第2話
眠気を誘う春が近づいていた。陽の光が入ってきて、瞼の裏を赤く染める。ミイはこのまま、一生眠っていたかった。春のまどろみの中で、全てを忘れていたかった。だが起き上がった。ミイの体を動かしたのは意志ではなく、習慣の力だった。今日は喪服ではなく、白いワンピースをハンガーから抜き取り、着替え、緑の帯を腰に回してリボン結びにした。それから、はちみつバターをパンに塗って、ゆっくりとその甘みを噛み締めた。最終に残った一切れをミルクで流し込んだ。
外の空気を吸いに建物を出ると、空が明るくなったり暗くなったり、チカチカと揺れていた。世界が揺れているようだった。ミイは見続けているうちに眩暈がした。鳥は一羽も飛んでいなかった。太陽だけが、グラデーションの青空に浮かんでいた。静かな朝だった。
それでも、朝が来た。壊れようとしている全てのものが、今という時間を保とうとして必死な努力をしているように見えた。
重いリュックを背負い、キャリーケースを引く母子が歩いてきた。七歳くらいの男の子は手編みの帽子を被せられていた。二人の手と手は繋がれていた。
「どこに行くの?」
と訳もわからず歩いている男の子は聞いた。
「遠い遠い、夢のある場所よ」
「僕、ここ、離れたくない」
「ここには何もないのよ……」
ミイはその会話を聞いて、押し黙った。自分がとこにいるのかを忘れかけた。
新しい夢を見つけよ。
それが星の夢から伝えられた、最後の言葉だった。この親子は空港へ行き、宇宙に旅立ち、新しい星を探すのだろう。聞こえたはずの声を探して、回転する星と星の間を渡り歩くのだろう。
突然、強い風が吹き、土埃が体を打ちつけた。ミイは吹き飛ばされないように服の裾を押さえ、立ち止まった。
「あ……」
小さな悲鳴とともに、男の子のかぶっていた手編みの帽子がふわりと舞い、ミイの足元に落ちた。ミイはそれを手早く拾うと、風が止むのを待ってから、男の子に渡した。
「どうぞ」
「あり、がと……」
男の子は小さな手で受け取ると、母親の背中へ隠れた。
「今日、出発されるんですか?」
と母親は世間話風に訊ねた。そう訊ねる母も子供も、喪服ではなく晴れ着を着ていた。
「いいえ……」
「そうですか」
ミイが答えると、母親はなんとも言えない表情になった。それからもう一度お礼を言って別れた。また突風が吹いて怪我をしないようにと、その後ろ姿に向かってミイは祈った。
それから、小さなピンク色のハンドバックを持って、祭壇の前に行った。篝火は突風で薙ぎ倒され、丸太の残骸が転がっていた。板で作られた朱色の祭壇も所々崩れている。果物は萎びきってしまう前に、食糧にされたようだ。
女人はこの前に見たのと同じ喪服姿、同じ場所でまた祈っていた。彼女だけが、この惨劇の中で時間が止まっているに見えた。
「新しい夢は見つかりそうですか」
とミイは声をかけた。
「見つけます」
女性の返答は変わらなかった。多少ムキになっているようにも見えた。新しい夢が見つからなければ、この祭壇と一緒に心中するつもりだろうか。
「他の星から分けてもらえば……」
「そんなことしなくても、この星にあるはずです。あなたは最後の言葉を忘れたからそう言えるのよ。新しい夢を見つけよとおっしゃられていたでしょう」
「覚えてますよ」
ミイは肩をすくめた。女人は自分の言葉が思ったよりも強く響いたことを恥じたのか、少し態度が柔らかくなった。
「それはともかく、とうとう決めましたか」
と女人はミイの服装を見ると、寂しげに微笑んだ。
「ええ」
ミイは頷く。
「ここに残ろうと思います」
「まあ、本当」
女人の顔が明るくなった。でもおそらく、女人が想像しているような理由からではない。そのことに、ミイは後ろめたさを感じた。
「離れて違う夢を探すと言う人が多過ぎて困ります。みんなこの星に愛着を感じていないんですか。恩は感じないんですか」
「選択は人それぞれですから」
ミイは曖昧に笑って、その話題を避けようとした。それでも、ふと思い出して、ハンドバックからあの珠を取り出した。
「あの、これを見てくれませんか」
ミイは自分の目で一度確かめてから、女人に見せた。透き通る珠の中に、緑の霧が脈打つように渦巻いている。大丈夫、まだ……。
「まだ死んでいないと思うんです。星の夢は……」
女性が信じられないといったふうにこちらを見つめる。その反応は予想していたことなのに、実際に見ると言い淀んでしまう。でもミイは自分の心を励まして、続きを言った。
「……生きています。私たちがまだ生きていることに意味があると思うんです。与えられた夢よりも、夢を見つけ、夢を与えられるように。きっとそれが新しい夢の形だと思うんです」
「嘘よ」
女性は反射的に言った。
「……わかりません。嘘だって言われても、否定できないかもしれません。でも星はまだ生きていると思うんです。私はそれを信じたいんです」
昔の時代、星の夢に従えば、誰も生きることへの疑いを持つことなく生きることができた。今は声が聞こえなくなって、誰もが戸惑っている。どうして自分はここにいるのか、どうしていけばいいのか。耳の奥で消えた最後の言葉だけを頼りに、それぞれの道を歩んでいる。自由が与えられることは絶望か、希望か。わからない。わからなくても、ミイは希望を見たかった。また夢を見たかった。
「もっと早く教えてほしかったわ」
女人の声は震えていた。失望して怒ったのかと、ミイは珠を握りしめて、胸元に寄せた。でも女人は震えながら、袖を涙で濡らしすすり泣いた。
「そんなことを考えていたなんて」
「……」
「じゃあ、今までの私たちはどうなるの」
と女人は呟いた。もし本当に生きているのだとしたら、死んだと思って行動していたのは、星に対しての裏切りになるのだろうか。傷つけたくないと願っているのに、傷つけてしまうのが、人間という生き物なのだろうか。
「それは……」
「ねえ、ずっと思っていたのだけど、一度間違えたら終わりなの? どんなに努力しても許されないの?」
ミイは答えられなかった。無知でわずかな力しかない自分に、何ができるというのだろう。真実はこれだと言い切る自信がないのなら、ただ指し示されたものを頼りに信じるしかない。誰もが星の夢を叶えようとしている。今までのように。そして結果として、それぞれの道を歩んでいる。それを星は望んでいたのだろうか。そうかもしれない。これから訪れる人生が長いのか、短いのかはわからない。でも絶望よりは、希望を見ていた方が、きっと幸せに近いのだから。
「もう一度やり直しましょう。星が回り続ける限り」
だからミイは顔を覗き込ませて、決して大きくはない声で言った。
これがミイにとって、始まりの日だった。
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