渋みのある青に白いライン、女子は渋みのある赤に白いラインのスクールジャージは古き良きを感じるようなデザインだ。前世の運営のデザイン力のなさと年齢層の高さを感じる。


(まあ、ブルマでないだけまだましと思った方がいいのかしら)


 学園指定の制服は改造オッケーなのにも関わらず、スクールジャージの改造がダメな理由がベアトリスにはわからない。運営による策士ではないかと怒鳴りたい気分だが、残念ながらベアトリスが生きている世界は前世であり運営が生きている世界線とは異なっている。文句を怒鳴っても届くことは決してないだろう。


「ねえ、殿下。わたくし、生徒会としての初仕事を思いついたわ」

「あぁ、俺もだ」


 ベアトリスがクラウゼルのことを見上げると、甘やかな笑みを浮かべているのにも関わらず少しだけ不機嫌そうな表情をしていた。彼が言わんとしていることと自分が言わんとしていることが同じであると予測したベアトリスは、彼に合わせて口を開く。


「流石にこのジャージはダサい」「流石にこのジャージはダサいわ」


 この瞬間、長年伝統として残っていたダサいと名高いスクールジャージに死刑宣告が施された。


「それでは、これより魔力測定と魔法制御試験を行います。この試験も入学試験の成績順で行いますので、事前に順番で並んで置いてください。それでは、ブラックウェル嬢からお願いします」

「はい」


 この学園では身分平等を謳っているために身分なしで名前が呼ばれる。敬称は決まっているために、王族・貴族・平民に関わらず同じ呼び方で呼ばなくてはならない。教師としては阿鼻叫喚の事象だろう。


(本当に、身分社会って面倒臭いわね)


 運動用にハイヒールから革靴に履き替えているベアトリスは、生徒59名、教師9名に見守られながら魔力量を測る水晶の前に立ち、石に左手をかざす。


 ーーーヴォンっ、


 魔力量 207,890

 魔法属性 光 闇 炎 水 土 風

 制御力 300,000


(魔力量は………増えてないわね。制御力ももう上限突破をしたのか3年前から変わらなくなっているし、ここが私の限界ということかしら)


 異常な数値に周囲がざわめいているのも気にせず、ベアトリスは次の順番であるクラウゼルへと順番を変わる。


 ーーーヴォンっ、


 魔力量 201,900

 魔法属性 水

 制御力 250,890


「チッ」


 小さく舌打ちが聞こえなかった気もしなくもないが、ベアトリスは何も聞かなかったことにして、5番目にくるマリアのことを待つ。


「ふっふふー、今日の私は一味違うのだー!いっけー!!」

(いや、何言ってんの?マリア)


 ーーーヴォンっ、


 ばしっと強く叩く勢いで水晶に手を翳した彼女は、わくわくと宙に大きく描かれる試験結果を見上げて目を見開いた。


「増えた!!」


 魔力量 101,952

 魔法属性 光

 制御力 200,000


 学年3番に躍り出たことがよっぽど嬉しかったのか、彼女はぴょんぴょんと飛び跳ねた。可愛らしいというか、天真爛漫というか、本当に子供のようだ。


「………おめでとう、マリア」


 優しい表情でぽつりと呟いたベアトリスを、クラウゼルがじっと見つめていた。

 それからも続々とたくさんの人が試験を受けたが、最終的にはベアトリス、クラウゼル、マリア以外には魔力量が5,000を超える人が5人現れただけでそれ以外は1,000を少し超えたぐらいの魔力量の人間が多かった。


「それでは、制御試験に移ります。こちらは先程の魔力が多かった順に試験を受けていただきます。ブラックウェル嬢」

「はい」


 制御試験では使用できる属性全ての同時展開で1センチメートルサイズのダイヤモンドダストをいかに広範囲に作れるかということを調べる。

 つまり、この試験は魔法属性が多ければ多いほど難易度が上がり、制御が難しくなる。

 けれど、そんなことはベアトリスには関係ない。


(さあ、目に物見せてやろうじゃないの)


 試験会場全てを覆い尽くすように6つの属性全てを同時に展開する。1つ1つの結晶サイズはジャスト1センチメートルになるように操り、全ての場所で等しい量の各属性の結晶が現れるように微調整を重ねる。耐える時間は3分間。

