第3話 日々
「アステリオス様!」
そう言って元気に走ってきたユーノは綺麗な黒髪を踊らせて、澄んだ瞳をこれ以上ないぐらい笑顔に細めていた。
たおやかな手を大きく振りながら、12歳になってもドレスの裾をはためかせて走る彼女がおかしくて可愛くて、堪らなかった。
この皇宮で走って許されるのは、ユーノぐらいなものだ。
僕が許しているから、という部分も大きいが皇妃教育を真面目にやっている彼女を現皇王と皇妃が大層気に入っている、という理由もある。
ユーノの両親である侯爵夫妻は彼女のことをあまり良く思っていない、どころか無関心な様子だったから、その分僕たちで甘やかしたくなってしまっている部分もある。
皇宮の中庭、僕と彼女が初めて出会った東屋に向かってくるユーノを出迎えるために、立ち上がって両手を伸ばす。
抱き締めようとした途端、ユーノは急停止してしまった。
彼女の髪は止まる勢いに置いていかれて、ばっさぁ、と前に流れて乱れてしまう。
淑女らしく髪を結い上げていたら、こんなことにはならなかっただろうに。
僕は、乱れてしまったユーノの絹のような髪を優しく撫で上げて、可愛い顔が見えるように整えるのを手伝う。
「あ、あの、その、ありがとうございます!えっと、あの…恥ずかしい…っ」
僕の予想通り、真っ赤に熟れた林檎みたいな頬が、目に飛び込んできた。
─────あああ、本当に可愛いな!!!
頭の声の歓声に突き動かされるように、僕は思わず伸ばした腕で、彼女を抱き締めたり。
「あ、あす、あ、アステリオス様!淑女を抱き締めるのは駄目です!反則です!」
途端に、僕の腕の中で小さな女の子が暴れ出した。
艶々とした黒い毛並みの子猫を逃がさないように見下ろして、ちょっとだけ意地悪を言ってみる。
「ユーノ、自分を淑女だって言うなら、走るのは不味いんじゃないかな?」
「それは、そうですけど…あと少しで、自由に会えなくなってしまうんですもの。できるだけ長く、一緒に居たかったんです!」
─────…はぁ?天使かよ
生まれた時から共存する声が、なぜか頭の中で怒り出している。でも分かる。全力で同意できる。
僕は堪らず、ユーノを抱き締める腕に思い切り力を込めてしまった。
一年後には、僕は学園に通うことになっている。
皇王教育と同時並行で行われる学園での生活を考えると、彼女との時間を持つことは難しいだろう。
会えない日々を思うと、心に大きな重石が乗せられるようだ。
「はぁ…」
あまりの憂鬱さに、思わず深い深い溜息を吐き出してしまった。
「どうかなさいました…?」
少し不安そうに揺れる声が耳に届くと、ユーノのつり目気味の大きな瞳が僕を映して、戸惑っていた。
僕が急に黙ったから混乱させてしまったのだろう。
「ごめんね、君に逢えなくなるなんて、寂しいなと思って…ひとまず、一緒にお茶にしようか、今日はどんな勉強をしたか教えてくれると嬉しいな」
安心させたくて微笑み掛けると、小さな唇を ほっ、と綻んで
「…はい、喜んで!」
相変わらず威勢の良い返事が返ってきた。
─────居酒屋なのは、変わらないんだよなぁ
頭のどこからか、また声が聞こえてきた。
不思議な感覚だけど、不快感は感じられない。
時折自分の知らない単語が聞こえてくるが、僕と思考が似ているからだろうか。目に見えない相棒を手に入れたような、そんな気分だった。
惜しみながらユーノをどうにか手放すと、東屋にあるティーテーブルを挟んで向かい合って座る。
「今日はですね、ダンスの練習と語学のお勉強をいたしましたの!」
ユーノの話を中心にして、彼女の好きな華やかな香りの紅茶を味わい、バターたっぷりのクッキーを口に運ぶ。
僕は甘いものが苦手だけど、彼女が幸せそうに食べる姿を見るだけで、嬉しかった。
沢山のお茶菓子が並ぶ前で頷きながら、ユーノの話を聞いていた。
─────はぁぁあ、青春…っ、これを肴にお酒飲みたーい!!
今日も脳内が騒がしい。
そして婚約者がとっても可愛かった。
※
瞬く間に月日が過ぎて、僕はまた1才歳を重ねていた。
僕は15、ユーノは13…成人の仲間入りの年齢だ。そして、成人式と婚約発表が終われば、僕たちは離ればなれにならなくちゃいけない。
一足先に、僕は『皇立星ノ宮学園』に入学しないといけないのだ。
─────そこだけ日本語なの、なんなん???