 途中で魔力がなくなること、結晶のサイズがまばらになること、場所によって現れる結晶の数が変化していることは減点対象になる故に、一般的には自分の周囲で目視しながら操れる量だけにとどめることが多い。

 けれど、ベアトリスはそんな一般常識を跳ね除けて全てを操り切る。


(………汗がすごいわね。まあ、30分は持つレベルでしか展開していないから、問題はないかしら)


 ーーーガーンっ、


 調子外れな鐘の音が鳴って、ベアトリスの試験が終了したことを告げる。教師も生徒も驚きで固まってしまっているが、問題なく点数はついただろう。

 待機場所に戻ったベアトリスはにこっと笑ってクラウゼルの肩を叩く。


「楽しみにしているわ。精々私よりも緻密に操ってみなさいな」


 クラウゼルは1つしか属性を持ち合わせていない。よって、難易度は一気に下がる。

 ベアトリスにしか分からないであろう僅かな変化で少しだけ苦しそうで悔しそうな顔をした彼は、ベアトリスの頭をぽんぽんと撫でる。


「あぁ、楽しみにしていろ。精々驚くといい」

「ふっ、言っていればいいわ」


 彼が海のような青い瞳を閉じ、魔法を展開し始める。ざっと魔力が試験会場全体に広がって花が咲くようにダイヤモンドダストが唐突に現れる。


「!?」

(これは………、薔薇!?)


 ダイヤモンドダストを出現させる際、普通ならばサイズは一定にすることができても形を一定にするという行為は難しい。四角かったり丸かったり、あるいはガカガタの何か分からない形になることが多い。

 ベアトリスの場合は制御訓練の際に全てを一定で出現させた方が魔力消費が少ないということを見つけた故に、全てがブリリアントカットの宝石で全く同じ形になるように制御をしていたが、彼はそれを軽く超えてきた。

 全ての形が均一でないのは普通だ。けれど、彼は全ての結晶の形を#違う形で制御している__・__#のだある結晶は薔薇の蕾であり、ある結晶は薔薇の花びらであり、ある結晶は大輪の花を咲かせている。細やかで美しいその全てを1センチメートル四方でやっているのだから、ありえない。

 芸術品のように美しい全て形が異なっている薔薇の結晶をクラウゼルはグラウンド全体で展開させ、剰え全てを卸し切っているのだ。


(ありえない。………常識から言って、ありえない。あんなの、あんなの見せられたら………)


 ぐっとくちびるを噛み締めた瞬間、グラウンドを覆い尽くしていた彼の魔力が全て消えた。


「………私の完敗よ」


 隣に戻ってきた彼にむすっとした顔で頬を膨らませて言うと、彼は不思議そうに首を傾げた。

 さっきまでの涼しげながらに真面目な表情は消え失せ、いつもの甘やかな表情を浮かべた彼は本気で分かっていないらしい。


「俺はお前よりもすごいことなんかしていない。………お前は俺を過剰評価しすぎなんだよ」

「………………」


 ベアトリスをどうあろうとも神格化しようとするクラウゼルに溜め息をついてから、ベアトリスは彼に悪戯っ子のように笑いかける。


「ねえ、もっと自由な表情の方がいいよ。ずっと笑ってるより、私は真面目だったり、不機嫌だったり、そう言う表情豊かなあなたの方が好き」

(親友として)

「なっ、あ、」


 顔を真っ赤に染め上げて口元を押さえた彼は、次の瞬間にはベアトリスから顔を背けた。


「………善処する」

「ん」


 涼しげな表情で言った彼は、いつもの甘やかな微笑みを少しだけ崩していた。微笑みながらも砂糖を垂れ流していない。自然な表情だ。


「やっぱり、そっちの方が似合う」


 ベアトリスはそれだけ呟くと、次に試験を受けるマリアが緊張して右手右足を前に出すのを見つめた。


(だ、大丈夫かしら、アレ)


 中央に立って半泣きで魔法を展開し始める彼女に庇護欲を掻き立てられた人たちが、『頑張れっ、頑張れっ!!』と呟いているのが所々から聞こえる。

 ふわっと優しげに見えるのにも関わららず攻撃的な魔力が彼女の周囲に直径50メートルぐらいに広がって、明るくなる。光の魔力特有の光景だが、1年生にはベアトリスとマリア、そしてあと2名しかいないためなかなか見られないレアな光景だ。


(グラウンドの4分の1か………、まずまずの得点にはなりそうね)


 ベアトリスは目の前に広がっているダイヤモンドダストに目を細める。

 粒の形は歪でぐちゃぐちゃで制御が甘い。粒の大きさは一応1センチメートルくらいになっているようだが、多分大きかったり小さかったりしているものも多々存在している。


(これは彼女が3番クリアでお終いね)


 けれど、これだけ制御が甘かったとしても並の人間では彼女に敵うことはない。魔力量がずば抜け、それを暴走させないだけの能力があるのだから、当然の結果だろう。

 ベアトリスとクラウゼルがおかしいのだ。


 ーーーガーンっ、


「お終い!?これで終わりでいい!?」

「はい」

「やったぁ!やり切ったー!!」


 始業式からたったの3日で『空気が読めない女第1位』のレッテルを貼られた彼女の空気の読めなさは、鬼神付きのようだ。ベアトリスは引っ叩いて連れ戻したいのを拳を握り込むことで抑えながら、次々に終わっていく試験を見つめる。必死になって制御しているだろうに、3分間到達する人も、大きさが1センチメートルになっている人も、自分から5メートル以上展開できる人も、とても少ない。


(………世界最高峰と呼ばれている魔法学園の生徒さえこのくらいしかできないのね。興醒めだわ)


 残りの人数が半分になっただろうか、ベアトリスはつまらないと思いながらも掘り出し物がないかどうか確認するかのようにじっくりと他の生徒の試験を確認していた。

 次の生徒が魔法を展開する。ぐわっとベアトリスたちが座っているところまで魔法が展開され、ダイヤモンドダストが起こるが、ものすごく様子がおかしい。粒が1箇所に固まっていて、その粒がえっちらおっちら色々な場所を浮遊している。

 青い色彩をしているところから、操っている生徒の魔法属性が水であることはわかるが、制御の仕方がものすごく下手だ。


(制御不可能に陥っているわね)


 客観的に眺めているとベアトリスの真上に結晶がきた。

 そして、制御が尚の事揺れているのを見つめていたベアトリスは、次の瞬間にぎゅっと反射で瞳を閉じる。


 ーーーばしゃぁん、


 制御を失っていたダイヤモンドダストがベアトリスの真上で破裂し、結晶では無くなった魔法で作られた大量の水がベアトリスに降ってきたのだ。


 ーーーぽた、ぽた、ぽた………、


 見事なまでにびっしゃんこになって、言葉を失う。

 魔法を操っていた生徒は顔面蒼白で、教師に至っては何人か倒れてしまっている。それもそうだろう。魔法を操っていた平民の生徒が濡らしてしまったのは、この国で王族に次いで高い地位にある公爵家のひとり娘であり、両親に溺愛されていて我が儘と有名なベアトリスだ。

 ベアトリスは濡れたことによってぐしゃぐしゃになった髪を下ろし、前髪をかき上げる。色っぽい仕草に、無関係の生徒たちが感嘆のため息をこぼした。


「………はぁー、………ラキスと言いましたか?あなた、魔法制御本格的なの訓練を受けたことがおありで?」


 足を肩幅に開いて腕を組むと、ベアトリスはぽたぽたと身体中から水を垂らして質問する。


「あ、ありませんっ!!」

「そう、それでこの制御力ならばよく努力をしているところでしょう。………もう1度展開しなさい」

「へ!?」


 顔面蒼白で今にも土下座をしようとしていた平民の生徒は、キョトンとしたのちに命じられた通りに魔法をもう1度展開する。


(やっぱり、特殊な魔力を持ってい流のにも関わらず専門の指導を受けてこなかったから魔力が濁ってるわね。それに、この年齢になるまで全てを独学でしていたことで余分な使っちゃいけない魔力まで溜め込んでる。なら、………)


 ベアトリスは平民の生徒の魔法を半分乗っ取って制御の主導権を奪い、うまく制御できるように補助し始めた。この技術は国でも10人足らずしか持っていない特別な技術であり、ラキスのような特殊な魔力を持つ生徒には不可欠な指導だ。