脳内が今日も絶好調にうるさかった。
皇立星ノ宮学園は、マレビトと呼ばれる異世界から流された異邦人が作った制度だ。
貴族と一部の特待生は貴族棟、市民は一般棟に分かれて学園内で学んでいく。
明日から、僕もそこに通うことになっていた。
─────へぇ、そんな設定あったんだ。
設定ってなんだよ。というツッコミへの返事はなかった。
聞こえていないのか、なんなのか。頭の中の同居人に語りけるような考えは、相手に伝わっていないようだった。
残念だな、と思って少しだけ溜息を漏らす僕の耳に、控え目なノックの音が響く。
僕の従者が扉を開けて確認すると、従女に連れられてきたユーノの姿があった。
─────まぁぁああ!!可愛い!!さすがユーノ、推せる!!
僕が口を開くより先に、クソでかい声が脳内で反響する。お陰で、ユーノを褒めようと思って開いた口から何にも出てこなくなってしまった。
こんちくしょう。
しかし実際、彼女は本当に可愛かった。
細い身体を包む純白のドレスに、長い黒髪は編み込まれ、真珠の飾りが朝露のように輝いている。その楚々とした美しさは、聖女だと言われても納得できてしまう程だ。
そのまま走り出そうとしなければ、なんだけど。
いつも通り僕を見付けた途端、勢いよく駆け寄ろう…として踏みとどまる彼女が、早歩きで迫ってくる。
─────ドレスをたくしあげたり、ヒールを脱いだりしなくなって…、成長したわねユーノたん
本当にね。
心の中で同意しながら、僕はにっこり笑って彼女を出迎える。
差し出した僕の両手を、ユーノが勢いよくぎゅっ、と握った。
そのまま僕に詰めよったユーノは、透き通るような青い瞳をキラキラと輝かせて、純白の盛装に身を包む僕を絶賛していた。
「すっっっごくお似合いです。さすがアステリオス様ですわ!」
─────ぎゃわいい!!
本当に可愛い。
自分の美しさなんかそっちのけのユーノの火照った頬を見下ろすと、僕は片手を彼女の頬に伸ばして、優しく掌で包み込む。
親指の腹で長い睫毛が彩る眦を、愛しいと語るように辿った。
「ユーノこそ…、…白いドレスに黒髪に映えて、とても美しいよ。君はどんどん綺麗になるね。誰にも見せたくないぐらい、素敵だよ」
ユーノの大きな瞳が、ぱちくり、と瞬いて。
そのあとで、ぼんっっ、と爆発した。
耳まで真っ赤にした彼女は、両手で顔を隠して後ろにのけ反っていく。
「ぴゃぁ、ぁぁ」
なんの鳴き声?って思いながら、僕は両腕で彼女を抱き締めて支えると、上から見下ろした。
「ユーノったら、駄目だよ。従女が凄い怖い顔してるから、立ち直ろうね」
「ひゃい…」
セットに相当時間が掛かったのだろう。殺気と哀願と、何か色々なものをが詰まった視線を従女から注がれる。
彼女が上半身を起こすまで支えてから、どうにか立ち直ったユーノの身体を解放する。
代わりに両手を握り直すと、僕はまっすぐにユーノを見詰めた。
「これが終わったら、しばらく離ればなれだね…僕は凄く、寂しいんだけど。ユーノは?」
同じ答えを期待する僕の眼差しに気付かないのか、彼女はもじもじしながら俯いていく。
「もちろん寂しいですけど…」
ですけど?
自由に過ごせて嬉しい、とか言われたら僕は今すぐ結婚して、彼女を縛り付けなければいけない。
そんな衝動と妄想に駆り立てられる。
────え、ユーノちゃん。この男ヤンデレってヤツだよ。マジ逃げて!!
知らない単語の羅列ばかりだが、多分良い意味じゃないことだけは分かる。
心の中で黒い感情を渦巻かせている僕に気付かないユーノは、僕を見上げて耳元に唇を寄せてきた。
「3年したら、アステリオス様のお嫁さんになるんです。だから…離れる時間より大きくなれることが、嬉しいの」
心の柔らかな部分をそっと見せてくれるような、彼女の声が愛しくて仕方ない。
僕は衝動のままに彼女を抱き締めた。
「ユーノ…大好きだよ」
僕は彼女に優しく囁くと、頬に唇を押し付ける。
「わ、わ…わたくしも…っ…です…」
身体を強ばらせながら、それでも一生懸命応えてくれるユーノの姿に思わず笑い出してしまった。
「笑うなんて、酷いですわ!アステリオス様!」
「ごめんね、君が余りにも可愛くてさ」
少し拗ねるユーノを宥めながら、僕は楽しい気持ちを抱えたまま、彼女と一緒に成人式と婚約発表を無事に終えたのだった。
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