「ん、できた」


 1本の線を手繰り寄せるようにして濁った魔力を全て捨てさせると、魔力の制御力が一気に増してマリアレベルとまではいかずとも、10メートルくらいの範囲でダイヤモンドダストが発生した。


「!?」


 魔法を操っている本人はびっくりしながらも上手に魔法を操り、ダイヤモンドダストを消去した。

 それを見て安心したように頷いたベアトリスは、すっと暫定で彼を担当することになっていた中級クラスの先生の方を向く。


「先生、彼は魔力吸収症を持っているようですので、追加でそちらの指導も行うべきかと」

「あ、あぁ」

(これにて一件落着ね)


 ほっと息を吐くと一気に身体が冷たくなり、カタカタと身体が震えそうになる。けれど、周囲の人間にそれを知られるのは癪で、ベアトリスは必死になって我慢する。


「………脱げ」

「は?」


 唐突に頭上からあり得ない単語が飛んできて、ベアトリスは目を丸くしながらクラウゼルを睨みつけた。


「………頭でも狂ったのかしら?王太子殿下ともなれば業務が忙しすぎて休み時間もないものね。でも、淑女に脱げと言うのはいささか度が過ぎるわ。礼儀ぐらい守りなさい」


 ベアトリスの言葉に彼は大きくため息をついた後、汗拭きように持ってきていたであろう彼のタオルをベアトリスの頭の上に乗せた。


「脱げと言っているのは上着だけだ。下に半袖のシャツは着ているだろう?テストが終わるまであと3時間近くはこの中から出られないんだ。とりあえず拭いておけ」

「………ありがとう」


 渋々ダサい上着を脱いだベアトリスは、彼から借りたタオルで腕を拭いた。思っていたよりも上着が水を吸っていて半袖のシャツはあまり濡れていなかった。問題は髪なのだが、そちらもタオルで拭いた後にリボンでお団子にしたため冷たくてもあまり気にならない。


(王太子殿下も、少しは優しいところがあるのね)


 応急処置を終えたベアトリスは、タオルをどうしようかと悩んだ末にグラウンドの端にあるベンチの上に自分の水筒とびしゃんこになった上着と共に置いた。


(寒い)


 風が吹くたびに身体がカタカタと震えるくらいに寒い。冬場よりは暖かいとはいえまだ春になったばかり。気温は半袖で元気よく過ごせる温度よりも圧倒的に冷たいのだ。


 ーーーばさっ、


 頭の上に何かが乗って視界が暗くなり、ベアトリスは首をかしげる。


「その格好はダメだ、着ておけ」

「?」


 言われた通りに頭の上に乗っていたものに袖を通すと、ものすごくダボっとしていた。上着の色は暗めの青色。男物だ。


(これって………、)

「試験が終わるまでは俺の服で我慢しろ。文句も反論も聞かない。大人しくしていろ」


 ダボっと余ったジャージの袖から細くて白い手を出すと、前にあるチャックを閉める。


「………とりあえずお礼は言っておくわ。ありがとう」

(あったかい)


 襟に口元を隠したベアトリスは、恥ずかしさから赤くなっている彼の耳を見てクスッと笑った後、彼の周りに炎の魔法を使用する。


「あったかくなった?」

「………暑い」

「ありゃりゃ。じゃあ、このくらい?」


 細々と魔力を調節して彼の眉間の皺がなくなるタイミングを探し、ベアトリスは彼にとってベストな気温を作り上げた。普通にしていると手もお尻もすっぽりと隠れてしまう彼のジャージ着ているベアトリスは懐かしそうに空を見上げた。


「昔は同じくらいの身長だったのにね」

「………………そうだな」

「そういえば、よく王妃殿下に男女逆転やらされてたっけ?あの時の王太子殿下、とっても可愛かったわよね」

「…………………………」

(都合が悪くなったら無言になることは変わっていないわね)


 ピンクのふりふりドレスを着せられてカチューシャを付けさせられた彼は、女のベアトリスよりもずっとずっと可愛らしかったのを覚えている。女として見事に敗北したベアトリスがあまりの悔しさに満面の笑みでクラウゼルの礼服を借りて身につけ、完璧な王子を演じ切ったのは今思えばとんでもない若気の至りだ。


「私たち、よく喋るようになったわよね」

「………そうだな。お前は特に明るくなった気がする。人生がつまらないと少し投げやり気味に見えて、俺にはいつも危なっかしく写っていた」


 彼の言葉に、ベアトリスは一瞬だけ目を大きくした後にいつも通りの気が強そうな笑みを浮かべた。


「そう?人生結構楽しんでいたつもりだったのだけれど」

「アルフレッド叔父上やベルティア夫人はいつも心配していた。天才児の行動故に突飛で奇想天外すぎて手を持て余すが、あの娘はそのくらいしか人生の楽しみがないようだから取り上げられないと」


 ベアトリスはぐっと息を飲み込んだ後に歪な笑みを浮かべる。


「私、本当に両親恵まれているわね」

(前世も、今世も、両親はこんなに私のことを理解してくれる。それなのに恩返しもできないだなんて、本当に情けないわ)


 小さい頃から両親がベアトリスに甘いのはずっと気がついていた。それどころか、こんなにも甘やかされていいのかと不安に思っていた。けれど、それがベアトリスのことを心配してのことだと知ってしまえば、なんとも言えない。甘やかしていたのではなく、ベアトリスが生きる気力を失ってしまわないように自由にしていただなんて、気がつきもしなかった。


「お前はもっと周囲に目を向けるべきだ。例えば、見た目麗しい文武両道の婚約、」

「ベアトリスさまあああぁぁぁ!!」


 彼が何かを言おうとしていたのは分かっていたが、目の前から猪の如く叫びながら走ってくる少女を見つけてそれどころではなくなり、急いで氷の魔法を展開させた。


 ーーーつるんっ、べっしゃーん!!


「うぐっ、は、鼻がひん曲がる」


 全力で走ってくる途中で思いっきりすっ転んで地面とキスをして鼻を押さえているのはもちろん、『空気が読めない女第1位』の名を欲しいがままにしているヒロインマリアだ。


(ねえ、この子本当にクラウゼルルートをクリアする気があるわけ?)


 完璧主義者であるクラウゼルの目の前で見事に2回もすっ転んだ彼女に、ベアトリスは冷めた目を向ける。自分が氷魔法で転ばせていながら、そのことを棚に上げてベアトリスは口を開く。


「あらあら!平民の小娘は地面に這いつくばっているのがお好きですのね。今日のお昼休みは、わたくしのサロンの床掃除をしてもらおうかしら、おーっほっほ!!………げほっげほっ、」

(む、むせた………)

「………慣れないことをしようとするからこうなるんだ」


 呆れながらも背中をぽんぽんと撫でてくれるクラウゼルに身を任せながら、ベアトリスは咳をしすぎてうるんでしまった瞳できっとマリアを睨みつけた(ふり)をして、ばしっと扇子で指差す。


「精々覚えておきなさい!!」

「か、かわ、ぐふぇっおえええぇぇぇ、」


 変なことを口走りそうなマリアに嫌な予感を感じたベアトリスは、咄嗟に彼女の口の中に空気玉を放射した。空気で口がいっぱいになった彼女は、床に這いつくばって空気を必死に逃している。


(あー、やり過ぎたわね)


 『かわいいいぃぃぃ!!つーか、悪役令嬢ってスペック高くね!?ちょー美人だし!完璧超人じゃん!!』と叫ぼうとしたマリアはやり過ぎレベルで反撃に出てきたベアトリスに文句を言おうとしたが、途中でハタっと気がついて口を閉じた。


(あれ?私、クラウゼルの攻略に来たんじゃなかったけ!?なのに、なんで悪役令嬢褒めようとしてんの!?やばくね!?マジやばくね!?これ、絶対ベアちゃんに怒られるやつじゃんっ!!)


 半泣きで冷や汗満載にえへへと笑ったマリアは、挨拶もなく全力疾走で2人の前を去った。


(あ、そういえば、ベアちゃんを彼シャツネタで揶揄うの忘れた)


 どこまで行っても残念なマリアは攻略開始3日目にして、すでに最終目的を忘れかけることが多々あるのだった。

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